★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

松乃屋オープン

2015年01月31日 09時21分39秒 | 徒然(つれづれ)
 昨日、近所に松乃家がオープン。牛めしの松屋のとんかつ業態だ。
 ファストフード・ジャンキーの私は、早速サービス券片手に、本日早朝行ってまいりました。

 霧雨に煙るトワイライトの街並みに佇む真新しい店舗は、客もまばらで、新装開店か開店休業かわからない微妙な雰囲気を醸し出していた。
 まあ、真冬の午前7時前という時間帯を考慮するとこんなものか。
 
 券売機でロースカツ定食並500円也を買い求め、ミニサラダのサービス券と一緒に店員に渡し、待つ事しばし。
 運ばれて来たロースカツは肉厚で結構なボリューム。
 細切りキャベツもテンコ盛り。ミニサラダの追加は余分だったかも。
 
 卓上の中濃ソースをかけてパクつくと、ジューシーで柔らかな食感。
 空腹も影響したかもわからないが、味は街の定食屋や洋食屋よりも確実に上だ。
 わかめの味噌汁も旨い。
 卓上の漬物も食べ放題が嬉しい。

 壁のメニューを見ると、カツ丼やカツカレー、チキンカツや唐揚げ、季節のカキフライまで、リーズナブルなものが豊富だ。
 当分ヘビーローテになりそうだ。
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くちなしの花

2015年01月30日 21時43分19秒 | 徒然(つれづれ)
♪ 今では指環も~回るほど~やせて~やつれた~おまえの噂~(くちなしの花)

 この歌を聴いた時、指が細くなるほど痩せるなんて、きっと病気だろうと思ったものだが、現実にそれがあるのを目撃してしまった。
 それも我と我が身に起こったのだ。

 何年か前にパンクファッションを真似して、ライダースジャケットやスリムフィット・ジーンズを身に着けて悦に入っていたことがある。
 もちろん一時の気まぐれだったが、その時にスカルリングも買った。
 それと並行してローカーボ・ダイエットにも精を出していた。

 パンクファッションは、いつの間にか身に着ける事もなくなっていたが、ダイエットのほうは続行していた。
 今日たまたまスカルリングを装着してみたら、買ったときはジャストサイズだったリングがユルユル、クルンクルン、スポスポなのだ。

 ダイエットで痩せると、ほんとに指のサイズまで細くなるのだ。
 てなわけで、くちなしの花の歌詞を実感した次第だ。

 ローカーボ・ダイエットや恐るべしである。
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思い出のカセットテープ

2015年01月29日 20時36分57秒 | ギター&ウクレレ
 高校1年の頃、田舎のロック小僧の私は、通販でエレキギターを買った。
 当時流行のヘビーロックに挑戦するためだ。
 
 手持ちのレコードや何人かの友達のレコードから、コピーしやすい曲をカセットテープに録音して、1本の練習用の音源を作った。
 グランドファンクから、クリーム、ディープパープル、ジミヘン、ツェッペリン、ビートルズまで有名な曲のオムニバス盤だ。
 
 その当時は当然ロックの楽譜なんてないので、ロックを志す少年は、曲を聴いてその音をギターのフレットの上に1音づつ落とし込んでいくのだ。
 テープからのコピーだが、これを所謂、耳コピ、レコードコピーといった。
 現在のロックギタリストも、例外なくこれをやっているはずだ。

 スタートの時点では、私もエリック・クラプトンも同じだったわけだ。
 世が世なれば、私もクラプトンと同じステータスをゲットしていたかもしれない。
 残念ながら、努力と才能、環境の違いがそれを阻んだのに他ならない。

 冗談はさておき、高校生の私は、土日は朝から晩まで、平日は帰宅後の3時頃から6時頃まで、寝食を忘れてレコードコピーに励んでいた。
 その甲斐あって、単音のフレーズはなんとか弾けるようになったが、コード部分は怪しいところも多々あった。
 単音のコピーは巻き戻しや早送りして、繰り返し聴くと音を特定できるが、コードのように複音になると、メジャー、マイナー、セブンスくらいまでしか聴き分けられず、テンションコードは無理だった。
 
 それでもある程度は、ヘビーロック然とした演奏にはなっていたように思う。
 最終的な仕上げは、ステレオにエレキギターを接続して、大音量でレコードと競演することだった。
 これがたまらなく気持ちよかった。
 目を閉じると、有名バンドと同じステージで演奏しているようなハイテンションな気分だった。

 私のギターの原点とも言えるあの練習用のカセットテープは、過酷な使用で音質が低下したものの、青春の記念碑として長らく机の引き出しの奥にしまってあったが、レコードがカセットテープに駆逐され、そのテープもCDに駆逐されるに及んで、いつの間にか行方不明になってしまった。
 しかし、私の記憶の引き出しの中では、青春の思い出となって、燦然と光り輝いている。
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箱(BOX)

2015年01月28日 21時42分41秒 | 徒然(つれづれ)
 昔から箱フェチというか、箱というものには何かわけもなく心惹かれるのだ。
 一番最初に箱というものを意識したのは、浦島太郎の玉手箱だ。
 箱から出てきた時空の煙には、子供心に得も言われぬ神秘性を感じたものだ。

 他にも舌切り雀のつづら箱、ギリシア神話のパンドラの箱、悪代官の千両箱、校庭の百葉箱、グリコのオマケの箱など、どれもワクワク、ドキドキものだった。

 高校の時に買ったLPレコードも、たとえばビートルズの「LET IT BE」や、バンド・エイドの走りの「バングラディシュ・コンサート」など高級なものは箱入りだった。

 今でも箱とかBOXという言葉を聞くと、頭の回路のどこかがかすかに点滅する。
 ブラックボックスは当然のこと、ワンボックスカーやボックスシート、ギターの箱鳴りや大学のクラブのBOX、安部公房の「箱男」や北島三郎の「函館の女」まで、箱にはなにかしらミステリアスな風情があるように思う。

 このミステリアスさ、神秘性は何に由来しているのかと愚考するに、はたと思い至ったのが、エジプトのファラオの石棺やキリストの棺だ。

 私が最後に入る棺も箱に他ならない。
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セルフカット散髪

2015年01月27日 22時29分00秒 | 徒然(つれづれ)
 大学生の頃は床屋や美容室へは行かず、裁ちバサミを使い自分で散髪していた。
 天然パーマで中途半端な長髪だったから、少々失敗しても、そう目立たなかった。

 就職活動の時にリクルートカットにして以来、月イチで床屋へ行くようになり、少々長めのサラリーマンカットが30数年続いた。
 美容室へは一度も行った事はない。
 九州男児たるもの、女の園の美容室なんぞ死んでも行けるわけがないのだ。

 50も半ば過ぎた頃から、また学生時代のように裁ちバサミでセルフカットするようになった。もう5年ほど床屋には行っていない。
 襟足やサイドの髪も合わせ鏡で、上手く切れるようになった。
 天然パーマだから、少々のデコボコは段カットだと思えば気にもならない。

 若者の床屋離れ(美容室へシフトや嫁カット)が進み、1000円カットハウスなどができたりしているが、究極はなんといってもセルフカットだ。
 その昔、床屋へ行くと絶対といっていいほど、自分の要望とは微妙に、あるいは明らかに違う仕上がりにホゾを噛んだものだ。
 セルフカットだと自分の思うがままにカットするとができ、ちょっとした失敗も諦めがつく。

 今でも同年代で、高い料金を出して床屋や美容室に行って、薄くなった髪を調髪している奴がいる。
 価値観の違いと言えばそれまでだが、セルフカットもハマれば、2、3日に一度は微調整できるし、結構楽しくなるから不思議だ。
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少年の夢や今何処

2015年01月27日 21時26分57秒 | 徒然(つれづれ)
 小学3、4年の頃、少年や少年画報、少年マガジンやサンデーなどが愛読書だった。
 読むだけでは飽き足らず、描く事に目覚め、最初はノートに、そのうちケント紙に墨汁とペンで描くようになった。
 
 漫画雑誌にハガキで似顔絵を投稿し、中学1年の時、月刊漫画雑誌「ぼくら」で佳作入選を果たし、賞品に鉛筆1ダースをもらった。その鉛筆は使わずに大切にとっておいたが、いつのまにかどこかへいってしまった。
 
 中学の頃は、漫画の描き方読本を読み漁り、怖いもの知らずで懸賞漫画に応募したりするようになった。
 しかし全国レベルになると、上手い素人は星の数で、我が実力のほどを思い知り、一気に熱は冷めていった。

 次に手を出したのがギターだ。
 昭和40年代初期の頃は、田舎の中学生でギターなんぞ弾ける奴は皆無だった。
 ギター雑誌「ヤングセンス」や「Guts」をテキストに猛練習の末、中学3年でギターの弾き語りができるようになり、将来はミュージシャンになろうと漠然と思った。

 高校に入学すると、ギターの腕前が同程度の奴もチラホラ現われ、大学生になると、セミプロ級の奴がまわりに何人もいて、そこでミュージシャンの夢は断念、それ以降目指すものがなくなり、普通のサラリーマンになってしまった。

 少年飽き易く、夢成り難しか。
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悪銭身につかず

2015年01月25日 14時42分51秒 | 徒然(つれづれ)
 1月17日京都11レース、大和ステークス三連単106,830円の大当たり。
 今年の競馬もやっと片目が開いた。
 年初のおみくじの金運、思わぬ収入有りが的中。

 口外してないのに、先週は飲みの誘いが3件。7万円の出費だ。
 おみくじの待人、突然現れるも当たっていたという事か。
 別に待っていたわけでもないのに、誘われたらついつい応じてしまうのが私の弱いところだ。
 悪銭身につかずだね。
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マクドナルド

2015年01月24日 16時26分04秒 | 徒然(つれづれ)
 1973年、日本進出3年目のマクドナルドの店が京都新京極のど真ん中にあった。
 上洛直後の田舎者の私にとって、その店は、河原町三条のケンタッキー・フライドチキンと並んでアメリカの象徴であった。
 ピカピカに明るい店内には、確かにアメリカの風が吹いていた。

 初めて食べたハンバーガーは、九州の田舎のパン屋のハンバーガーとは全く違った食べ物だった。
 昔テレビで見た「ポパイ」のウインピーが食べていた、あのハンバーガーの味だった。
 実際にそれを食べたことはなかったが、きっとこんな味だと思った。
 河原町に出たら、必ず食べていた。

 月日が流れ、私も都会の絵の具に染まり切り、マクドナルドも全国津々浦々に店舗展開し、お子様のジャンクフードに成り下がってからは、口にする事はなくなった。
 今では腐肉や異物混入、朝マックに昼マックなどの迷走で、あの時のアメリカの風は逆風に変わってしまい、表に出ないカサノバ社長に経営陣は右往左往の体だ。

 マクドナルドよ、初心にかえれ。
 ハンバーガーとマックシェイクとポテト、あとフィレオフィッシュとコカコーラがあれば十分だ。
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まずはネット、最後は文献

2015年01月22日 21時01分20秒 | 徒然(つれづれ)
 昔はわからない事があると、わかっていそうな人間に聞くか、文献や事典で調べて確認したものだ。
 それが結構、面倒だったので、まめに確認した者としなかった者との知識格差は歴然だった。前者は博学、物識りと称えられ、後者はアホと馬鹿にされた。

 現在では、人や書籍に頼らなくても、インターネットという豊富な情報源がある。
 しかし情報量は増えても、その信憑性や信頼性は、やはり文献には劣っているように思われる。
 一応、文献情報は何がしかの校閲を経て世に出ているが、ネット情報はその出処が怪しそうなものも多々ある。
 出処不明の情報が、時としてSNSあたりで拡散され、あたかも事実のように巷間を席巻することはよくある話だ。

 世間話程度にはネット情報も有用だが、大切な物事には、やはりまだまだ文献での情報確認が必要だ。
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ブルース

2015年01月20日 22時43分03秒 | ギター&ウクレレ
 中学2年でギターを始めた。
 最初は簡単な童謡や唱歌の教則本でメロディの練習、多少上達するとクラシックの教則本で「禁じられた遊び」や「月光」、「ラクリマ」などの曲を弾くようになった。
 そのうち物足りなくなり、コードの弾き語りで歌謡曲やフォークを弾くようになった。
 エレキギターを買ってからは、ロックのアドリブにも挑戦したが、理論はわかってもテクニックやフィーリングが追いつかない。

 そこでたどり着いたのが、3コードで伴奏からソロまで1本のギターで弾ける黒人ブルースだ。特に1930年代から50年代のシンプルで渋いナンバーだ。
 ロックの巨人達もスタートはほとんどブルースから、というのをものの本で読んだのも影響している。

 ブルーススケールと言われる音階の、第3音と第7音の♭の音(ハ長調でいうとミ♭とシ♭)が、ブルースでは重要な音だ。
 物悲しく、不安定な、それでいてカッコいい響きの音で、曲中ではブルースの味付けに使用する。現在では、ブルースだけでなくロック、ポップス全般に使われている。
 
 黒人の場合、先天的に使い所が身についているので、カッコよく聞こえるが、日本人がやると、多すぎて演歌調になったり、少なすぎて不協和音調になったりする。
 なかなかブルースの哀調を醸すのは難しいのだ。
 今でも私の腕前はブルースらしきもののレベルだ。

 私は特に第7音の♭が好きだ。
 曲の間奏のアドリブの中でこの音が鳴ると、懐かしいような、くすぐったいような気分になる。もちろん単音ではなく、メロディの流れの中の1音としてだ。
 
 ひとつの曲としてではなく、フレーズの中のたったひとつの音が、人間の感覚や感情に少なからざる影響を及ぼすこと自体、音楽というものの驚くべきところだ。

 
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うち

2015年01月18日 21時28分22秒 | 音楽
 10年ほど前、「たそがれオヤジーズ」という三人組バンドを結成して、地元の音楽祭に出演した。
 そこで3曲披露したうちの1曲が、私のオリジナルナンバー「うち」。
 歌詞は以下の通り。

♪あの街捨ててふたりして
 帰らんつもりで来たけれど
 あんたがくれた約束は
 果たすあてのない空手形
 あんた悲しくなるわ
 あんた強がりばかり
 恨みつらみは山ほどやけど
 もう腹も立たへん
 うちもうなんも言わへんわ
 うちもうなんも望まへん
 あんたがそばにいるだけで
 うちそれでいい

 演奏が終わった後、テイチクのプロデューサーを名乗る人物が現れ、ぜひソロで契約したいと申し入れてきた。
 翌日事務所へ出向き、契約書にサインして、スタジオでバックバンドを入れてデモCDを作った。
 プロデューサーが各方面にデモCDを配り、1ヵ月後にはYou Tubeと有線で火がつき、覆面歌手としてデビューが決まり、自作やカバー曲を寄せ集めて本格CDを初回5万枚プレスした。
 その年の年末までにCDは120万枚のスマッシュヒットを記録し、2009年度の有線大賞新人賞を獲得したのはご存知の通り。
 テレビの仕事は断り、もっぱらラジオと地方営業でセールスに励んだ。
 去年までの累計で、CDの売り上げ枚数は450万枚に達し、印税収入だけで5億円ほどに達した。
 会社は今でも勤めているので、あの「うち」が私の曲であると知る人はいない。
 
 そんな夢が実現するのはいつのことだろう。
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友よ

2015年01月16日 19時29分52秒 | 徒然(つれづれ)
 1973年4月、私の大学生活は京都山科の下宿から始まった。
 その下宿で初めて出会い、卒業後も付き合いが続いたのが和歌山出身の同学年のFだ。
 九州の辺境の地から上洛した私にとって、関西弁を話す彼は心強い相棒となった。

 小柄で色黒、天然パーマのFは、当時流行のVANのアイビールックをカジュアルに着こなし、趣味の油絵のイーゼルを部屋に据え、私が読んだこともないような芸術書や幻想文学小説から、サブカル系の雑誌などの蔵書を本棚一杯に並べていた。

 ファッションに関しては、フォーク少年の私はベルボトムジーンズにTシャツやウエスタンシャツで通したが、読書に関しては彼の影響をもろに受け、植草甚一や澁澤龍彦、寺山修二や唐十郎などにハマった。

 どちらも隔世遺伝的な酒飲みだったのか、同じくらいの酒量を誇り、河原町や木屋町の居酒屋を飲み歩いたものだ。
 彼を基点に友達の輪が広がり、私独自のルートの友達とは、また毛色の異なる交友関係も生まれた。
 
 四部屋の小さな一戸建ての下宿だったので、学校に行っている時以外は、いつも生活を共にしていた。同じ飯を食い、同じテレビを見て、同じ本を読んでいた。
 学部は違っていたが、ふたりとも留年して大学は5年間通った。
 5年目は、他の友達はほとんど卒業していなくなり、三日に空けず飲み歩いていた。

 卒業後は私は普通のサラリーマンになったが、彼は転職やアルバイトを繰り返し、自由人のような生き方をしていた。
 さすがに卒業してからは、年に3、4回程度の付き合いになったが、彼の結婚式にも友人代表で出席し、他の友達を誘っての一泊旅行や花見などもやっていた。
 
 そんなFが、くも膜下出血で急逝したのは40代半ばの時だ。
 突然の死はショックだったが、酒飲みの彼らしい逝き方だったなと思った。
 
 今でも彼と共通の友達と飲む機会があると、彼の話題が出てくる。
 あいつは好きなように生きて、パッといなくなってうらやましい限りだとみんなが異口同音に言う。
 私もそう思う。

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「文学界」の大増刷

2015年01月12日 13時17分52秒 | 徒然(つれづれ)
 月刊誌「文学界」2月号が、発刊以来の異例の大増刷らしい。
 当初発行部数が10,000部、間を置かず7,000部の増刷、それでも間に合わず、23,000部再増刷、合計40,000部の発行になるらしい。

 言わずと知れた、お笑い芸人ピース又吉の小説「火花」の掲載効果だ。
「文学界」など、生まれてこの方、手に取ったこともないピース叉吉ファンの若い連中が、大挙して買ったのは火を見るより明らかだ。
 1人のお笑い芸人の小説が権威ある文学誌に掲載され、その効果が通常の4倍もの発行部数増に繋がるなんて誠に痛快なことだ。日本文壇は今まで何をやってきたのだろう。

 私は若くもなくピース又吉のファンでもないが、話題性には乗っかるべきと考え、取り敢えずは文学界HPの立ち読みコーナーで、「火花」のさわりを読み、その筆力に惹かれ、これは買わねばなるまいと、遅ればせながら本日書店へ出向いた次第。
 ところが行く書店、行く書店、売り切れなのだ。
 あの紀伊国屋書店でさえ、再入荷待ちで、入荷は20日以降とのこと。

 又吉や恐るべし。

「文学界」に載り、これだけの話題を集めたとなれば、単行本化はおろか、もしかすると芥川賞、直木賞だってゲットしてもおかしくはないだろう。
 お笑い芸人が映画監督となり、その世界で名を成した例はあれど、文豪となると史上初めてではないだろうか。
 
 又吉の今後の飛躍を見守ることにしよう。
 
 
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1974年6月7日(金)晴れ(当時の日記より)

2015年01月07日 22時43分40秒 | 徒然(つれづれ)
 午前7時起床。
 カーテンを開けると眩い朝の陽光が降り注ぐ。梅雨の晴れ間で、今日も暑くなりそうだ。
 ナショナル「ワールド・ボーイ」(注01)のスイッチを入れる。
 FM大阪からロバータ・フラックの「やさしく歌って」(注02)が流れてくる。

 歯を磨いて顔を洗い、先日買ったHalf(注03)のベルボトムジーンズ(注04)と、半袖のアーミーシャツ(注05)に着替える。
 今日は9時からの第1講が英作文の試験だ。

 京福八幡前の下宿を7時半に出る。
 8時に出町柳駅に到着。駅前のカミ家珈琲店(注06)でモーニングサービス。ここのコーヒーは京都でもピカイチだ。
 8時半に今出川通りから女子大ロマンスロード(注07)を通り、今出川新町の大学(注08)の教室へ向かう。
 9時5分前に着席。試験。10時半試験終了。7割ほどの自信。同じクラスのJとYに合流。

 3人でフォークソング同好会のボックスに行くが、まだ鍵がかかっている。
 正門前の同好会のフランチャイズの喫茶店「スペース」(注09)にも顔を出すが、知った顔はない。とりあえずコーヒー1杯で漫画を読みながら時間を潰す。
 
 12時に学食で好物のハンバーグ定食。
 顔見知りを見つけ、4人で近所の雀荘「グリーン」(注10)で4時頃まで麻雀。散会。

 今日は6時半から飲み会だ。
 5時前に市電で河原町三条へ出る。
 待ち合わせの時間まで、京都書院(注11)や十字屋楽器店(注12)で時間を潰す。

 6時半に居酒屋「静」(注13)入店。総勢6人。野郎ばかり。
 2時間ほど安酒を鯨飲し、二次会の四条木屋町のパブ「ビュッフェ」(注14)に向かう。
「ビュッフェ」でジュークボックス(注15)を聴きながら、カウンターのお姉ちゃんを冷やかし、ここでも2時間ほど馬鹿話。

「ビュッフェ」を出て帰宅する奴らと別れて、酒飲みのFとHと三人で、金曜の夜の河原町の雑踏を四条から三条まで歩く。
 川端三条上がったところの居酒屋「よしみ」(注16)へ。
 
 1時頃まで飲んで、三人でタクシーで下宿へ戻る。
 四畳半に男三人で雑魚寝。




 ***注釈***

注01.1970年代前半に一世を風靡したトランジスタ・ラジオ。AM/FM2バンドで、深夜放送や音楽番組を聴きまくっていた。

注02.1973年のロバータ・フラックのスマッシュヒット。多くの日本人歌手もカバーした。

注03.京都発祥のジーンズメーカー。ローライズのウォッシュタイプが京都の学生に人気。

注04.70年代のジーンズのメインはベルボトム。派生品がパンタロンやバギーパンツ。

注05.米軍払い下げの軍用シャツ。河原町三条の三信衣料が京都の元締め的店だった。

注06.京都でも知る人ぞ知る老舗珈琲店。昭和30年代のレトロな雰囲気がお洒落だった。

注07.同志社女子大から同志社大学へと続く小径。

注08.同志社大学新町学舎。英文科の本拠地。

注09.同好会の溜まり場。学生街の喫茶店を髣髴。クジラカツランチが旨かった。

注10.行きつけの雀荘。美熟女のママがいた。

注11.カラフルな美術書を中心に幻想文学やカルト本などの品揃えでマニアックな書店。

注12.京都のバンド小僧御用達の楽器店。

注13.学生や若いサラリーマン向けの居酒屋で、店内至る所に、店公認の学生達の落書きがあった。

注14.当時流行のお洒落なパブ。今で言うガールズバー。お値段は良心的。

注15.コイン式の大型蓄音機。カラオケなどない時代で、音楽はこれか有線放送。

注16.夜遅くまで開いてた居酒屋。最後はここで締めていた。
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【年末年始休暇日記】1月4日

2015年01月05日 07時32分30秒 | 徒然(つれづれ)
 冬休み最終日。
 8時起床。
 ローソンでスポーツ報知を買う。
 
 今日は競馬ファンの今年の運勢を占う、東西の金杯が行われる。
 私も競馬ファンであるからには、金杯は外せない。
 今年の運勢は、おみくじによるとスーパー大吉なので、当然当たると思う。
 朝から金杯予想。渾身の予想は別掲。
 
 

 金杯、例によって完敗。今年もマイナスからのスタートだ。

 娘夫婦が孫娘を連れて一泊だけの帰省。
 明日には東京へ帰るという。まあ、旦那の実家がメインだから仕方がないか。
 
 7ヵ月の孫娘はハイハイの一歩手前。まだよその赤ちゃんという感じが否めない。
 一応、iPhoneで写真を撮りまくり。

 晩飯はいつになく豪勢。嫁もこんな料理が作れたんだと、今更ながら感心。

 明日からは出社だ。
 おみくじによると、今年はいい事がありそうなので、頑張らず、へコたれず、ストレスを溜めないように努めよう。
 
 ローカーボダイエットも再開だ。ただ今リバウンドで60kg。55kg台を目指して頑張ってみよう。

 
 12時半就寝。
 
    
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