三井記念美術館で開催されている森川如春庵展に行ってきました。10代で光悦の茶碗を2碗も個人所有する審美眼、財力と環境に畏れをいだきました。
東京国立博物館で開催されている大琳派展にも光悦の茶碗が3点展示されていますので比較してみるのには良い機会ですね。(大琳派に関しては10月12日前述)
NHKプロモーションのホームページ美術館、展覧会の紹介から写真と以下の記事は掲載しました。
大正から昭和前期にかけて、東都を中心に伝統から脱した新しい茶の湯が行われておりました。
その中心にあった人物は益田鈍翁、すなわち三井物産初代社長益田孝(1848-1938)です。鈍翁は明治以来、日本古来の美術品が海外に流出している
ことを憂い、自ら古美術の蒐集を行うとともに、かつて使われることのなかった仏教美術などの古美術を茶の湯の世界に取り込み、鈍翁独自の茶風を打ち立てま
す。
大正2年頃、鈍翁は一人の青年と出会います。愛知県一宮苅安賀の素封家森川勘一郎、後の如春庵です。
如春庵は幼少時から茶の湯を名古屋の西行庵下村実栗に習い、15歳ですでに久田流の奥義に達していたといわれていますが、天性優れた審美眼の持ち主で、
16歳の時、西行庵宅で出会った本阿弥光悦作の黒楽茶碗「時雨」を懇望し入手します。さらに19歳にして平瀬家の売り立てで同じく光悦作の赤楽茶碗「乙御
前」を買い、所持します。十代に光悦の名碗を2碗所持した如春庵の感性は鈍翁を驚かせ、39歳の年齢差を感じさせない交友がはじまりました。以後、如春庵
は鈍翁を中心とする東都の数寄者たちと交わり、古美術とも広く接することになります。
「佐竹本三十六歌仙絵巻」切断や「紫式部日記絵詞」の発見など、如春庵の長い生涯には多くのエピソードがあります。また日本の財界に活躍した鈍翁と茶の
湯一筋に生きた如春庵との温かな交流が現存する手紙や茶の湯道具のなかに今なお生きています。
伝統の茶の湯と革新の茶の湯が隔絶している時代に、如春庵はその中間にあって、双方のあり方を踏まえ、生涯茶の湯に生きた稀有な数寄者であったといえる
でしょう。
この度の特別展では、昭和42年に如春庵が名古屋市に寄贈した作品約50点に加え、個人の所蔵品、各地の美術館の蔵品などによって森川如春庵の茶の湯と
益田鈍翁を中心とする東都の数寄者との交流を紹介いたします。