想い出の時を刻む

趣味を楽しみながら、今日の思いや出来事を綴り、想い出として残していく日記

母を想う

2015年01月09日 | 介護

 私の母は今年で満94歳になる。現在、通所介護施設に通っている。

 母が施設のお世話になったきっかけは、2年程前家で転倒し大腿骨を骨折してしまったからである。

 それまで、年齢の割には比較的元気で、あまり世話をすることはなかったが、病院から退院してきてからは、段々と体力の衰えが目立ちはじめ歩行も困難となり、結局介護施設にお世話になることになった。

  母の通う施設は小規模多機能の通所介護施設で家から車で10分ほどの場所にある。施設の収容人員が少ないのでヘルパーさんたちの目が隅々までいきわたり、みんな親切に面倒をよくみてくれてすごくありがたい。以前は夫婦共働きの状態だったので、どうしても母の面倒をみきれなかったが、そんな時に母を預かってくれたのでどれ程助かったことか。

 



 


 最近は母も施設に通うのが嬉しいのか、休みの日に家に居るときも、施設に行きたいとせがみ、こちらを困らせるほどである。

  だが、毎日家で過ごす朝と夜に母の面倒を見るのが大変だ。

 以前の仕事を昨年6月に退職した私も、少し時間の余裕ができたので、最近は出来る限り母の面倒を見るように心がけているが、幼子のように甘えたり、我が儘を通されたりすると、世話をするのも大変である。(実際は大したことは何もしてないけど・・・)

 



 そんな時、今更ながら妻のすごさに感心させられる。結婚後これまで長年にわたり私の両親と同居しながら家事全般をこなし、子育てもしながら、学校の先生として教員生活続け、今も老いた母を支えて毎日いろんな世話をしているが、それがどれほど大変か、身に染みて感じさせられた。こんな思いのせいか、最近は妻のありがたさが痛感され、だんだん頭が上がらなくなってきた。

 また、年老いた母の介護をする、私たち夫婦を思いやり、手助けをしてくれる、姉や親戚たちを考えると本当にありがたく感謝しても足らないぐらいである。

 以前より母と一緒にいる時間が長くなったせいか最近、わたしは母への思いを強く抱くようになった。

 今は、かつて元気だったころの面影はなくなってしまったが、母の姿を見るにつけ、人として、女性として生きてきた母の人生とはどんな人生だったのか考えさせられる。

 

 

 世間では90幾つも生きれば長寿だと言われ、年齢だけが注目されがちだが、私は、肉体的年齢よりも、むしろその人がこれまで歩んできた人生と歴史に思いを巡らせ、様々な経験を積み重ねながら一生懸命に生きてきた、その人の人生から多くを学びとることが大切であると思うし、それが人生の大先輩を尊厳をもって接する基本的な姿勢だと思う。

 さもなければ、下手をすると高齢者を子供たちや回りの人たちに迷惑をかける、ただの厄介者として扱ってしまうかもしれないからだ。

 そうした意味で、私の母は決して特別な人でもなく、普通の人であるが、これまで生きてきた波乱万丈の人生に思いをはせると、母がすごく立派な人に思えるし、尊敬の念も湧いてくる。

 今の時代と違って戦前、戦後のあの激動の時代を力強く生き抜き、子どもたちを無事に育てあげ、家族を守り、社会と関わってきた母の人生を通して、わたしはその強靱な意志と精神力はすごかったと思うし、平和な時代に自由に生きてきた私たちには決して真似のできない人生を歩んできたと思う。

  それ故に今、母が私の傍らで一人ぽつりと座り、何かを見つめている姿を見ると、母の脳裏に何が想い浮かびあがっているのか想像されて仕方ない。

 



  たぶん、遠い過去へ想いをはせ、その時々の出来事や家族や友人、そしていろんな人々の姿が走馬灯のように想い浮かんでは消え、また浮かんでは消えたりしていると思う。


 母も最近は、少し意識が朦朧としてきて、何か世話をするにしても随分手がかかるようになったが、長年苦労してきた母を労わるため、ただ親の面倒を見る介護ではなく自分のできる限り精一杯の親孝行をしてあげたいと思う今日この頃である。