●小・中9年制
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欧米では、教育の自由化は、予想
以上に進んでいる。
学校で教えるカリキュラムすら、
それぞれの学校が独自で決めている。
アメリカでは、公立学校であっても、
入学年度を、自由に決めている。
PTAの権限も、日本のそれとは比較に
ならないほど強い。教師の任命権
すら、もっている。つまりPTAが、
「あの教師は不適格」と判断すれば、
その教師はクビになる。
大学教育にしても、単位の共通化は、
今では、常識。EU(ヨーロッパ)
では、完全に共通化されている。
つまりどこの大学で、どのように勉強
しようが、単位さえ集めれば、それで
大学の卒業資格が与えられる。
こうした流れをみると、日本の教育
改革は、50年は遅れた。
けっして大げさなことを言っている
のではない。
私が学生だった1970年のオーストラリア
においてですら、単位の共通化は、
常識だった。
たとえば、メルボルン大学で、1年、2年を
過ごし、そのあと北京大学で1年勉強すれば、
帰国後は、4年生になれた。
アメリカでは、公立、私立を問わず、
転籍、転学は自由。日本でたとえれば、
1年と2年は早稲田大学で過ごし、3年目
からは静岡大学へ転籍できる。そういうことが
平気でできる。
もちろん学部の変更も自由。法学部で入学
し、そのあと、工学部へ転学するというよう
なこともできる。
教育再生会議は、今度、「小・中9年制」
の検討を答申したが、「今ごろねえ……」という
のが、私の実感。
こうした諮問会議で注意しなければならないのは、
たいてい座長と呼ばれる人は、それなりの権威者。
つづくメンバーは、「どうしてそういう人が
選ばれたかもわからない」(T教授)という、
文科省寄りのYESマンばかり。
議案も進行も、すべて役人のお膳立てによって
進められる。
諮問機関そのものが、お役人の(お墨付き機関)
として機能することが多い。
お役人は諮問機関で出された答申をもとに、
あとは「控えおろう」「下に……!」と、
あとは自分たちのしたい放題。
教育再生会議がそうだとは思わないが、そういう
疑いの目は、じゅうぶんもって見たほうがよい。
そういう中で生まれた、「小・中9年制」である。
つまり「地域の実情に応じて、4・3・2などと、
学年のまとまりを設ける」(日経)と。
この「地域の実情」という部分が、クセモノ。
おかしい。何かヘン。何かを隠している?
それについてはまた別の機会に考えるとして、
数字的な制度だけをいじっても、意味はない。
ほんとうに日本の教育を再生させようとするなら、
たとえばPTAの権限を強化するとか、そういう
内部部分の改革を目指さなければならない。
教師の任命権、解雇権まで踏み込む。
それに日本のような(格差社会)で、いくら
教育改革を唱えても、無駄。親たちは日常的な
生活を通して、その(格差)をいやというほど、
思い知らされている。
この(格差)があるかぎり、たとえば進学競争
はなくならないだろう。つまり、教育改革を
いくら唱えても、親たちは、進学率だけを見て、
学校の優劣を決めてしまう。また進学率が
あがるような制度を求めてしまう。
現に今、中高一貫校は、そういう流れの中で
動いている。
福田首相は会議の冒頭、「注目を集める会議と認識している。
国民全員が関心を持っている話題であり、
建設的な議論をしていただきたい」と求めたという(同)。
ほんとうかな?
子どもをもつ親たちが注目しているのは、
どうすれば自分の子どもが、進学競争に
有利になるかということ。
ついでに、教育再生会議では、大学への
飛び級入学についても議論されているという。
これについても、一言。
たとえばアメリカでは、原則として、
小中学校でも、無学年制。どこの学校へ
行っても、学年という「数字」はない。
教室の前にあるのは、そのクラスの責任者
である、教師の名前だけ。
飛び級を自由化するためには、同時に、
「落第」に対する意識を変えなければならない。
アメリカでは、先生が、「お宅の子を、
もう一度、ヒロシ教室で教えます(=落第
させます)」と言うと、親たちは、喜んで
それに従う。
落第ということが、日常茶飯事になされている。
飛び級というのは、その反射的効果として
浮かび上がってくるもの。
「飛び級」という片輪だけを論じても意味は
ない。
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以前、書いた私の原稿(中日新聞
発表済み)を載せる。
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家族の心が犠牲になるとき
●子どもの心を忘れる親
アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。
アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな相談があった。
何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか?
●明治以来の出世主義
日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。
が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。
●家事をしない夫たち
二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当しているケースは、わずか一%でしかなかったという。
子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たっ
たの三%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。
内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男
性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。
仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。
●家族主義
かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。
たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。
●変わる日本人の価値観
それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているのではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきことばかりではない。
九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。
たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。
そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。
※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だという(二〇〇一年一一月)。
※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意してほしい。
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(資料)(日経ニュースより)
●教育再生会議が福田政権で初会合、「小・中9年制」検討で一致
教育再生会議(野依良治座長)は10月23日、首相官邸で福田政権発足後初めての総会を開き、論議を再開した。柔軟な教育カリキュラムを編成できるようにするため、現行の小中学校の「6・3」制を見直し、9年制の義務教育学校の創設などを検討することで一致した。
教育再生は安倍晋三前首相が憲法改正などと並んで掲げた重要政策の一つ。安倍氏の辞
任で論議が中断していたが、福田首相は冒頭「注目を集める会議と認識している。国民全員が関心を持っている話題であり、建設的な議論をしていただきたい」と求めた。
学校制度の見直しは小中一貫の9年制学校をつくり、地域の実情に応じて「4・3・2」などの学年のまとまりを設ける案を軸に検討する方向。大学への飛び級入学を促進するため一段の要件緩和を進める必要があるとの意見も相次いだ。
一方、年末を予定していた三次報告のとりまとめ時期を巡っては「もっと時間をかけるべきだ」との異論も出た。
以上、Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●ゆとり教育
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ときとして外国から日本を
ながめたほうが、日本のことが
よくわかる。
日本の(ゆとり教育)が始まった
とき、それをまっさきに喜んだ
のが、隣の韓国。
そして今回、その(ゆとり教育)が
見直されることになった。
それにもっとも危機感を抱いて
いるのも、隣の韓国という
ことになる。
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●東亜N報の記事より
まず、韓国の東亜N報が、書いている記事をそのまま紹介する。日本の実情を、かなり客観的にながめている。興味深い。参考になる。
+++++東亜N報(10・29日より)++++++++
日本の中央教育審議会(中教審)は、中間報告書で、ゆとり教育が難関にぶつかった原因を分析し、「授業時間を大幅に削減したため、基礎知識を十分に習得できなくなり、思考力と表現力も育てることができなかった」などの反省項目を列挙する予定だ。
中教審は96年から、思考力や表現力、思いやりなど、「生きていく力」を育成することを公教育の目標として提唱してきた。
02年から施行された現行の学習指導要領は、詰め込み主義教育を改善するという名分によって、小中学校の学習内容を以前より約30%削減し、授業時間も約10%減らした。
中間報告書の反省項目には、授業時間の削減のほかにも、△「生きていく力」の概念と必要性を教師と父兄に十分に説明できなかった、△子どもの自主性を尊重したことで、学生指導をためらう教師が増えた、△家庭と地域の教育能力が低下している事実を十分に把握できていなかったという内容などが含まれるもようだ。
中教審は、ゆとり教育が難関にぶつかった原因の一つとして、「ゆとり」を強調しすぎたため、教師が、基礎知識を教えることまで詰め込み主義教育と誤って理解した点を挙げた。
文科省が提出し、中教審が現在審議中の学習指導要領改正案は、英語、国語、数学などの
主要科目の授業時間を10%増やし、選択科目を大幅に縮小する内容を盛り込んでいる。
文科省は、このように事実上ゆとり教育を廃棄する方向に政策を旋回しながらも、公式的には「ゆとり教育の理念は間違っておらず、運用上の問題にすぎない」と主張している。
にもかかわらず、諮問機構である中教審が「反省文」を発表するのは、誤った点を具体的に説明しなければ、一線の学校が教育政策を転換する理由を十分に理解できないと判断したためだ。
+++++++++以上、東亜N報記事より+++++++++++
ゆとり教育が始まったとき、おおむね、教科内容は、1年レベルがさがった(小学校)。楽といえば、楽。教えるのが、ほんとうに楽になった。
しかしそれも、2年はつづかなかった。3年目に入ると、それが(当たり前)になり、教える側からすると、その(楽)が消えた。
が、私の教室では、今でも、ゆとり教育の始まる前のカリキュラムで教えている。たとえばかけ算にしても、小2の夏休み前から、教えている。が、ゆとり教育では、10月から教えることになっている。小2の算数だけを見ても、3~4か月、後回しになったということになる。
で、その(ゆとり教育)が見直されることになった。当然である。日本を包む国際環境がきびしさをます中、それに逆行する形での(ゆとり教育)である。当時の韓国は、「これで日本を追い抜かせる」と喜んでいた。
が、それでほんとうに子どもたちに(ゆとり)ができたかというと、それは疑わしい。たとえば私立中・高学校では、文科省の示すカリキュラムを無視した授業が始まるようになった。
現にこのあたりの私立中学校では、英語にしても、公立中学校よりも、6か月から1年、先取りの教育を展開している。数学にしても、そうだ。(中学1年生で、関係代名詞の勉強をしているところもあるぞ!)
それまではというと、私立中・高校は、公立中・高校の受け皿的な存在だった。が、今は、完全に逆転している。公立中・高校が、私立中・高校の受け皿的な存在になってしまった。つまりその分、受験競争がはげしくなった。子どもたちは、小学4、5年制から、進学受験予備校に通うようになった。
文科省のおかしな制度いじりが、(東京という中央では、それなりにうまく機能していたのだろうが)、地方の教育を、今、こうして混乱させている。まずもって、文科省は、それに気づくべき。反省すべき。
さらに学校の教師にしても、忙しさのあまり、悲鳴をあげている。それについて書いた原稿が、つぎのもの。
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●忙しくなる、教師の世界
私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいてい、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。
その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教材を用意したりしていた。
しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。
このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1~2時間になってしまったという(某、小学校校長談)。
だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、めったにない、
「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。
この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。
余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこのところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰るのは、毎晩、7時、8時だという。
何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1~2人の自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20~30人も、1人の先生に押しつけて、「何とかしろ!」はない。
さらに一言。
1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、激化する様相さえ見せ始めている。
私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、みなさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学指導 詰め込み教育)
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バネというのは、ゆるめるのは簡単。しかし一度ゆるんだバネは、もとには戻らない。あるいは戻すのに、何倍もの時間と努力が必要。「主要科目の授業時間を10%増やし、選択科目を大幅に縮小する内容を盛り込んでいる」というが、そうは、うまくいくものか?
教育というのは、20年先、30年先を見ながら組み立てる。今、改革しても、その効果が現れるのは、20年後、30年後。
文科省の改革(?)は、どれも後手後手という感じがしないでもないのだが、そう思うのは、はたして私だけだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 審議会 バウチャー制度 教育の自由化)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司