★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

さらば夏の日 7

2009年07月31日 10時07分50秒 | 小説「さらば夏の日」
 定刻の午後1時にメンバーが全員揃い準備体操が始まる。念入りにやっているのはキャプテンと小森の二人だけで、あとのメンバーは夏バテ気味にただ手足を動かしているだけの準備体操だった。
 
 三年の島キャプテンは、がっしりと引き締まった身体で、ブロンズ色のヘラクレスを彷彿とさせた。砲丸投げでは県内でベストスリーに入る強者で、どちらかというと無口で黙々と砲丸を投げているタイプ。
 もう一人の三年生、山口は185センチ、60キロの長身痩躯で、ヤリ投げが専門だったが、いつも身体のどこそこが痛いとか、疲れたとか言って、練習はいい加減だった。僕たちは秘かに、ヤリ投げではなく投げ遣りの山口と呼んでいた。
 二年の三人は高木、村本、安田といい、陸上部にはただ籍を置いている程度で、掛け持ちでやっていたギター同好会のほうに力を入れていた。三人はスリーホンキーズというフォークバンドを作り、ピーター・ポール&マリーやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの曲をレコードコピーしていた。
 
 準備体操が終わると、各自がその日の練習メニューを発表し、それぞれの練習に入る。僕と下川はクロスカントリーコースのスタート地点へ向かう。トラックのない第二グラウンドでは長距離の練習はすべくもなく、僕たちは、秋に催される校内クロスカントリーのコースを練習コースに決めていた。
 コースは約10キロの距離で、僕と下川は同時にスタートするわけだが、肥満体の下川には10キロの距離はとうてい走破不可能であり、彼はスタートするとすぐ脇道にそれ、折り返し地点の海岸への近道を目指す。
 正規のコースを走ってきた僕と、近道してきた下川が落ち合うポイントが、海岸の防波堤の近くにある『キッチン浜』という小さな食堂だった。

 その日も、僕が『キッチン浜』に入って行くと、下川はすでにテーブルに座って、その頃田舎で流行の清涼飲料水、チェリオを飲んでいた。
『キッチン浜』には四人掛けのデコラのテーブルが四つと六人掛けのカウンターがあり、奥の壁には和洋折衷のメニューが貼られていた。テーブルの横の壁には、ビール会社のビキニのモデルのポスターと清酒会社のカレンダーが貼ってあった。
 カウンターの上のトランジスタ・ラジオからは、ザ・ゾンビーズの『二人のシーズン』が流れていた。
 窓からは、間近に海が見えた。
 真夏の昼下がりの海には、照りつける太陽がスパンコールの輝きをまき散らし、水平線の上の積乱雲は巨大な綿アメのように白かった。
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さらば夏の日 6

2009年07月30日 10時30分49秒 | 小説「さらば夏の日」
 下川の実家は市内でも有数の窯元で、当時ではまだ珍しかった機械化によるオートメーション窯で大量生産を行なっていた。
「そいで東京の何ちゅう大学や?」
「それはまだ決めとらん。決めとらんけど取りあえず東京の大学たい。兄貴も言うとったけど、東京へ行かんと何も始まらんとぞ」  
 下川の兄は東京のN大学の三年生で、今は夏休みで実家に帰省していた。
「兄貴が言うにはな、こがん田舎でくすぶっとったら、何のために生まれてきたのかわからんて。男に生まれたからには、絶対に若いうちに東京を経験せんばいかん。何ちゅうても花の都、大東京ぞ」
 
 テレビや雑誌から吸収した情報で、僕が頭の中でコラージュした東京は、この田舎町からは、現実と非現実ほどの距離があるように思われた。
 僕たちの高校は男女共学の普通高校だったけれど、卒業生のうち大学へ進学する者は全体の四割ぐらいだった。そしてそのほとんどが九州内の大学や短大で、東京の大学へ進学する者は毎年十人にも満たなかった。
 下川の兄はそのうちの一人だった。ゆくゆくは家業を継ぐことを条件に、下川の兄は東京の大学でのモラトリアム生活を満喫していた。兄が帰省するたびに、下川は東京がいかに刺激的な街か、さんざん聞かされていた。そればかりか高校入学前の春休みには、一週間ほど東京の兄の下宿に滞在して、ジャズ喫茶やアングラ劇やフーテン族や学生運動などを目のあたりにしてきたのだ。
「東京は文化の発信地たい。俺は東京の大学へ行って、音楽や演劇の勉強ばして、文化ばプロデュースすると」
「音楽や演劇の勉強やったら、何も大学なんか行かんでもよかろうが」
 僕は当然の指摘をした。
「ばか、そがんこと親が許すか。親には大学に行く言うて、金ば出してもらわんといかんやろが。どうね、おまえも東京の大学へ行かんか? 俺が面倒みてやるけん」
 何を面倒みてくれるのか、その時は聞き忘れたけれど、東京の大学という言葉は、僕の東京のコラージュにおぼろげな輪郭を与え、田舎町との距離が少し近づいたように思われた。
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さらば夏の日 5

2009年07月28日 09時58分35秒 | 小説「さらば夏の日」
 「おまえら、大学はどこ受けるか、もう決めたか?」 
 汗を拭きながら、下川が僕たちに聞いた。
「俺たち、まだ高校に入ったばっかりぞ。大学受験なんかまだまだ先たい」
 津山が言った。
「甘かね。将来のビジョンは早う決めるに越したことはなかと」
 下川は言った。
「俺は大学なんか行かん。おやじの後を継いで漁師にならんといかんけんね」
 小森が言った。
「じゃあ、何で高校なんか入ったと? それも普通高校なんか」
「とりあえず高校くらい出とかんと、今日びの漁師には嫁さんの来手もなかけんね。それに商業や工業高校はレベルが低かけんね」
「将来のビジョンにしては何ともささやかばってん、まあ、頑張ってインテリ漁師になって、よか嫁さんもろうてくれ」
 下川は鷹揚に言った。

「そう言うおまえはどうね?」
 僕は下川に聞いた。
「俺はもう決めとるぞ。東京たい」
「東大か?」
「バカこけ。俺の頭で東大は無理ぞ」
「じゃあ、慶応か、早稲田か?」
「どっちも無理、無理」
「そいじゃあ、どこや?」
「東京の大学たい」
 下川はきっぱり言った。 
「そうか、下川は東京へ行くとか。やっぱり窯元の御曹司はちがうとね」
 小森が羨望の眼差しで言った。
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さらば夏の日 4

2009年07月27日 07時33分46秒 | 小説「さらば夏の日」
 7月の下旬、いつものように僕と下川は補習授業の後、弁当を食べ、着替えをすませてから、照りつける日射しの中を陸上部の練習場所である、校舎の裏山の第二グラウンドへ向かった。校舎に隣接したメイングラウンドは、部員数の多い野球部専用になっていた。
 
 第二グラウンドとは名ばかりの、まわりを畑に囲まれた、だだっ広い空き地の真ん中には砂場があり、隅のほうには小さなプレハブの物置が立っていた。
 僕たちは、先に来ていた一年の二人と一緒に、物置から高跳び用のスタンドとバーを運び出して砂場に設置し、石灰ローラーで砲丸投げ用のサークルと飛距離ラインを引いて、二、三年生が集まるのを待つ。
 一年の二人は小森と津山といい、小森はキャプテンと同じ漁村の出身で、先輩を慕って入部して砲丸投げをやり、津山はマネージャー志望で入部したものの、無理やり走り高跳びをやらされていた。
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さらば夏の日 3

2009年07月26日 17時57分25秒 | 小説「さらば夏の日」
 そんな訳で、僕と下川は入学当初から仲良くなった。
 彼は誰が見ても長距離をやる体型ではなかった。身長は170センチと普通だったが、体重が90キロもある肥満体で、どちらかといえば、長距離より砲丸投げとかハンマー投げ向きの身体つきだった。げんに入部当初はキャプテン自ら、砲丸投げをやるようしつこく勧めたのだが、下川は断固として長距離をやりたいと言い張った。下川が長距離を選んだのは、走ることで少しでもスリムになり、女にモテる体型に変身しようと決めたからだそうである。
 
 理由はどうであれ、若い時には、自分の身体をスポーツによって適度にいじめることが必要なのかも知れない。スポーツで性的フラストレーションは発散しろ、と体育の教師がよく言っていたものだが、当時の僕は忠実にそれを実践していたものだ。
 何も考えずにただ走る。特に目標タイムを設定することもなく、苦しくなるまで徐々にペースを上げ、苦しくなったらペースダウンする。再びペースアップし、またペースダウンする。それの繰り返しである。
 そうやって走っていると、ストイックな長距離も結構身体に馴染んで来るものである。高校に入って約4ヶ月の練習で、僕の身体からは余分な贅肉がかなり落ちたが、下川は相変わらずその肥満体を持て余していた。
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さらば夏の日 2

2009年07月24日 17時48分34秒 | 小説「さらば夏の日」
 高校に入って初めての夏休み。
 激動の時代といわれた60年代が終わり、マスコミが伝える世の中は、天井知らずの好景気の真っ只中だったが、僕たちの町では依然として、夏の白い日射しの中で、アイスクリームが溶けるみたいに、ゆるやかに時間が流れていた。
 
 僕は午前中は補習授業に出席し、午後は陸上部の夏期練習に明け暮れている、いわゆる普通の高校一年生だった。 
 僕たちの高校では、よほど身体が弱いか、卓越した文化会系的才能がない限り、一年生の男子はすべて体育会系のクラブに入部することが、学校の方針として義務付けられていた。あいにく身体も健康で、これといった文化会系的才能の持ち合わせもなかった僕は、部員の数が一番少なくて、すぐにでも競技会に出られそうな陸上部を選んだ。
 
 陸上部は三年生が二人に二年生が三人の、校内では地味で目立たないクラブだった。三年生のキャプテンは砲丸投げが専門で、もう一人はヤリ投げ、二年生は二人が三段跳び、一人が走り高跳びが専門だった。
 僕と一緒に入部した四人の一年生は、一人が砲丸投げ、もう一人が走り高跳びをやり、僕とあと一人の一年生、下川順次郎の二人が長距離をやることになった。
 要するに、僕と下川が入部するまで、短距離にせよ長距離にせよ、走り専門がいない何とも情けない陸上部だったのである。
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さらば夏の日 1

2009年07月20日 17時35分05秒 | 小説「さらば夏の日」
 ひまわり街道の陽炎の中から現れた観光バスは、まわりを畑や田んぼに囲まれた、田舎のドライブインの駐車場に入って行く。
 3台の観光バスからは、修学旅行の生徒たちがぞろぞろと吐き出されていく。大半が駐車場の隅のトイレに行列を作り、あるいは店先のジュースやコーラの自動販売機へと直行する。店内へ入る生徒はごくわずかである。
 15分もすると集合の合図が掛かり、生徒たちは再びバスへと戻っていく。生徒たちを乗せたバスは、長居は無用とばかりにそそくさと駐車場を出て、本来の目的地へ向かって走り去る。

 九州の西の辺境の町。
 穏やかな海と背の低い山々に挟まれ、変化に乏しい日々が積み重ねられていく、のどかで平和なだけの田舎町。
 その昔には、世界に誇る由緒正しい陶磁器が、この町の港から欧州の列強へと輸出されていたらしい。今でも陶磁器の産地として、社会科の教科書にその名をとどめてはいるが、これといっためぼしい観光名所もレジャー施設もない。
 本州からの修学旅行のバスなどは、東隣りのF県から西隣りのN県へ向かう途中で、トイレタイムのためにだけこの町のドライブインに立ち寄る、といった具合である。
 
 そんな町で僕は生まれ、高校卒業までをそこで過ごした。
 僕の名前は上田修二。
 両親は共に、ごく平凡な小学校教師。マイカーやピアノはないが、ステレオやカラーテレビはある、という田舎の中流家庭で、適度な放任のもと、さしたる不満もなく義務教育を終えて、人類が月にその第一歩を記した翌年、ビートルズが解散したその年に、市内の普通高校に入学した。
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ウクレレ練習記6

2009年07月03日 09時13分07秒 | ギター&ウクレレ
7月2日木曜日、ついにウクレレデビューを果たしました。
行きつけのワインバーの4周年記念のメインイベントです。
演奏曲目は以下の7曲です。
 Something
 Here Comes The Sun
 サントワマミー
 Crazy-G
 Take The A Train
 Fly Me To The Moon
 コーヒールンバ
多少のミスブローはありましたが、満足の行く結果でした。
ギターのソロとか弾き語りは珍しくないですが、ウクレレソロには聴衆の皆さんも興味津々という感じでした。
20名の聴衆の目と耳を一身に集めたステージは、程よい緊張と高揚感が入り混じって、普段では味わえない最高の気分でした。
次の大目標の天満音楽祭出演も決定し、練習にも気合が入る今日この頃です。
今後はアドリブや弾き語りにも力を入れていこうと思います。
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