おはようございます。
私は、佐野眞一という作家が大好きです。
あの有名な『東電OL殺人事件』、ダイエーの中内功氏の知られざる恥部まで切り込んだ『カリスマ』、最近月刊プレイボーイ誌に連載中の『沖縄コンフィデンシャル/戦後60年の沖縄を作り上げた怪人たち』など、その緻密な取材力がどの作品にもいかんなく発揮されているわけですが、圧巻なのがこの『阿片王 満州の夜と霧』です。
(※写真は本の主人公の里見甫。アレンダレスの時も書きましたが、この顔つきが全てを語っています)
自分の場合、映画にしろ本にしろ、好きな作品を何回も繰り返して見たり読んだりするわけですが、この本はもう10回以上読んでいます(笑)。夜、寝る前にお香を焚いてリラックスしながらベッドの上で読むのが、最高に気持ち良いのです。
その理由は二つあります。
一つは、実在の人物である里見甫の生き方が豪快そのもで、その美学が潔く魅力的であること。もう一つは、作者の佐野眞一が主人公に愛情を持ちながらも、極めて客観的なスタンスで緻密にその人物像を描いていることです。
そのポイントを、いくつか御紹介したいと思います。
◆魔都放浪
大物政治家から将官クラスの高級参謀、満州国のエリート官僚から辣腕ジャーナリスト、はては身分を決して明かさない特務機関から得体の知れないごろつきまで、底知れない闇を孕んだ広大無辺の人脈を築きあげた里見は、どんな人生を送り、「阿片王」と呼ばれるまでになったのか。(※中略)
当時里見は、その時点で百年以上の歴史を持ち、広田弘毅や中野正剛、緒方竹虎など錚々たる政治家を輩出した名門修猷館中学の5年生だった。(※中略)
同文書院卒業生の進路は、およそ三つにわかれる。外交官、商社マン、ジャーナリストの三コースである。
だが、同文在学中の4年間終始ビリから2番で通し、授業の欠席も一番で、欠席大将と仇名されたという里見の前に、こうしたエリートコースの道は開かれるはずもなく、大正5年(1916年)に同文書院を卒業(13期)した里見は、青島の新刊洋行という名もない貿易商社に勤めた。(※中略)
<何しろ当時は、売ってももうかり、買ってももうかるという時代だったから、大いに消費した。芸者を身請けすること数十名というのだから、ずいぶん激しい遊びをしたらしい。しかし、友人たちが「里見は羊かんをつまみながら芸者買いをする」などというほど生来一滴のアルコールも飲めない体質だった。
その彼が芸者を引かしては国元へ帰してやるという奇特なことを繰り返しているうちに、ある日まだ16、7歳の売られてきたばかりの芸者が初座敷に顔を出した。「お前、まだ小さいのにこんなところにいてはいけない。引かしてやるから国へ帰れ」というと、その芸者が「国へ帰ったら、また売られる」というので、「それじゃあ仕方がないじゃないか」というわけで、手許におくことにした。そうするうちにいつの間にか細君になってしまった>
<角海老はどれだというと、あれだと教えてくれたのを見るとなるほど大きい。牛太郎が調子の良い声をあげてむかえ入れてくれた。嚢中40~50円もあったか、それを玄関口で全部出して、明日から労働者になるのだから、ハッピを買う金さえあればよいから一晩たのむというと、冗談おっしゃるとか何とかいってゴテゴテしたが、とにかく上げてくれた。
その夜の相方は千鳥といってもててもててよかったが、朝になってハッピを買ってこいといっても流石に買ってくれないので、自分で出て行って買って来たが、これがいけなかった。腹がけ、ドンブリなどチグハグなものだが、こっちはそんなこと知りもしない。これを着て出ようとすると、玄関からは都合が悪いというので、裏から出た。>(※中略)
まるで江戸落語そのままの話である。里見の思い切りの良さと、金離れの良さはこの時代からすでにはじまっていた。
里見はその後、東京で1、2位を争う貧民窟といわれた下谷万年町の質屋の軒先を借りた一畳間の掘っ立て小屋に住みつき、日雇労働者となった。
◆アヘンの国
アヘンはケシの花からつくられる。東ヨーロッパが原産のケシは5、6月頃、直径10センチほどの花を咲かせる。色は白が多いが、赤や紫もある。花は一日でしぼみ、その後楕円状の固い果実ができる。その表面に小刀で傷つけると、乳液状の分泌液が出てくる。これをまず小さな壷に集め、大きな藁に移しかえて天日でさらし、固形化したものがアヘンである。(※中略)
37歳の満州炭坑社員も、売春窟で朝鮮女に勧められるままアヘンを吸飲した。
<その女のいうことには、阿片又はヘロインを吸って、1時間位の後に性的交渉があれば、全く想像以上の以外の天国に遊ぶようになると盛んに宣伝するので、遂好奇心にかられて之を用いる気になり、女と共に吸ったのであります。
この女のいう様に、ヘロイン吸飲後2時間位で交渉のあったときが、非常に時間を長く要し私自身の経験では、感覚も鈍ではなく、天国に遊ぶ如く感じたのであります。刺激に富み、非常に快感を味わい、全く桃源郷に遊ぶというのはこの事かと自覚したのでありました>
この男も最後はアヘン中毒患者となった。
<あくびや涙は出るし、瞼はだるくて、目はくぼみ、実にみじめな姿でありました。寝たきりの状態になり、下痢や不眠もずっと続きました>(※中略)
アヘン戦争でイギリスのジャーディン・マセソン協会やサッスーン協会は、アヘン販売の利権を独占的に手中に収めることによって、巨万の富を得た。満州におけるアヘン暫禁主義と専売制度は、満州帝国経営の基礎的資金となったばかりか、特務機関や憲兵隊の豊富な謀略資金ともなった。(※中略)
満州から蒙古、南京から青島、さらにはペルシャにいたるまでの国際的アヘンコネクションを築いた里見は、宏済善堂を根城に、多いときは航空母艦一隻分の建造費にも匹敵するアヘン取引を行った。(※中略)
中国秘密シンジケートの青封、紅封と結託したこの支那服姿の日本人が、周囲からいかに“大物”と見られていたかは、戦後、GHQが、平和に対する罪を裁くA級戦犯として逮捕した民間人第一号が里見だったという事実に端的に語られている。
◆不逞者
里見とペルシャ産アヘンの関係については、戦後の東京国際軍事裁判で、里見自身が驚くほど正直に証言している。その詳細は後に譲るが、里見はそのなかで、宏済善堂がペルシャ産アヘンで儲けた利益は約二千万ドルにものぼったこと、宏済善堂の手取りマージンはアヘン取引の8パーセントだったことを明かしている。
宏済善堂がペルシャ阿片であげた2千万ドルという金額は、当時の為替ルートで換算し、現在の貨幣価値に直すと、30兆円近くにのぼる。(※中略)
上海に拠点を移した里見の許には、その岩田をはじめ、阿片という蜜に群がる毒蟻のように、いかがわしげな連中ばかりが集まってきた。上海時代に里見と知り合い、“芳名帳”にも連なることになる許斐氏利、児玉誉士夫、笹川良一、阪田誠盛、吉田裕彦(児玉機関副機関長)といった魑魅魍魎の顔ぶれは、さながら、戦前の上海から戦後日本に延びた地価人脈の様相を呈している。(※中略)
マキノが電話で言われた通り、里見の東京での定宿になっている帝国ホテルに駆けつけると、初対面の里見はこう言った。
「阿片はアングロサクソンの代わりにわしがやっとるんだ」
そして、こうつづけた。
「マキノくん、20万円やるから、上海へ来い。これはわしの罪滅ぼしだ。たしかに現在の阿片はわしが握っている。しかし、儲けてはいないんだ。『阿片戦争』という映画を上海で撮れ」
里見は、アヘン戦争で大量のアヘンを海中に沈めて敵のイギリスに対抗した林則徐の名前を出し、その林則徐を主人公にした映画をつくってくれ、とも言った。
里見はピアスアパートの部屋に風呂敷に包んだ札束をいくつも用意しており、それを目当てに訪ねてくる憲兵、特務機関員から大陸浪人にいたるまで、いつも気前よく呉れてやった。
昭和17(1942)年4月の翼賛選挙に立候補して念願の政治家となった岸信介もその一人だった。前出の伊達によれば、このとき里見は岸に200万円提供したという。
「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」(※中略)
誰いうとなくつけられた「阿片王」という、殺伐としておどろおどろしいニックネームを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。まわりの者はみな、親しみさえこめて、「里見のオッチャン」、「里見のおっさん」と呼んだ。(※中略)
「人は組織をつくるが、組織は人をつくらない」
里見は晩年、秘書役の伊達によく、そう言ったという。
◆上海の風雲
前に紹介した元上海憲兵隊特高課長の林秀澄の生前の談話に、里見の人となりがよく語られている。(※中略)
―里見さんの厄介にならなかった軍人さんはひとりもいなかったと言ってもいいんじゃないでしょうか。東条さんを叱りに行ったのは有名な話です。里見さんからお金をもらっているから、東条さんといえども文句が言えない。
軍が経済撹乱工作でニセ札を作ったとき、みんな怖がって使おうとしなかったのに、里見さんが軍の身代わりに使って、警察に捕まったことがあります。そういうときでも最後まで泥を吐かなかった。そんなわけですから、里見さんの前に出ますと、岸信介も頭があがりません。佐藤栄作も頭があがりません。(※中略)
「私は国通の主幹にへばりついているのはもういやだ。満州国を作ったのはいいが、しげしげ見ていると、日本の内地におった使い物にならんような連中ばかり連れてくる。こんな連中を早く追い返さんと、日本より程度の悪い国になるだけだ」
そう言って、この連中の首を全員切れというメンバー表をつくった。その筆頭になんと、里見さん自身の名前が入っていた。自分の名前をちゃんと書いて、「こういう人間がいるから時代遅れなんだ」と言って、自分は国通に残ろうとしなかった。(※中略)
ただ、戦後の電通に里見の息がかかった元国通マンや、旧同盟通信の社員が大挙して入社したことは事実である。さらにいうなら里見が国通の旗揚げによって、現在の電通の原型をつくる働きをしたことに思いをいたすならば、塚本の電通入社に里見の力が働いていたとしても何ら不思議はない。(※中略)
里見の女性関係については、松本重治も前掲の『われらの生涯のなかの中国』のなかでこんな談話証言をしている。
「里見君は、女道楽は百人斬りとか、百五十人斬りとか言って自慢だった。だけども本当に無欲括淡でね、それで食べ物だって、ハムエッグしか食べないんだよ。朝でも、晩でも何でもハムエッグ。それでシガレットはもう最高のアメリカや、イギリスのものを喫ってんだ。他に道楽は、何もないんだ」
◆孤高のA級戦犯
巣鴨プリズンにおいて里見の尋問が始まったのは、逮捕から4日目の3月5日の午前10時30分からだった。(※中略)
Q:結婚はしていますか
A:はい
Q:奥さんはどこに住んでいますか
A:東京都淀橋区西落合293番地です。
Q:今も奥さんと結婚し、一緒に暮らしていますか
A:はい。今も結婚していますが、住んでいるところは別です
Q:あなた自身の子供はいますか
A:いいえ
Q:現在、2号はいますか
A:大勢いますが、特定の女性はいません
愛人問題を尋ねられ、ここまで堂々と答えたA級戦犯容疑者は、けだし里見くらいのものだろう。(※中略)
Q:1931年に関東軍参謀本部で民間人として働くようになった後も、特務機関とその活動についてはいろいろ知っていたわけですね。
A:質問傾向から判断すると、あなたは特務機関の活動を非常に重視しているようですね。しかし、私自身が観察したところによれば、特務機関はあなたが考えるほど有能だったわけではありません。有能な指揮官に率いられている時は確かに有能でしたが、それ以外の時は、単に大佐や高級武官に率いられた、統率のとれていない軍人の集まりに過ぎませんでした。(※中略)
里見の晩年の秘書的存在だった伊達弘視氏によれば、里見が東京裁判で起訴されずに釈放されたのは、アメリカとの司法取引があったからだという。
「CIAは里見が持っていたアヘン売買のノウハウや、少数民族を手なずける」ための宣撫工作のノウハウを欲しがっていたと思う。その証拠に、ベトナム戦争のとき、CIAはアヘンを使って小数民族をアヘンで買収しようとした。それによって、原住民の情報を全部吸い上げようとしたんだ。ただ、アヘン工作が里見ほどうまくなかったから、結局失敗に終わってしまったが」(※中略)
昭和40年(1965)年3月21日午後11時50分、里見は新宿区西五軒町で借家で、家族と談笑中、心臓麻痺に襲われ、そのまま不帰の客となった。69歳だった。戦後ずっと信心してきた熊本の祖神道本部から帰京して2日後の、突然の死だった。
戦前、戦中から戦後までのびた満州、上海の空前の人脈を物語るように、通夜は3日3晩続いた。贈られた花輪のなかには、満州と上海で浅からぬ関係にあった岸信介や佐藤栄作からの花輪もあった。
あまりにも面白いのでかなりの長文になってしまいましたが、この作品が単にノンフィクション作品にとどまらず、一級の歴史資料にもなっていることは注目すべきだと思います。
この作品を書いた作家の佐野眞一は、最後にこう語っています。
「E・H・カー、柳田國男と並んで、ノンフィクションを書く際、私が座右の銘としてきた言葉を、ここでもう一つあげておきたい。ジャン=リュック・ゴダールをはじめとするヌーベルバーグの映画作家たちに大きな影響を与えたフランスの映画理論家でドキュメンタリー映画の実作者でもあったアンドレ・バザンの言葉である。
―私は補虫網を使わない。素手で蝶々をつかまえる―
この非常に美しい言葉のように、先入観や固定概念という補虫網を使わず、満州という巨大な蝶々を、というより巨大な毒蛾を、自分の素手のなかにつかみ取りたかった」
私は、佐野眞一という作家が大好きです。
あの有名な『東電OL殺人事件』、ダイエーの中内功氏の知られざる恥部まで切り込んだ『カリスマ』、最近月刊プレイボーイ誌に連載中の『沖縄コンフィデンシャル/戦後60年の沖縄を作り上げた怪人たち』など、その緻密な取材力がどの作品にもいかんなく発揮されているわけですが、圧巻なのがこの『阿片王 満州の夜と霧』です。
(※写真は本の主人公の里見甫。アレンダレスの時も書きましたが、この顔つきが全てを語っています)
自分の場合、映画にしろ本にしろ、好きな作品を何回も繰り返して見たり読んだりするわけですが、この本はもう10回以上読んでいます(笑)。夜、寝る前にお香を焚いてリラックスしながらベッドの上で読むのが、最高に気持ち良いのです。
その理由は二つあります。
一つは、実在の人物である里見甫の生き方が豪快そのもで、その美学が潔く魅力的であること。もう一つは、作者の佐野眞一が主人公に愛情を持ちながらも、極めて客観的なスタンスで緻密にその人物像を描いていることです。
そのポイントを、いくつか御紹介したいと思います。
◆魔都放浪
大物政治家から将官クラスの高級参謀、満州国のエリート官僚から辣腕ジャーナリスト、はては身分を決して明かさない特務機関から得体の知れないごろつきまで、底知れない闇を孕んだ広大無辺の人脈を築きあげた里見は、どんな人生を送り、「阿片王」と呼ばれるまでになったのか。(※中略)
当時里見は、その時点で百年以上の歴史を持ち、広田弘毅や中野正剛、緒方竹虎など錚々たる政治家を輩出した名門修猷館中学の5年生だった。(※中略)
同文書院卒業生の進路は、およそ三つにわかれる。外交官、商社マン、ジャーナリストの三コースである。
だが、同文在学中の4年間終始ビリから2番で通し、授業の欠席も一番で、欠席大将と仇名されたという里見の前に、こうしたエリートコースの道は開かれるはずもなく、大正5年(1916年)に同文書院を卒業(13期)した里見は、青島の新刊洋行という名もない貿易商社に勤めた。(※中略)
<何しろ当時は、売ってももうかり、買ってももうかるという時代だったから、大いに消費した。芸者を身請けすること数十名というのだから、ずいぶん激しい遊びをしたらしい。しかし、友人たちが「里見は羊かんをつまみながら芸者買いをする」などというほど生来一滴のアルコールも飲めない体質だった。
その彼が芸者を引かしては国元へ帰してやるという奇特なことを繰り返しているうちに、ある日まだ16、7歳の売られてきたばかりの芸者が初座敷に顔を出した。「お前、まだ小さいのにこんなところにいてはいけない。引かしてやるから国へ帰れ」というと、その芸者が「国へ帰ったら、また売られる」というので、「それじゃあ仕方がないじゃないか」というわけで、手許におくことにした。そうするうちにいつの間にか細君になってしまった>
<角海老はどれだというと、あれだと教えてくれたのを見るとなるほど大きい。牛太郎が調子の良い声をあげてむかえ入れてくれた。嚢中40~50円もあったか、それを玄関口で全部出して、明日から労働者になるのだから、ハッピを買う金さえあればよいから一晩たのむというと、冗談おっしゃるとか何とかいってゴテゴテしたが、とにかく上げてくれた。
その夜の相方は千鳥といってもててもててよかったが、朝になってハッピを買ってこいといっても流石に買ってくれないので、自分で出て行って買って来たが、これがいけなかった。腹がけ、ドンブリなどチグハグなものだが、こっちはそんなこと知りもしない。これを着て出ようとすると、玄関からは都合が悪いというので、裏から出た。>(※中略)
まるで江戸落語そのままの話である。里見の思い切りの良さと、金離れの良さはこの時代からすでにはじまっていた。
里見はその後、東京で1、2位を争う貧民窟といわれた下谷万年町の質屋の軒先を借りた一畳間の掘っ立て小屋に住みつき、日雇労働者となった。
◆アヘンの国
アヘンはケシの花からつくられる。東ヨーロッパが原産のケシは5、6月頃、直径10センチほどの花を咲かせる。色は白が多いが、赤や紫もある。花は一日でしぼみ、その後楕円状の固い果実ができる。その表面に小刀で傷つけると、乳液状の分泌液が出てくる。これをまず小さな壷に集め、大きな藁に移しかえて天日でさらし、固形化したものがアヘンである。(※中略)
37歳の満州炭坑社員も、売春窟で朝鮮女に勧められるままアヘンを吸飲した。
<その女のいうことには、阿片又はヘロインを吸って、1時間位の後に性的交渉があれば、全く想像以上の以外の天国に遊ぶようになると盛んに宣伝するので、遂好奇心にかられて之を用いる気になり、女と共に吸ったのであります。
この女のいう様に、ヘロイン吸飲後2時間位で交渉のあったときが、非常に時間を長く要し私自身の経験では、感覚も鈍ではなく、天国に遊ぶ如く感じたのであります。刺激に富み、非常に快感を味わい、全く桃源郷に遊ぶというのはこの事かと自覚したのでありました>
この男も最後はアヘン中毒患者となった。
<あくびや涙は出るし、瞼はだるくて、目はくぼみ、実にみじめな姿でありました。寝たきりの状態になり、下痢や不眠もずっと続きました>(※中略)
アヘン戦争でイギリスのジャーディン・マセソン協会やサッスーン協会は、アヘン販売の利権を独占的に手中に収めることによって、巨万の富を得た。満州におけるアヘン暫禁主義と専売制度は、満州帝国経営の基礎的資金となったばかりか、特務機関や憲兵隊の豊富な謀略資金ともなった。(※中略)
満州から蒙古、南京から青島、さらにはペルシャにいたるまでの国際的アヘンコネクションを築いた里見は、宏済善堂を根城に、多いときは航空母艦一隻分の建造費にも匹敵するアヘン取引を行った。(※中略)
中国秘密シンジケートの青封、紅封と結託したこの支那服姿の日本人が、周囲からいかに“大物”と見られていたかは、戦後、GHQが、平和に対する罪を裁くA級戦犯として逮捕した民間人第一号が里見だったという事実に端的に語られている。
◆不逞者
里見とペルシャ産アヘンの関係については、戦後の東京国際軍事裁判で、里見自身が驚くほど正直に証言している。その詳細は後に譲るが、里見はそのなかで、宏済善堂がペルシャ産アヘンで儲けた利益は約二千万ドルにものぼったこと、宏済善堂の手取りマージンはアヘン取引の8パーセントだったことを明かしている。
宏済善堂がペルシャ阿片であげた2千万ドルという金額は、当時の為替ルートで換算し、現在の貨幣価値に直すと、30兆円近くにのぼる。(※中略)
上海に拠点を移した里見の許には、その岩田をはじめ、阿片という蜜に群がる毒蟻のように、いかがわしげな連中ばかりが集まってきた。上海時代に里見と知り合い、“芳名帳”にも連なることになる許斐氏利、児玉誉士夫、笹川良一、阪田誠盛、吉田裕彦(児玉機関副機関長)といった魑魅魍魎の顔ぶれは、さながら、戦前の上海から戦後日本に延びた地価人脈の様相を呈している。(※中略)
マキノが電話で言われた通り、里見の東京での定宿になっている帝国ホテルに駆けつけると、初対面の里見はこう言った。
「阿片はアングロサクソンの代わりにわしがやっとるんだ」
そして、こうつづけた。
「マキノくん、20万円やるから、上海へ来い。これはわしの罪滅ぼしだ。たしかに現在の阿片はわしが握っている。しかし、儲けてはいないんだ。『阿片戦争』という映画を上海で撮れ」
里見は、アヘン戦争で大量のアヘンを海中に沈めて敵のイギリスに対抗した林則徐の名前を出し、その林則徐を主人公にした映画をつくってくれ、とも言った。
里見はピアスアパートの部屋に風呂敷に包んだ札束をいくつも用意しており、それを目当てに訪ねてくる憲兵、特務機関員から大陸浪人にいたるまで、いつも気前よく呉れてやった。
昭和17(1942)年4月の翼賛選挙に立候補して念願の政治家となった岸信介もその一人だった。前出の伊達によれば、このとき里見は岸に200万円提供したという。
「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」(※中略)
誰いうとなくつけられた「阿片王」という、殺伐としておどろおどろしいニックネームを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。まわりの者はみな、親しみさえこめて、「里見のオッチャン」、「里見のおっさん」と呼んだ。(※中略)
「人は組織をつくるが、組織は人をつくらない」
里見は晩年、秘書役の伊達によく、そう言ったという。
◆上海の風雲
前に紹介した元上海憲兵隊特高課長の林秀澄の生前の談話に、里見の人となりがよく語られている。(※中略)
―里見さんの厄介にならなかった軍人さんはひとりもいなかったと言ってもいいんじゃないでしょうか。東条さんを叱りに行ったのは有名な話です。里見さんからお金をもらっているから、東条さんといえども文句が言えない。
軍が経済撹乱工作でニセ札を作ったとき、みんな怖がって使おうとしなかったのに、里見さんが軍の身代わりに使って、警察に捕まったことがあります。そういうときでも最後まで泥を吐かなかった。そんなわけですから、里見さんの前に出ますと、岸信介も頭があがりません。佐藤栄作も頭があがりません。(※中略)
「私は国通の主幹にへばりついているのはもういやだ。満州国を作ったのはいいが、しげしげ見ていると、日本の内地におった使い物にならんような連中ばかり連れてくる。こんな連中を早く追い返さんと、日本より程度の悪い国になるだけだ」
そう言って、この連中の首を全員切れというメンバー表をつくった。その筆頭になんと、里見さん自身の名前が入っていた。自分の名前をちゃんと書いて、「こういう人間がいるから時代遅れなんだ」と言って、自分は国通に残ろうとしなかった。(※中略)
ただ、戦後の電通に里見の息がかかった元国通マンや、旧同盟通信の社員が大挙して入社したことは事実である。さらにいうなら里見が国通の旗揚げによって、現在の電通の原型をつくる働きをしたことに思いをいたすならば、塚本の電通入社に里見の力が働いていたとしても何ら不思議はない。(※中略)
里見の女性関係については、松本重治も前掲の『われらの生涯のなかの中国』のなかでこんな談話証言をしている。
「里見君は、女道楽は百人斬りとか、百五十人斬りとか言って自慢だった。だけども本当に無欲括淡でね、それで食べ物だって、ハムエッグしか食べないんだよ。朝でも、晩でも何でもハムエッグ。それでシガレットはもう最高のアメリカや、イギリスのものを喫ってんだ。他に道楽は、何もないんだ」
◆孤高のA級戦犯
巣鴨プリズンにおいて里見の尋問が始まったのは、逮捕から4日目の3月5日の午前10時30分からだった。(※中略)
Q:結婚はしていますか
A:はい
Q:奥さんはどこに住んでいますか
A:東京都淀橋区西落合293番地です。
Q:今も奥さんと結婚し、一緒に暮らしていますか
A:はい。今も結婚していますが、住んでいるところは別です
Q:あなた自身の子供はいますか
A:いいえ
Q:現在、2号はいますか
A:大勢いますが、特定の女性はいません
愛人問題を尋ねられ、ここまで堂々と答えたA級戦犯容疑者は、けだし里見くらいのものだろう。(※中略)
Q:1931年に関東軍参謀本部で民間人として働くようになった後も、特務機関とその活動についてはいろいろ知っていたわけですね。
A:質問傾向から判断すると、あなたは特務機関の活動を非常に重視しているようですね。しかし、私自身が観察したところによれば、特務機関はあなたが考えるほど有能だったわけではありません。有能な指揮官に率いられている時は確かに有能でしたが、それ以外の時は、単に大佐や高級武官に率いられた、統率のとれていない軍人の集まりに過ぎませんでした。(※中略)
里見の晩年の秘書的存在だった伊達弘視氏によれば、里見が東京裁判で起訴されずに釈放されたのは、アメリカとの司法取引があったからだという。
「CIAは里見が持っていたアヘン売買のノウハウや、少数民族を手なずける」ための宣撫工作のノウハウを欲しがっていたと思う。その証拠に、ベトナム戦争のとき、CIAはアヘンを使って小数民族をアヘンで買収しようとした。それによって、原住民の情報を全部吸い上げようとしたんだ。ただ、アヘン工作が里見ほどうまくなかったから、結局失敗に終わってしまったが」(※中略)
昭和40年(1965)年3月21日午後11時50分、里見は新宿区西五軒町で借家で、家族と談笑中、心臓麻痺に襲われ、そのまま不帰の客となった。69歳だった。戦後ずっと信心してきた熊本の祖神道本部から帰京して2日後の、突然の死だった。
戦前、戦中から戦後までのびた満州、上海の空前の人脈を物語るように、通夜は3日3晩続いた。贈られた花輪のなかには、満州と上海で浅からぬ関係にあった岸信介や佐藤栄作からの花輪もあった。
あまりにも面白いのでかなりの長文になってしまいましたが、この作品が単にノンフィクション作品にとどまらず、一級の歴史資料にもなっていることは注目すべきだと思います。
この作品を書いた作家の佐野眞一は、最後にこう語っています。
「E・H・カー、柳田國男と並んで、ノンフィクションを書く際、私が座右の銘としてきた言葉を、ここでもう一つあげておきたい。ジャン=リュック・ゴダールをはじめとするヌーベルバーグの映画作家たちに大きな影響を与えたフランスの映画理論家でドキュメンタリー映画の実作者でもあったアンドレ・バザンの言葉である。
―私は補虫網を使わない。素手で蝶々をつかまえる―
この非常に美しい言葉のように、先入観や固定概念という補虫網を使わず、満州という巨大な蝶々を、というより巨大な毒蛾を、自分の素手のなかにつかみ取りたかった」