想い出の時を刻む

趣味を楽しみながら、今日の思いや出来事を綴り、想い出として残していく日記

阪神淡路大震災ーもうひとつの記憶

2015年01月18日 | 時事

  昨日は阪神淡路大震災が起きてから20年になる日である。テレビ、新聞をはじめマスコミがこぞって震災の特集番組や記事を書いていた。そして、みんな声を揃えて震災の記憶を風化させてはならないと訴えていた。

 

 

 ごもっとな話だ。しかし私は今日ここで、マスコミの様々な報道とは別にあまり語られたり、取り上げられていないひとつの話をしたいと思う。それは、被災した日本人たちを助けてくれた外国人の話である。

 

 当時、私は会社の要請で震災当日からボランティア活動に参加し、多くの被災者の方の救済と生活の再生のため3か月余り現地で働いた。

 

 そうした、活動のなかで、私はある人に出会い驚く話を聞かせてもらった。それは被災した日本人たちを助けるため在日の朝鮮人たちが日本人、朝鮮人の区別なく救援活動を行こなった話だ。

 

 神戸市には在日朝鮮・韓国人一世たちが建てたと云う2つの朝鮮学校があると知らされたが、そのうちのひとつ東神戸朝鮮初中級学校という所を私が訪れた時であった。私はそこで自宅が崩壊し学校に避難して来ていた、当時自治会副会長していた北川嘉広さんという方にお会いし話を聞く機会があった。

 

 朝鮮学校の存在すらよく知らなかった私はそこに日本人が居るだけでも驚きであったが、北川さんの話を聞いてもっと驚いた。

 

 北川さんによれば自分の自宅前に朝鮮学校があるのは当然知っていが、戦前の軍国主義教育を受けたため自分はどうしても朝鮮人に対する差別意識があり、たった3メートルしか離れてない、目の前の朝鮮学校に一度も足を踏み入れたことがなかったそうだ。ところが地震が起きて自宅が壊れ、九死に一生を得て、やむなく飛び込んで行ったのが、皮肉なことに向いの朝鮮学校だったそうである。

 

 命からがら避難した朝鮮学校では、自分たちを温かく向かえ入れくれて、何もなかったそんな状況でも、避難して来た住民たちに熱いお茶とおにぎりを提供してくれたのが北川さんにとって無性にありがたかったそうだ。まさか差別していた人達に助けられるとは不思議な運命だとも言っていた。その後も北川さんは学校に留まり避難生活を続けたのだが、その間も炊き出しで食事を提供してもらい、届いた救援物資で生活必需品を揃えてもらうなど本当に親切にしてもらい、その過程で在日の方に対する考えが大きく変わってしまったと笑いながら話なされていた。

 

   当時のエピソードだが北川さんは混乱した避難生活が続く中、自分の誕生日を迎えたのだが、驚いたことにどこで調べてきたのか在日の若いボランティアたちがサプライズで、誕生ケーキとプレゼントまでしてくれたと涙ながらに話していたのを今でもはっきり覚えている。(後に聞いた話だが北川さんはそのプレゼントの品物を大切に保管しておき、亡くなった時に棺に必ず入れてほしいと遺族に言い残していたそうである。)

 

 

 あれから20年が過ぎ、当時の事を思うと忘れられない記憶が沢山あるが、北川さんの話はいまだに忘れられない記憶として私の脳裏に焼き付いている。

 

  しかし、こうした話は今ほとんど知られていないしマスコミも取り上げない。なぜだろか?(私の記憶では当時、地元紙やいろんなマスコミがこの事実を結構報道をしていたのだが・・・)

 

 北川さんはその後、病気で亡くなられたと聞いている。震災後20年がたち神戸の街は素晴らしい復興をとげたが、そこには被災者の救援と生活の再生のため、日本人と同様に在日朝鮮・韓国人たちの民族を分け隔てない親身になった救援活動があったと云う事も私たちは決して忘れてはならないし、語り継がれなければならないと思う。

 


1 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-01-18 13:36:16
共感します。全く仰る通りです!昨日17日西神戸学生と真野小学校と仙台の市立学生招いて真野小学校地区自治体主催記念行事参加しましたが、正直西神戸に被災地求めお世話になられた方々の話も有ればと少し寂しさを感じたものの、学びが沢山あって帰りました~貴方様さんヶ月間ボランティアで帰宅してない間家族は心配されたことでしょう
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