最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●進学

2009-01-24 11:24:29 | Weblog
●進学



 よい高校から、よい大学へ。そしてよい就職先へ。しかし人間というのは、そんな単純なもの
なのか? 



 何も考えない。何も疑問に思わない。どこか単純な子どもには、そういうコースもあるのだろう
が、しかしすべての子どもに、それを押しつけてはいけない。



 むしろ自分で考える子どもは、こうしたコースから自ら、はずれていく。それは子ども自身に
問題があるというよりは、そうした多様性に応ずることができない、システムのほうに問題があ
るとみる。



 二男の例を出して恐縮だが、二男は、この地元でも、A、B、C、D、E……ランクの中でも、E
ランクの高校を卒業している。それにはいろいろないきさつがあるが、このクラスの高校になる
と、国立大学へ進学する子どもどもは、数年に、一人いるかいないかという程度になる。



 しかし二男の能力は、私は認めていた。だから二男がEランクの高校へ入学すると決めたと
きも、すべて二男に任せた。



 が、この日本では、このあたりで人生のすべてが決まってしまう。事実、高校を卒業するとき
になって、二男には、進学できる大学がなかった。それでアメリカへ渡ったが、はからずも、私
はここで日本とアメリカの教育システムの違いを、思い知らされるところとなった。



 アメリカでは、やる気と力があれば、人生のどの段階からも、そこを基盤として、前に伸びる
ことができる。二男は、私立大学で二年間学んだあと、今度は、州立大学へ移った。そしてそ
こで学位を得て、卒業した。



 こういうことは、日本では、可能なのか? 答えは、「NO!」



 名もない小さな私立大学へ入った学生は、その段階で、いくら猛勉強しても、すべてそこま
で。そのあと国立大学へ移籍するなどということは、常識で考えてもありえない。その「ありえな
い」という部分に、日本の教育の最大の欠陥がある。



 二男は、幼いころから、自分で考えて行動する子どもだった。私も、意識して、それを助け
た。伸ばした。しかしこういう子どもは、この日本では、損をすることはあっても、得をすることは
何もない。従順に体制に従う子どもほど、この日本では得をする。またそういう子どもほど、生
きやすい環境が、すでにできあがっている。まさに官僚主義国家と言われる理由は、こんなと
ころにもある。



 今、その二男を思いやりながら、ときどき、こんなことを考える。もしあのまま二男が、日本に
いたら、二男はどうなっていたか、と。コンピュータについては、天才的な思考能力をもってい
たが、今ごろは、どこかのパソコンショップで、パソコンの販売をしているのが、関の山ではな
いか、と。



 事実、二男は、小学三年生のときには、すでに自分でベーシック言語使って、ゲームを作っ
て遊んでいた。中学一年生のときには、C言語をマスターし、高校生のときには、アンチウィル
スのワクチンを自分で開発して、どこかのソフト会社に送っていた。



 日本には、そういう子どもを伸ばすシステムがない。同時に、勉強しかしない、勉強しかでき
ないような、どこか頭のおかしい子どもほど、得をする。スイスイと受験競争という階段をのぼ
っていく。こういうシステムの中で、いかに多くの日本人が、社会の底辺にうずもれたまま、損を
していることか。しかしそれは個人の「損失」というよりは、社会そのものの「損失」と考えたほう
がよい。



 教育を否定してはいけない。しかしそれと同じほど、教育を盲信してはいけない。盲信して、
学歴信仰や、学校神話に陥(おちい)ってはいけない。人間は、そんな単純なものではない。ま
た、単純であってはいけない。そしてそれを受け入れる教育システムは、もっと大胆に、多様化
すべきである。でないと、本当に日本の未来は、このまま、終わってしまう。



 たとえばアメリカの小学校では、クラス名(ふつうはその教室を管理する教師名)はあっても、
学年はない。中学校でも単位制度を導入している。学校へ行かないホームスクーラーも、二〇
〇万人を超えたとされる(〇二年末)。また四、五年の飛び級を繰りかえし、大学で学んでいる
子どももいる。



 その大学にしても、入学後の転学、転籍は自由。学科、学部の、スクラップ&ビュルドは、自
由。そうそう公立小学校にしても、学校が独自にカリキュラムを組んで教えている。ほかにチャ
ータースクール、バウチャースクールなどもある。



 ドイツでは、大半の中学生は午前中だけで授業を終え、あとはクラブに通っている。ヨーロッ
パ全域では、大学の単位は、ほぼ共通化された。今では、日本のように出身大学にこだわる
学生は、ほとんどいない。いないというより、こだわっても意味がない。



 世界は、そこまできているというのに、この日本は、いったい、何をしている? いまだに地方
新聞の中には、「我が母校」「母校の伝統」だとか何とか、意味のない記事を連載しているのが
ある。江戸時代の身分制度が、あるいは家元制度が、母校意識に置きかえられただけ?



 ……というのは、少し言い過ぎだが、しかしこれだけは言える。



 生きザマには、コースなど、ない。人間よ、日本人よ、生きる原点にもう一度立ちかえって、
教育システムを、見なおそうではないか。

(030914)



【追記】

 静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校でのこと。



 それくらいの進学高校になると、それぞれの部活にも、OB会というのがあって、総会のたび
に、壇上に、そのOBたちが、ズラリと並ぶ。そして言わなくてもいいのに、「私は○○回の卒業
生です」などと、自己紹介をする。



 かわいそうな人たちだ。あわれな人たちだ。自慢するものがないから、学歴をひけらかして、
生きている? 学歴にしがみつきながら、生きている? あるいは士農工商の身分制度が、学
歴制度に置きかわっただけ? いろいろ考えられるが、こうした封建時代の亡霊はまだ、日本
のあちこちに残っている。



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これに関連して、以前、こんな原稿

(中日新聞掲載済み)を書きました。

ここに再掲載します。

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常識が偏見になるとき 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。




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