★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

洋楽の邦題

2020年08月08日 13時41分53秒 | 音楽
 昔、といっても1960年代半ばから1970年代半ばくらいまでだが、レコード会社イチオシの洋楽の曲には邦題がつけられていた。
 原題そのままだと日本人には受け入れられないタイトルが多かったからだろう。

 その邦題も原題や歌詞の内容からイメージしたものから、全く関係のないものまで多種多様だった。
 邦題の中でも多かったのが、頭に恋とか涙、悲しみをつけたタイトルだ。

 あのビートルズでさえも例外ではない。
 以下に代表的な邦題を挙げてみる。

 ビートルズ 
  恋する二人 (I Should Have Known Better)
  恋のアドバイス (You're Going To Lose That Girl)
  涙の乗車券 (Ticket To Ride)
  悲しみはぶっとばせ (You've Got To Hide Your Love Away)
 ローリングストーンズ
  恋をしようよ ( I Just Want to Make Love to You)
  悲しみのアンジー(Angie)
 モンキーズ
  恋の終列車(Last Train to Clarksville)
 ザ・フー
  恋のピンチ・ヒッター(Substitute)
 エルヴィス・プレスリー
  恋にしびれて (All Shook Up)
 ニール・セダカ
  恋の片道切符(One Way Ticket)
  悲しき慕情(Breaking Up Is Hard to Do)
 デル・シャノン
  悲しき街角(Runaway)
 カスケーズ
  悲しき雨音(Rhythm of the Rain)
 ショッキング・ブルー
  悲しき鉄道員(Never Marry a Railroad Man)
 メリー・ホプキン
  悲しき天使(Those Were the Days)
 アバ
  恋のウォータールー(Waterloo)
 エミー・ジャクソン
  涙の太陽 (Crying in a Storm)
 レターメン
  涙のくちづけ (Sealed With A Kiss)

 こう見ていくと、知恵を絞った割には、結構安直だ。
 恋や涙、悲しみではそうならざるを得ないのだろう。
 

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童謡ってどうよ?

2020年07月24日 11時41分24秒 | 音楽
 歳を取ると音楽の好みも変わってくる。
 音楽的好奇心や感受性が一番ピークだった大学生の頃は、もっぱらビートルズを筆頭に洋楽にハマっていた。
 ロックがメインだったが、フォークやバラード系も聴いていた。

 仕事が忙しくなってくる30代、40代の頃は音楽からも遠ざかっていた。
 先が見えてくる40代後半から50代になると、また音楽を聴き出すようになったが、もっぱら昔聴いていた洋楽だ。
 50代後半になると、昔はバカにして敬遠していた昭和歌謡や演歌が妙に心に染みるようになった。
 経験により、昔はわからなかった歌詞に込められた情緒や抒情に、共鳴できるようになったからだろう。

 そして今、60代も半ばを過ぎると、新たに童謡に興味を惹かれるようになった。
 すべての童謡というわけではない。
 てるてる坊主、通りゃんせ、森の小人の3曲がなぜか心を揺らす。

 短調をベースにしながら、どこか仄明るい調べが混じるメロディと、単純な歌詞の中に、郷愁というか、わけのわからないやるせなさや切なさが想起されるのだ。
 幼年期に聴いた曲なので、当然その当時の薄れた記憶が懐かしく甦る。

 歌詞に隠された意味や、時代背景、都市伝説的なトリビアは抜きにして、心の琴線に触れるもの悲しさを漂わせる歌詞とメロディに人生の無常を感じる。



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ビートルズ来日記念日

2019年06月29日 14時56分10秒 | 音楽
 1966年の今日6月29日にビートルズの4人は羽田空港に降り立った。
 最初で最後の来日コンサートのためだ。

 当時九州の辺境の町の小学6年生だった私は、ビートルズの名前こそ知ってはいたが、なんの興味も抱いていなかった。
 当然、武道館コンサートやそれにまつわる狂騒のことも記憶にない。
 その影響の下、日本の音楽シーンを席巻するグループサウンズもまだ世に出てはいなかった。

 私の音楽的興味は、エレキの若大将で一世を風靡した加山雄三だった。アルバムこそ買えなかったが、シングル盤は出るたびに買っていた。

 そんな私がビートルズを意識したのは、グループサウンズを経て、洋楽、特にロックに目覚めた中学3年の終わり頃だった。
 初めて買ったシングルが「ゲットバック」だった。
 それも数あるロックバンドの中のひとつという位置づけだった。

 高校1年になってすぐにポールのビートルズ脱退宣言を聞き、世間の注目度の高さに改めてビートルズの歴史を振り返った時に、これはとんでもないグループだったと認識した次第だ。
 少ない小遣いを貯めて「アビイロード」を買い、そのハズレのない完璧な音楽性に衝撃を受けた。
 友達から過去のアルバムを借りて聴きまくり、楽譜を買い、ギターで弾き語りしたものだ。

 映画「レット・イット・ビー」では、伝説のバンドの崩壊の過程を目の当たりにしてショックを受けた。
 豪華写真集付きのサウンドトラックアルバムも買った。
 大学生になってからは一時期バンドを組んでビートルズナンバーも演奏した。

 その後、今に至るまですべての洋楽はビートルズというフィルターを通して聴いている。
 解散してからもジョージやポールの来日コンサートには行ったが、それはもはやビートルズではなかった。
 老齢年金フル支給の65歳を目前にした現在でも、ユーチューブで聴くのはお約束だ。

 そんなビートルズの来日コンサートにインスパイアされて短編小説を書いてみた。
 


 

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桑田佳祐と昭和歌謡

2016年08月27日 00時03分08秒 | 音楽
 桑田佳祐の特別番組「偉大なる歌謡曲に感謝~東京の唄~」を観た。
 歌は上手い素人のカラオケレベルだが、なかなか味があってよかった。
 
 同世代なのでピッタリとシンクロした。選曲も笑えるくらい、私の好みと一致した。
 桑田の楽曲のバックボーンは、やっぱり昭和歌謡だったのを再認識。

 人間、年を取ると、昭和歌謡やグループサウンズ、はたまた演歌などにシンパシーを感じてくるものだが、桑田もそうなのか。
 過去には原坊に昭和歌謡をカバーさせていたが、ここへ来て本人もそろそろ、昭和歌謡テイストを前面に押し出していく方針だろうか。
 アイドル歌謡やJポップに対する挑戦、延いては自身の若いファン層に対する踏み絵みたいになるけど、桑田よ、大丈夫か。
 まあ、歳も歳だし、今後は好きなことを好きなようにやればいいさ。
 
 これを機会に、一部の愛好家に限定されていた昭和歌謡が、トレンドになればいいなとは思う。
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曲を好きになるということ

2016年08月16日 18時53分57秒 | 音楽
 どんな朴念仁でも好きな曲の1曲や2曲はあるだろう。
 普通の人間だったら、スマホに好きな曲を数十曲以上入れているに違いない。かく言う私もそうだ。

 例外を除いて、曲というのは音楽の3要素、メロディ、ハーモニー、リズムから成っている。
 そして大半はそれに歌詞がついている。

 人が曲を好きになるということは、極論すれば、歌詞かメロディ、もしくは両方を好きになるということだろう。
 日本の演歌や歌謡曲などは歌詞が好きということになり、洋楽はメロディが好きということか。
 私の場合は概ねそうだ。

 たぶん原初の昔は、曲はメロディだけで、時が経つにつれ、それに歌詞が乗り、リズムがつき、ハーモニーが加わったのだろう。
 すると、ハーモニーやリズムは不要とまでは言わないが、単なる補助的、あるいは装飾的なものということになる。
 しかしそれもちょっと違うような気がする。
 ハーモニーやリズムを変えると、好きな曲でも雰囲気が違って聞こえる。
 好きではなくなってしまうのだ。
 ということは、曲の好き嫌いに、ハーモニーやリズムも関係してくるということだ。

 要は、メロディや歌詞をメインに、ハーモニー、リズムがあってこその、好きな曲ということか。
 所謂、編曲というやつだね。
 アカペラで歌うより、伴奏の和音やリズムがつくほうが、曲の訴求力が上がるということだね。 
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君はマーク・ボランを知ってるかい?

2015年07月20日 14時18分54秒 | 音楽

 70年代初頭のミュージック・シーンに突如現れたグラムロック。
 その代表格はマーク・ボラン率いるT・レックス。
 
 中性的で金ぴかなコスチュームで奏でるは、当時の骨太のヘビーロックとは一線を画す、シンプルなビートと薄っぺらな電気的なノイジーサウンド。
 その近未来的、世紀末的な、かつ嘘っぽく、不定愁訴を醸すようなサウンド。
 新しいが、どことなく懐かしさも感じる、他のジャンルとは明らかに異質なサウンドが、当時マーク・トウェインの金ぴか時代や、サリンジャーやフィッツジェラルドに凝っていた私の心の琴線に触れた。

 アルバムを買って聴いているうちに感じたのは、決して主流になることはなく、長続きしそうにもない脆さと、刹那的な享楽の悲しみだ。
 ロックの過渡期の一種の徒花的サウンドだ。
 そんなことは最初からわかりきっているという潔さと、独特の発声で歌いまくるマーク・ボランが狂おしいほど愛おしかった。
 
 そして思ったとおりブームは短命に終わり、マークも29歳の若さで自動車事故により、永遠の20世紀少年になってしまった。
 浦沢直樹の「20世紀少年」がマーク・ボランへのオマージュであるとしたら、あれはちょっと違うだろうと言いたい。

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スリーピースバンド

2015年06月27日 12時39分57秒 | 音楽
 音楽の三要素、メロディ、リズム、ハーモニーを最低限満たす、ギター、ベース、ドラムスのスリーピースバンド。
 その中でも、クリーム、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス、グランド・ファンク・レイルロードはロック史上、特筆すべきスーパーバンドだ。
 
 シンプルかつダイナミックで、ロックバンドの編成はコレに尽きる。
 余分なものがないだけに、それぞれのプレーヤーには標準以上のテクニックが求められる。
 クリームは三人の力量が拮抗し、その演奏は鬼気迫るバトルそのものだった。
 ジミヘンとGFRは突出したギタリストのワンマンバンドで、他の二人は縁の下の力持ち的な存在だ。

 高校時代、我が家は田舎の一軒家だったこともあり、この3バンドをセパレートステレオのボリュームをMAXにして聴いていた。まさにロックと対峙するという気概を持って拝聴していたのだ。
 
 リードとサイドに分かれたギターや、キーボード、管楽器などが入ると厚みや広がりは増すが、本来のロックのテンションは薄められてしまう。
 ロックバンドがサポートメンバーも含め大編成になり、デジタル機器による音響操作が容易になった現在では、あの頃のような本来のハードロックは昔の音源で聴くしかない。
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音楽を聴くという事

2015年06月05日 21時05分24秒 | 音楽
 大学生の頃、金はなくても持て余すほどの暇はあるというあの時代、暇つぶしはラジオやステレオで音楽を聴くことだった。
 ビートルズを筆頭にロックを中心とした洋楽全般を聴いていた。
 当時はヒットチャートの曲はほとんど口ずさむことができたし、少々マニアックなバンドの曲も、喫茶店のスピーカーから流れてきたら曲名も言えたものだ。
 
 それがいつの間にか、昔の曲は覚えていても、80年代以降の曲はからっきしわからない。
 当時は仕事に追われて、落ち着いて音楽など聴く余裕がなかったからだ。
 聴かないと興味も薄れる。興味が薄れると、もっと聴かなくなるという悪循環だ。

 50代を過ぎた頃から、また音楽を聴くようになった。
 しかし聴くのはやはり昔の曲だ。
 時代の流れとともに、流行の変化のスピードは加速し、音楽に限らず何事も量産、短命の傾向になった。
 記憶に定着するには種類が多過ぎ、サイクルが早過ぎるのだ。
 もはや、私の脳内ライブラリには新曲は登録されないだろう。
 過去の思い出とともに懐かしい曲を聴くしかない。

 音楽の聴き方にはいろんなタイプがある。
 好きなアーティストやジャンルの曲をひたすら聴く。
 最新の曲を誰よりも早く聴く。
 単にBGMとして聴く。
 高価なオーディオセットで音そのものを追求する。
 ライブやコンサートに足を運び雰囲気で聴く。
 
 人それぞれだが、私の場合は70年代くらいまでの古い音楽を、レコードプレーヤーとかトランジスタラジオで聴きたい。
 ステレオセットが普及する前の、大音量のロックが出回る前の時代の音楽の聴き方だ。
 音楽を愛しむ、あるいは慈しむように、ラジオにかじりついて聴いていたあの頃の聴き方だ。
 今やレコードプレーヤーもほとんどなくなり、トランジスタラジオも音楽を聴く道具ではなくなってしまった。
 音質を追求するあまり、本来の熱さや味わい、心に訴えるメッセージというものがなくなってしまったような気がしてならない。

 最近は、昔聴いていた音楽の、その前のルーツというべき音楽、ブルーズにハマっている。
 行きつけのブルーズバーで聴いているが、JBLのでっかいスピーカーから戦前ブルーズが大音量で流れてくるのは、いかがなものかと思う次第である。
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うち

2015年01月18日 21時28分22秒 | 音楽
 10年ほど前、「たそがれオヤジーズ」という三人組バンドを結成して、地元の音楽祭に出演した。
 そこで3曲披露したうちの1曲が、私のオリジナルナンバー「うち」。
 歌詞は以下の通り。

♪あの街捨ててふたりして
 帰らんつもりで来たけれど
 あんたがくれた約束は
 果たすあてのない空手形
 あんた悲しくなるわ
 あんた強がりばかり
 恨みつらみは山ほどやけど
 もう腹も立たへん
 うちもうなんも言わへんわ
 うちもうなんも望まへん
 あんたがそばにいるだけで
 うちそれでいい

 演奏が終わった後、テイチクのプロデューサーを名乗る人物が現れ、ぜひソロで契約したいと申し入れてきた。
 翌日事務所へ出向き、契約書にサインして、スタジオでバックバンドを入れてデモCDを作った。
 プロデューサーが各方面にデモCDを配り、1ヵ月後にはYou Tubeと有線で火がつき、覆面歌手としてデビューが決まり、自作やカバー曲を寄せ集めて本格CDを初回5万枚プレスした。
 その年の年末までにCDは120万枚のスマッシュヒットを記録し、2009年度の有線大賞新人賞を獲得したのはご存知の通り。
 テレビの仕事は断り、もっぱらラジオと地方営業でセールスに励んだ。
 去年までの累計で、CDの売り上げ枚数は450万枚に達し、印税収入だけで5億円ほどに達した。
 会社は今でも勤めているので、あの「うち」が私の曲であると知る人はいない。
 
 そんな夢が実現するのはいつのことだろう。
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「やさしく歌って」と「うつろな愛」

2014年10月11日 23時58分12秒 | 音楽
 1973年4月、18年間の九州の田舎生活にピリオドを打ち、私は青雲の志を胸に京都の地を踏んだ。
 青春のモラトリアム、大学生活の始まりだ。

 下宿探しに出遅れたため、京都での最初の居住地は、通学に1時間以上もかかる、滋賀県との県境の新興住宅地の中だった。京都市内の茶舗が投資目的で買った一軒家を、遊ばせて置くのももったいないとの理由で、学生下宿として貸し出していたものだ。
 その一軒家の4部屋あるうちの、二階の六畳間が私の部屋だった。床の間、バルコニー付きで家賃は6,000円だった。バス、トイレ、台所は共用だった。

 私の大学生活はその下宿からスタートした。同じ下宿の和歌山出身のFや、大学で入ったフォークソング同好会を通じて、友達の輪が広がっていった。
 親や先生や先輩の目を気にすることもなく、自分の意志のままに生活できる喜びに、心は浮かれまくっていた。

 大学生活は予想通りに楽しく、京都の街は見るものすべてが刺激的だった。
 そんな時にトランジスタ・ラジオから流れていたのが、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」だった。春の柔らかな日差しのようなメロディが、私の大学生活を祝福するように心に染み渡った。

 新歓コンパや友達に誘われて覚えた酒は、私に大人の世界への片道切符を与えてくれた。 昼の世界しか知らなかったそれまでの私は、居酒屋やパブに出入りするようになり、人生のもうひとつの側面を垣間見たような気がした。おぼろげな未来に思いを馳せ、ひとまわり成長したような錯覚に陥ったものだ。
  
 そんな時にジュークボックスから流れていたのが、カーリー・サイモンの「うつろな愛」だった。カーリーが力強く歌う哀愁を帯びたメロディが、ほどよくアルコールの回った私に、これから先の大人の試練を予感させるようにガンガン迫ってきた。
 
 今でもこの2曲を聴くたびに、懐かしいあの頃の思い出が、甘酸っぱい感覚と共に脳裏に浮かんでくる。
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ザ・ビートルズ「ゲット・バック」

2014年10月09日 19時25分11秒 | 音楽
 1969年秋、当時中学三年だった私は、翌年の高校受験を控えて、受験勉強に明け暮れていた。
 というのは嘘で、競争率1.0何倍台の田舎の普通高校に、中学のトップクラスの私が落ちるはずもないので、勉強はそっちのけで、ギターの練習に精を出し、洋楽のレコードを聴きまくっていた。
 
 ギターは、当時創刊間もない「ヤングセンス」や「guts」を教則本として、独学でシコシコ弾いていた。
 洋楽のレコードを聴き出したのもその頃で、ちょうどGSブームが終焉近くなり、それを凌駕する勢いの英米ロックやポップスにシフトして行ったのだ。
 曲はラジオから流れるヒットナンバー中心で、お気に入りのアーティストはおらず、曲が気に入ったら音楽雑誌等でアーティストを調べて、その新譜を追いかけるという具合だった。
 
 ビートルズの「ゲット・バック」を初めて聴いたのもラジオ番組でだった。
 ビートルズの名前や、数年前に日本に来たのは知っていたが、曲は、あの「イエスタデイ」さえも知らなかった。
 ベンチャーズのほうが、当時の私にはポピュラリティが高かった。

 そんな私だったが、「ゲット・バック」は、他のアーティストのヒット曲とは明らかに違っているのがわかった。シンプルで軽快なロックンロールナンバーだが、完成されているという表現がぴったりの曲だった。聴いた翌日にはシングル盤を買いに行った。

 後になってわかったことだが、その年でデビュー7年目の円熟期、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で頂点を極め、それを一度スクラップして「アビイ・ロード」で完成の域に達する、その一歩手前の曲だったのだ。
 私の直感というか、選曲眼も大したものだったのだ。

 ビートルズに関しては「ゲット・バック」を聴いて以来、雑誌や書籍で過去へ遡って調べたり、友達の兄貴が持っていた数枚のアルバムを聴いたり、有名な曲の歌詞を訳したりしてのめり込んでいった。
 「アビイ・ロード」は町のレコード屋で売っているにもかかわらず、わざわざ輸入盤を音楽雑誌の通販で購入した。日本盤と違い、シワシワのビニールカバーで、紙質の悪いLPジャケットだったが、ナショナルのテクニクスで聴くサウンドは、グレート・ブリテンの息吹が感じられた(ような気がした)。
 
 「アビイ・ロード」の内容や評価については、星の数ほどの論評が存在するので割愛することにする。
 何回目かに聴いた時に、隠しトラックの「ハー・マジェスティ」を見つけた驚きは今でも覚えている。
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グランド・ファンク・レイルロード

2014年08月03日 20時45分29秒 | 音楽
 1969年のウッドストック・フェスの前後あたりから、音楽シーンを席巻し出したヘビーロック(当時はまだハードロックとは言ってなかった)
 大御所のディープ・パープルやクリーム、ジミヘンやレッド・ツェッペリンなどの曲が深夜放送のラジオから流れ、音楽雑誌では特集が組まれ、田舎の高校生の私もレコードを買い漁っていた。

 ヘビーロックの大音量は、青春の入り口のモヤモヤや鬱憤晴らしにはもってこいだった。
 グループサウンズの歌謡曲ベースの曲も嫌いではなかったが、音の迫力が全く違っていた。 グループサウンズの場合は、歌詞とメロディを頭と心と、ちょっとばかり身体で聴いていた。
 ベビーロックは歌詞がほとんどわからないので、純粋にサウンドとして、頭ではなく身体とフィーリングで聴く。
 ステレオのスピーカーから身体に伝わる振動を「これが、音楽雑誌の解説にあったヴァイブレーションというやつか」と勘違いしながらも悦に入っていた。
 単純なギターリフやフレーズは、レコードに合わせて、通販で買ったエレキギターで弾いていたが、複雑なアドリブになるともうお手上げだった。ジミヘンやクラプトン、リッチーやペイジに合わせるなんてできるはずもなかった。

 そんな時、ヘビーロックシーンに彗星のごとく現れたのがグランド・ファンク・レイルロード(GFR)だった。
 ギター、ベース、ドラムのスリーピースバンドは、ツェッペリンを凌駕するような大迫力で、曲もシンプルなものが多かった。
 マーク・ファーナーの大音量のギターはクラプトンやペイジの重厚さ、流麗さに較べると、単純で力強くミーハー向けだった。
 ハートブレーカーや孤独の叫び、アー・ユー・レディなど、練習すればヘタながらも何とかレコードに合わせて弾けた。

 ロックは聴くだけのものではなくて、実際にバンドを組んで演奏するものだと実感した。 しかし悲しいかな、九州の辺境の田舎町にヘビーロックバンドをやるような高校生などいなかった。ましてやドラムとベースなど、どこをどう探してもいるはずもなかった。
 それと田舎の女子高生もヘビーロックなど知る由もなく、彼女らの気を引くためには、フォークギターで吉田拓郎や井上陽水をやるしかなかった。
 文化祭のミニコンサートでは、陽水の「傘がない」を歌いながら、GFRの「ハートブレーカー」を頭の中では歌っていた。
 コード進行がほとんど同じなんだよね。
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You Tubeでロックを聴きながら

2014年05月17日 20時01分29秒 | 音楽
 音楽、とりわけロックやブルーズを聴くのが好きだ。
 最近はもっぱらYou Tubeで懐かしのロックを楽しんでいる。音質にはこだわらないので、別にオーディオセットがなくても充分だ。

 昔はレコードやラジオでしか聴けなかったバンドが、動画で観られるというのは画期的だ。若き日のビートルズやストーンズ、クリームやツェッペリンのレトロ感あふれる演奏は、結構シビれるのである。

 ロックを聴き出したのは、1969年のウッドストックの前あたりからで、ロックがニューロックとかサイケデリックロック、フォークロックなどと呼ばれていた時代だ。
 ビートルズは別格だったが、ウッドストックを機に、ロックミュージックシーンが混沌からある意味での方向性を持ち、ハードロックを中心としたロックというジャンルに定着したように思う。

 70年代はロックが円熟、完成の域に達した時期だ。
 それ以降(80年代から現在)は、良い意味では現状維持、悪い意味では刺激や面白味がなくなってきた。私の日常が仕事や家庭に関わる時間に占められて、じっくり音楽を聴く暇がなくなってきたのも一因かも知れない。

 戦後のブルーズがロカビリー、ロックンロールと進化し、60年代、70年代のロックへと成長するわけだが、ちょうど狭間の60年代前期のUKロックシーンのマージービート系のバンドが最近のマイフェイバリットだ。
 小さなギターアンプの箱鳴りや、ワウ、ファズもなく、チョーキングもほとんど使わないギターサウンド、コンパクトだがグループ感あふれるバンドのノリが好きだ。

 一昔前の安物のモジュラーステレオで聴いたらきっと最高だろうな。
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ポール・マッカートニー大阪公演

2013年11月12日 12時44分48秒 | 音楽
 ポール・マッカートニーの大阪公演行って参りました。
 ビートルズ現役最終世代の私としては、これを逃してはなるものかの意気込みでした。

 開演前の期待感が心地よく膨らんだところで、満を持してポールの登場でした。
 ポールがオープニングに選んだナンバーが、各国のツアーのオープニングと同じくEight Days A Week。結構ポールなりの思い入れがこの曲にあるんだなと推測。
 赤いチェスターコートに身を包み、へフナーのバイオリンベースをかき鳴らしながら熱唱するポールは、71歳とはとても思えぬくらいにスリムでエネルギッシュで、声の張りも昔のままか、それ以上の迫力。
 
 You Tubeでしか観た事のなかった20世紀のレジェンドが、おなじ空気の下で演奏しているのを観ただけで、S席代金の元は取れたと確信しました。

 ビートルズはポールのバンドと思っている私ですから、ビートルズナンバーが半数以上を占めるこのコンサートは大満足でした。
 昔のヒット曲とかあまりやりたがらない昨今のミュージシャンと較べて、観客のニーズにバッチリ対応するポールのサービス精神に脱帽です。

 途中でジョンやジョージ、リンダ(故夫人)やナンシー(現夫人)に捧げる曲も披露し、好感度も抜群。ソロ時代やウイングス時代の曲、最近リリースしたアルバムの曲も適当に散りばめて、飽きさせない構成はポールのプロデューサーとしての腕の見せどころ。やっぱりサービス精神旺盛なエンターテイメントロックスターです。

 これが多分最後になるであろう日本公演で生ポールを見られて、私のビートルズ遍歴にひとつの区切りができました。
 
 ちなみにアンコールの最後の曲がアビーロードからThe End。泣けてきますね。
 ポール最高でした。
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北原早苗「少年」

2013年10月27日 21時00分41秒 | 音楽
 ♪去年の~僕の心の中は~ひどく穏やかで静かだった~
 そんな出だしの歌詞だけが、40年来、頭の隅に引っかかっていて、どうしても曲名、歌手名が思い浮かばなかった。おぼろげに加藤和彦の作曲だったと記憶していたが、ネットで歌詞検索しても出て来ず、その都度うっちゃっておいた。
 
 今日たまたま70年代のギター小僧のバイブル的な雑誌「GUTS」をネットで見つけ、バックナンバーのコンテンツを何気なく見ていたら、【「少年」北原早苗】というのが目に止まり、記憶の奥の警鐘が鳴ったような気がした。
 試しにYou Tubeで検索したら、ものの見事にビンゴ! 懐かしい歌が流れ出した。
 
 1970年の、そんなにヒットした曲でもないが、青春の始まりに妙にフィットした歌詞とメロディだ。
 1970年といえば、激動の60年代と狂乱の80年代の狭間の変革の年代の始まりの年で、ちょうど私の高校入学の年と重なっている。少年期から青春へと変わる多感な時で、いろんな情報や流行や変化が押し寄せてきた時期だ。
 
邦楽でも洋楽でも多くのヒット曲があったにもかかわらず、もとまろの「サルビアの花」とともに、なぜか当時の訳のわからない悶々とした心象風景の断片を思い起こさせる曲だ。
 
 You Tubeのコメント欄に同じような思いのコメントがあるのが、嬉しくもあり、切なくもある。
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