パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「失われた時を求めて」と「シッダールタ」「嘔吐」など

2018年02月12日 18時00分58秒 | 

気張ってみたものの本当に最後までいけるか自信がなかったプルーストの「失われた時を求めて」

と言っても5分の1に短縮されたヴァージョンだ
読み始めたのが1月15日くらいで、読み終えたのが昨日の名古屋からの帰りの電車の中
約一月で読んだことになる
いや、読んでいない、とにかく最後のページまでたどり着いただけ、、という方が正確だ
なにしろ苦労した、ひとつのセンテンスが長いし劇的な事柄が起きるわけではなく
だらだらと頭に浮かんでくることを描写していて、おまけに登場人物の名前と地位とか覚えられない
いちいち気にしてると前に進まないので、得意の「ま、いいか!」で突っ走った

確かに単純に面白いとはいえない
しかし、何故かやめる気はしなかった
上の「祖母の病気と死」の章は、この小説の中で初めて感情的に揺さぶられた
客観的に愛する祖母の亡くなっていく様を書いているのだが、自分の祖母のことを思い出されて涙が出てきた
この時に多分決心した「最後まで読もう!」と

一冊目をようやく読み終えると、二冊目は文体に慣れたせいもあるかもしれないが今度はそんな苦労しなかった
内容もとちょっと下世話な話になって同性愛だとか、恋人に飽きて別れようとするが先を越されて何処かに旅立たれると
やたらと口惜しくて諦めきれない感情になっていく細かな気持ちの揺れはとてもリアルで気持ちにフィットしてきたが
ふとこの様に自分の気持ちにフィットし始めたのは小説が終局に向かってドラマティックになっているせいではなく
プルーストも年令を重ねて来た時期の作で、それが今の自分の年齢に抵抗感なくなったのかもしれないと思ったりした

この小説のタイトル「失われ時を求めて」の失われた時の考察がびっしりと書き込まれた「見出された時」の
「木よ」と「時を超えて」そして「一冊の本」はまさに長編小説の楽しみ真骨頂みたいなもの
今まで細々描写されていた事、エピソードや思い、風景が一気に回帰する
この効果はすごい、、そしてプルーストの本当に表現したかったこと、伝えたかったことがものすごい力で頭を襲ってくる
ところが、急に変なことが頭に浮かんだ
これはヘルマン・ヘッセの大好きな小説「シッダールタ」の最後の部分に何か似ている、、と
またサルトルの「嘔吐」にも似ている、それどころかメルロ=ポンティの「目と精神」にも似ている
その他にもゲーテの「ファウスト」の第二部「「止まれ、時よお前は美しい、、」(だったかな)に部分の気持ちにも似ている
ここまでくると連想は勝手に羽ばたいて音楽の分野にまで達した
ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章の境地にも似ている、、

結局のところ人の達する境地というのは表現の方法は違うかもしないが、印象としてはどこか似たものになるのではないか
などと根拠のないことを思い浮かべたわけだが、何故かそれはそんなに違っていない気がしている

この「失われた時を求めて」は全体の5分の1の縮小版で、他の部分はどんなことが書かれているのか気になるが
さすがに今は全部読もうという気は起きてこない
その代わりにウキペディアでこの小説のことを復習している
すると、情けないことにこんなの小説のなかにあったかな、、と思われるようなところがあって(注目していなかったせいで?)
自分の読書力に自信を失うことになるが、、、
でも、ま、いいか!
今は縮小版でも最後まで行ったことで、自分で自分を褒めることにしよう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「冬の旅」宗次ホール

2018年02月12日 08時39分51秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

森進一ではなく、シューベルトの方の「冬の旅」を名古屋の宗次ホールまで聴きに行った
有名な楽曲だが「冬の旅」はレコードでもめったに聴かない
昔ハンス・ホッターの歌うレコードを聴いてその孤独なモノクロの世界のやりきれなさに落ち込んでしまったからだ
でも、もっと昔の高校の音楽の授業では冒頭の「おやすみ」を歌ったときは気分良く歌っていた
ピアノが表情豊かに伴奏して、イタリア歌曲の声を張り上げる心地よさとは違う種類の快感を感じていた

少し前、急にこの曲を聴く気になって幸いカビの被害がないレコードをかけた
すると、昔聞いたときのような絶望感、やりきれない思いは感じない
むしろなんと表現していいかわからないが、美しさみたいなものを感じるのだった
今なら聴けるという気分になった時知ったのがこの演奏会だ

歌うのは男性ではなく女性(メゾ・ソプラノ)
この歌い手さんの情報は自分には全くない(最近の音楽界の情報はCDを買わないから手に入らない)
歌い手がどうのこうのというより、その時が楽しめればそれで満足、、
という気持ちでどんな演奏会も集中することにしている

高校で習った「おやすみ」が始まる
いきなり、あれっ!と感じる
ピアノの音が何か予想と違うような、、
自分の頭の中ではもう少し軽い音を予想していた、しかし、実際の音は重い

結局のところこの違和感(こうした発見が実演の楽しみなのだが)は最後まで消えることはなかった
「菩提樹」でも、一瞬の明るい感じを見せる「春の夢」でも、また「からす」でも表情豊かな
高い音程のメロディはどこかゴツゴツしていた
自分の希望としてはピアノ伴奏は歌にまとわりつくような、それでいて物理的な音ではなく
自分の頭のなかの楽器がなってるような錯覚を起こしてくれる演奏を期待してた
(この感覚はヴォルフの歌曲をフィッシャー・ディスカウの歌うレコードのバレンボイムのピアノ伴奏で感じる)

最後の辻音楽師(ライエルマン)でももう少し虚無的な印象が残る伴奏はできるのでは
と思ったが、この人(高橋悠治)はこの演奏スタイルなのだろう
今回のピアノは伴奏というより二人がそれぞれ主張してるような気がした
そこで、これは自分だけが感じることか、、と思ったが、この演奏会のポスターを改めて見てみると
「あえて洗練を避けた無骨なピアノ」という文字が書いてある
やっぱりそうなんだ、、錯覚とか思い込みでもなさそうなので少し安心したが
それでも好みとしては、普通のピアノが良かったな、、が本音

歌い手さんの方は特に気になるところはなかった
メゾソプラノでも変じゃない
歌が進むに従って徐々に集中が高まり、熱気を帯びていくのは生ならでは
しかし、今秋はピアノが気になって仕方なかったな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「標的の島」を見て思い浮かんだこと

2018年02月11日 08時26分52秒 | あれこれ考えること

他人事ではいけないと思いつつ積極的に何か発言するとか
何かをするまでには至っていない沖縄の問題
遠く離れた地からすれば、残酷な「全体の利益の為に」の言葉を簡単に発してしまいそう
その言葉のせいで彼ら島民がどれだけの困難な理不尽な目にあってきたかを
考えることもなく、流れるままに(報道の)ただ現実を眺めていただけの自分

少しばかり引け目を感じる自分にきっかけを与えてくれたのが、穏やかな性格のH氏
年齢はいってるが、市政や憲法や原発の問題にも関心をもっていろんな活動に参加し
決して過激に走ることはなく、賛否両論を考えるタイプで本当に尊敬できる人物だ
そのH氏の求めに応じて購入したのが映画「標的の島」のチケット

深刻な重いテーマだが、全体的にはそのような雰囲気はない
それは反対している人たちの「無抵抗・無暴力」の行動、そしてあの地方の方々の
何かがあると直ぐに踊りだす(三線を演奏しだす)文化のかもしれない

無知と情報をもっていない身でこのドキュメンタリーを見ると
演奏会で音楽を聴いている時のように、いろんな想像が勝手気ままに飛び交う
それは現在読書中のプルーストの「失われた時を求めて」のようで
人の頭の中というやつは、何かを感じていて時間を費やすというのは
まるで夢の中の出来事のようだ(プルーストの影響が大きいかな?)

映画の中で思い浮かべたこと
画面によく出てくる三線の音楽や踊りは彼らの生活に本当に根ざしており、これらは人を結びつける大きな力となる
これらを見るとシベリウスの「フィンランディア」が祖国の統一の意思表示に大きな影響を与えてるのがわかる
文化とか伝統というのは理屈以上の何かなのかもしれない

未来は結局のところ各人が想像する事によってしか目前に現れないが
沖縄の問題については、この未来を想像する、この方向性が2つに分かれる
ひとつは日々報道される不安を感じさせる社会状況(周辺諸国の軍事拡大路線とか)に対して
リアリストが考える力には力で対抗する(戦うためではなく、戦わないための)抑止力の選択
片方は何かのきっかけで戦いが起こってしまった場合には、誰でも思いつくが真っ先に攻撃されるのは
軍事施設のあるところ、つまり沖縄で、先の大戦では考えもしなかった一般市民の犠牲がまたもや繰り返されるのではないか
もうあのような経験はしたくないし、すべきではない、、
力に力で対抗するのは、間違いを犯す人という生き物を前提とすると良い方法ではない、、との考え方
この2つのどちらがより現実的なのか、、、はっきりいってよくわからない
しかし、どの国の人も無駄な戦いはしたくないのだろうから、どこかで折り合いをつける方法を選択して欲しいと思っているが
このあたりは、まだ当事者ではない他人事の感覚なんだろうか

宮古島の基地の受け入れについては反対の人もいれば賛成の人もいる
この映画は反対の立場からだが、受け入れを市長・議会が承認した
市長も議員も住民の選挙による選択なのだから、彼らが暴走したとはいえない
しかし、ここで問題となるのは新城市でも似たようなことだが
選挙は本当に民意を反映するシステムになっているかという点
以前新城市の選挙の時も考えたが、ある人にとっては選択基準は「よりよい社会」という想像の中にあり
ある人物にとって「いまを生きている社会が続くか否か」という現実の問題となる
こうした場合、想像の上でのより良き社会よりも、現実の生活の継続を求めるほうが多いのは容易に想像がつく
だからこそ選挙というシステムが本当により良き社会を生み出しうるのか、、ちょっと疑問
と言って、それに替わる方法を考えたり思いついたり提案しているわけではないのが情けないが
軽く考えると、選ばれるような人たちが、本当に全人格的に優れていれば、、ありがたいということに落ち着くかもしれない

反対運動をして座り込みのデモをしている人たちを排除する為に日本各地から警察官が動員された
地元の人間でなく当事者でない警察官は一体どのような気持ちなのだろうと考えた
前に読んだ本のなかには、感じやすい警察の人もいて涙を流しながら職務を遂行した人の例が紹介されていた
(その人は直ぐに現場から離れるようにされたらしいが)
個人として、人として、こうした問題に考えてしまうと組織がまとまらなくなってしまいそうなのは想像がつくが
こうした公務員のような人が、人としての判断をしてはいけない世界は、、少し、どうなのかな
組織がばらばらになるから統制を取るためには仕方のない現実的なシステムが現在の法律だろうが
これを思うと「アイヒマン」も命令に従った単なる役人に過ぎない事になる
個人の判断というのが、どこまで必要でどこまで責任があるものか
ちょっとばかり答えの出そうもない問題となる
(ハンナ・アーレントの著作のなかには「判断と責任」というのがあったはず、読み返してみるか、、)

結局のところ、答えのないことをうだうだと頭の中で考えることになってしまったが
明らかなことは、沖縄の人たちにもうこれ以上の負担や犠牲を強いることは良くないし
先の大戦であったような経験は絶対繰り返してはいけないということだ

その思いを島の人たちは「非暴力」「無抵抗」で続ける
彼らは非力だ
徐々に進みつつある現実には力や効果を持たないように見える
でも、「なぜ続けているか?」の問に
「知ってしまったら、、何かをせずにはいられない」
沖縄の過去の歴史、これから起きうるかもしれないこと、、それらを知ってしまったら
自分が何ができるかわからないが、何かをしなければならない
そしてその行動がたとえ無駄であったとしても
「この理不尽なことに対して、反対をした人間がいた事実は歴史に残る」とこたえる
いい意味での開き直り、悟りのような言葉は、この映画の最後で登場するが思わず熱くなる

役に立つこと、無駄なこと、
でも自分が信じて行うべきとしたことを、続けること
結局は自己満足かもしれないとしても、その意志の気高さ、、は
そのように生きている人がいるという事実は、ひとをどこかホッとさせる

日曜の朝というのに、相変わらずうだうだと、、ま性格だから仕方ないか
昼からは宗次ホールでのシューベルトの「冬の旅」聴きに行く
男性ではなく女性による演奏だが、ちょっと楽しみ、、
せっかく名古屋に行くから、あれ買ってきて、、との注文を受けているが
はいはい、でも高島屋はバレンタイン絡みで混んでいるだろうな、、




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言語の影響力

2018年02月10日 18時27分43秒 | あれこれ考えること

根拠のない、ただそう思うというだけの話

ベートーヴェンやバッハの構成的な音楽は彼らの使う言語「ドイツ語」と似てる(気がする)
ドイツ語の格変化や分離動詞とか、枠構造とか単語が連結して新たな単語になるさまは
ソナタ形式を自在に扱ったりフーガの千変万化と似てるような気がずっとしていた
ドイツ語で考える普段の生活が自然と構成的な音楽を作り出すようになっているのではないのか
メロディーラインもドイツ語のリズムをどこか感じさせる

言語の影響はドイツ人だけでなく、フランス人の音楽はドビュッシーやフォーレやベルリオーズの音楽は
メロディーラインがドイツのようにゴツゴツしていなくて、ふわっと繋がる感じ
(幻想交響曲の2楽章やフォーレの歌曲「夢のあとに」はドイツ人には書けないメロディと思えてならない)
それはリエゾン(だったかな?)みたいな感じでとにかく繋がってる感じ(プルーストの文章みたい)

ドイツは思考というものに、フランスは感覚・気分に(と言っても感傷的ではないが)
左右されているような印象を持つ

イタリア語は語感がハキハキした感じで、生々しい響きになっているし、感情の発露に長けた音楽が多い
英語はクラシック音楽よりはロックとがブルースに合いそうな語感がある

では肝心な日本語は、、
日本語は確かに、575的なリズムが基本になっているみたいに思えるが、そのリズムでも
和歌の場合は正式には(?)のんびり詠われるのでお祭りのような賑やかさよりは、静かに盛り上がって
ホンの一瞬だけ琴線に触れるようなところがあって、それは解決せずに余韻をもって終結するのが自分の中では心地よい
このような気持ちにさせてくれる音楽が「平城山」と「影を慕いて」
どちらも詠嘆の気持ちが強い
静かに内的な感情の高まりで頂点を目指す
しかし、イゾルデの「愛の死」のような圧倒的なピークは訪れない
一瞬たかまったかのように思えても、また最初のどこか沈んだ過去を振り返るような気持ちに戻っていく、、

何にせよ毎日話している言葉だけに、言語はいろんなところに影響を与えているだろうな、、
ただ、ふとそう思ったというだけのこと、、

※サッカーの戦術、好みの国民性も言語の影響が多いみたいな気がしている

おまけ!この好きな曲のYoutube動画

平城山 鮫島有美子

影を慕いて 森昌子 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「熱気」が違うレコードの音

2018年02月09日 08時40分59秒 | 徒然なるままに

最近音楽ソフト(CD)を購入していない
ダウンロードに移行しているからではない
真面目に聴こうとすると、その音がどうも何か違うという気がするからだ
代わりに聴いているのがレコード

CDの音とレコードの音とどちらが良いか?
といった比較はあちこちでよくされる
装置にかける金額でかなりの違いが出てくるので単純にどちらのほうが良い音とはいえないかもしれない
でもはっきり言えるのは、レコードの音のほうが自分は好きだ、、ということ

オーディオの音の良さを比較する動画を見かける
オーディオショップでも、その装置の優秀さをわかりやすくするために試し聴きの機会が設けられる
問題はこのとき使われるCDソフト(音楽)で、ギターのソロとかが多いような気がする
立ち上がりの鋭さとか、静寂の深さとか、歪のなさだとか、、なんとなく澄みきった音だなということはわかる
でも、残念ながら感動したことはない
それらは音なのだけれど音楽じゃない気がしてならない

音楽の印象は録音媒体で聴く場合、確かに機器の良し悪しによって随分変わるだろう
高校時代に安いオーディオ機器で聴いた音楽が、少し贅沢できるようになって高めのオーディオで聴いた音楽とは
こんなところにこんな工夫とか、感情移入があるのかと、改めて感じることが多く
それなりの装置で聴いたほうが良いには違いない
しかし、人には財布という限界要素がある

自分が聴きたいのはあくまでも音楽
きれいな音、実験室で培養されたような無機質な音でなく、音楽
CDで何か違うと感じるのは、レコードで感じる「熱気」みたいなものが感じられないからだ
そう言えば、イヤホンで音楽を聴くとアイフォーンのイヤホンでもかなりいい音に聴こえる
でも、へそ曲がりな自分は、情報量が多くて聞きやすいことは認めても
音楽というものは振動が空間を占める空気を伝わって、あちこちの壁にぶつかりながら人の耳に
達するというのが昔から前提となっているし、それが一番と思っている

ある程度の距離の空気の振動で何かを感じるということ
そしてそれが気持ちよく感じられるのは、圧倒的にレコードという媒体のほうが多い
若い時はレコードしかなかったが、たまたま気分が乗ってその世界に入り込むとレコードのひっくり返して
次に次にと時を忘れて聞き続けたことがあった
でもCDではそんなことは一度も(多分)ない

以前出かけたMetライブビューイングという映画(メトロポリタンオペラのライブ上演映画)は
近代的なオーディオで迫力のある音ということになっていたが、
何か違う、、という思いを捨て去ることができなかった
どこか「角がある」
本来はもっと伸びやかなのに、、、

ということで、買わないから新しい演奏家とかグループだとかの情報は全く増えない
固くなった(?)頭には、新しいものよりは馴染みの音楽のほうが気分いいようだ
でも知持ちのレコードのなかにはまだ聴いたことのないのも少なからずあるので
それを聞いていれば少なくとも自分にとっては新しいものということになる

音楽を何かしながら聴くというのは、最近はもったいない気がしてならない
それなりに気合い入れて聴かないと、つくった人たちの思いが感じられないからだ
一期一会まで大げさなことはないが、音楽に身を委ねる、、
この体験は年齢からすると徐々に無限に存在するものではなくなってきている
もうこれでこの音楽は一生聴かないかもしれない、、と思いながら手持ちのレコードを聴く
本来ならば音楽体験はライブ(生演奏)が一番なんだろうが、田舎に住んでる身とすれば
録音媒体で我慢するのは仕方ない

ということで、毒にも薬にもならないお話、、

ところでハイレゾ音源の音楽は真面目に聴いたことがない、
でも実験室でのような音の印象があるので気が進まないでいる(偏見かな)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原体験と原風景

2018年02月08日 08時18分02秒 | あれこれ考えること

机の上に大きな紙
その上段の左右に、幼児期・小中学校・高校大学・社会人(青年期?)・熟年期(老年期?)
用紙の左端には、20代・30代・40代・50代・60代(正確には忘れてしまったが、とにかく年齢を表すもの)と書かれ
そして赤・ピンク・青・黄色などの数センチ四方の紙と、サインペンが置かれている

これは先日地元で行われた、新城市の総合計画のための市民検討会に出席した時の光景
目指すべき新城市の将来像のヒントとなる市民の意見交換(収集)を目的としたもので
井戸端会議的にのんびりと話せる雰囲気で行われるとのことだった

始まってしまえば堅苦しい話はあまりなく、それなりに和気あいあいと進められて
特に何か問題があったとは思えない(?)が、参加者はそんなに多くない
何処かでよく見かける顔の人物もいたが、市の関係の方が相当数いて彼らは意見のまとめ役として
(報告用にだろうか)絶えず小さな紙片の整理やら、話がそれてしまうのをうまくコントロールする役割を果たしていた

参加者が多くないのはなぜか?とか、まとめ方が結局は行政に都合の良いようにまとめられて
結局は「市民の意見を聞いた」というアリバイ作りに利用されるのではないか、、といった意地悪な憶測は
全然浮かばなかったとは言えないが、それよりも個人的に興味深かったのは冒頭の用紙を用いての話し合い

自分を振り返って、あるいは現に生活している者として「幸せだった」と感じたことはどんなことか?
これも正確には覚えていないがこのような内容のことをグループワークに参加している各人が小片に書いて
大きな用紙の該当する場所にペタペタと貼り付けていく
「幸せだったこと」が求める社会の原型となるとの考え方なんだろうか

この用紙の利用箇所は左側、つまり幼児期・小中学校が圧倒的に多い
右端の熟年期(老年期?)も少しあるが(参加者も自分も含めいたので)すっかり抜けているのは高校大学・社会人(青年期?)
人生のうちでは気力の体力もありやり甲斐があるはずの時期だが、何故か紙片で埋まらないでいる
しかし、この傾向は自分たちのテーブルに限ったことではなく別の場所で行った時も見られる傾向とのこと
特にこの様な地元の事柄については、この時期の(特に男の)連中は地域のことよりも自分の属する会社(社会ではなく)への
使命感・責任感・時間配分が要求され、どうしても社会が「対会社」の範囲を超えられないとのことだ
なるほど、これは実感としてよく分かる
自分もこの場所に貼るようなことは思い浮かばなかった

それにしても、圧倒的に多いのが幼い時のこと
年配の人間は人生を振り返って「幸せだった」ときのことを書き込む
でも現在子育て真っ最中の女性の意見は少し違う
問われた問に答えてるとは思えないが、現実に生きていて直面する問題としての
幸せを感じるためには、、との視点で意見を小片に書き込む
「このような施設が欲しい」「この様なシステムが必要なのでは」「もっと賑やかであって欲しい」「子どもたちのためには、、、」
現役の実感のこもった意見はなかなか迫力がある
我々の過去を回想するような、懐かしいだけの話とは違う

しかし「幸せ」ということについては、振り返ることが許される年齢の自分らは少し考えてしまう
どの時期が一番幸せだったか
もちろん瞬間瞬間はどの時期も忘れがたいエピソードに満たされ、それなりの幸福感を感じていたはずだ
でも、こうして漠然と聞かれると、、
幸せだったのは「誰かに見守られているような、何もかもが肯定的に許され、くだらない話も楽しそうに聞いてくれていた」この時代
幼児から小中学校時代と言えるような気がする
その時は気づかなかったが、誰かが話を聞いていてくれる、そしてそれを面白がってくれている、、
この安心感は今はとても大きかったと実感する

突然話は飛んで、老齢化の進む社会となれば交通の利便性・医療のことを考えればコンパクトシティと言われる形態のほうが客観的には
便利そうに思えるが、ここでその傾向にブレーキをかけるのは、先程の「幸せだった時」の記憶
見守られて幸せだった記憶と、彼らの親(祖父母)の子どもたちを見守った数々の記憶の残る家とか風景とか祭り
そうしたものは、他人の効率的か効率的でないかの判断以上のものだ

原風景とか原体験
それが実はなかなか理屈でコントロールできない判断の基準になる
この原体験とか原風景をベースに、あるべき将来の姿をイメージするというのは
抽象的かもしれないが実は案外現実的かもしれないと思わないでもない
でも、現実はより具体的な、問題解決型の方向で進むんだろうな
(出てきた意見を解釈するのは、そういった思考に慣れている人でないと、、
 実務家一点張りではきっとダメだろうなとおせっかいは思ってしまう)




 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しんしろいかだカーニバル

2018年02月07日 11時02分03秒 | 徒然なるままに

今日は横着して別のブログからのコピペ

新城市なんて何にも無いじゃん!
長篠の戦い(設楽原の戦い)も現地に行ってみるとスケール感がなくて
少しばかりがっかりしそうで、定番のような「豊かな自然」という言葉もどこでも使うし
つまりは誇ることなんて無い  と思っていた時期があった

ところがある時期、「新城はすごいぞ!」と自慢したくなるようなことがあった
それが「いかだカーニバル」
もう20年以上も前のイベントだ
豊川の弁天橋付近から桜淵公園まで、三河材を使ったいろんなデコレーションをした手作りいかだで
タイムを競うのと、デコレーションの出来を競うイベントだ
豊川は新城市だけでなく豊川市、豊橋市にも流れている
規模が大きなそれらの市ではなく、小さな新城市が豊川という資源をうまく使って
単純に面白そうと思えるようなことをしたという事実がどこか誇らしかった
(新城市は小さいだけに意見がまとまりやすく、おまけにノリがいい、、と)

だから、参加はしない自分も弁天橋へいってスタートの写真を撮ったり、
ゴール地点で審査結果を待ち遠しく待っていたりした
参加はしていなくてもお祭りのようなウキウキした感じがしたものだった
このイベントはテレビ局も特番をつくったり(東海テレビ)で、楽しいもので
ずっと続くものだと思っていた

しかし、今は多くの人の記憶の中にしか無い
いや若い人のなかには記憶のなかにさえない
なぜ、止めてしまったのか  続けられなかったのか、、、
その理由の一端をごく最近聞く機会があった
それを聞くと、、、、う~~ん!

でも気持ちさえあれば続けられたのではなかったか、、という思いが
(さてその理由とは、、)

今は懐かしい、ノリが良かった頃の新城市のイベントいかだカーニバル
その写真は、今も残っている「しんしろいかだカーニバル’97」から拝借してこんな感じ


楽しそうだ
ついでにこのページは⇒しんしろいかだカーニバル’97

Youtubeにもアップされているものがあった
新城いかだカーニバル、中年雷族Ⅱ世、雷族、かみなり
 

ホント楽しそう、、

話は変わるが自分が子供の頃、桜淵を横断する渡し船(和船)が桜祭りの時期に登場した
これも、なんか楽しかったな、、

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スッキリした!

2018年02月06日 08時20分30秒 | 徒然なるままに

ずっとiMacの調子が変だった
立ち上がるのに時間はかかったり、立ち上がらずにレインボウカラーの円が
いつまでもクルクル回り続けたり、何よりもやたらとメモリーを食っている様子
「このMac」からストレージの項目を見ると「その他」がべらぼうに大きい
音楽・動画・写真・アプリ・バックアップよりも圧倒的に「その他」が多かった

気にはなっていたが、やっとなんとかしなければ!と思うようになり
先日名古屋のアップルストアで聞いたサポートセンター電話番号にかけた
(何回かかけたことはあるので番号は知ってたが)
Mac担当部所はそんなに問い合わせが無いのかすぐに繋がった
まずは、症状の報告
ごく普通の解決法が提示される
作成したファイルを外部の記憶媒体に保存してここには残しておかない
とか、ダウンロードしたファイルのいらないものを削除するとか、、
でも、それらは検索してやってきた(検索にはインターネットの情報を盲信してはいけないともあったが)

やってきたことを告げると、OSの再インストールを勧められた
現在仕様中は10.9.5 Mavericksだ
最新のにすると使えないソフトが有るし、特に最新のにする必要性が今のところ感じないので
現在のOSを再インストールする方法を教えてもらった
これは簡単、で、その結果は、、、、「その他」は全然減らず

もう一度、電話をした
前回とは違う人、しかし受付番号から相談した内容は伝わっている
もしかしたらスポットライトで、関係ない内容がストレージに計算されているかもしれない
ということで、スポットライトのチェックを行う
しかし、それで問題解決には至らず

3回目、「その他」のそもそもの大飯ぐらいのファイルを探すことにした
すると、あったあった大飯ぐらいのファイルが
アプリの中のシマンテックのフォルダ(ファイル)がべらぼうに大きい
いくらなんでもこんなに大きなソフトなどあるはずがないくらいの大きさ(何百ギガ)
犯人はこれか、、ということで、今度はアップリからシマンテックに電話
ちょいとリモートサポートでシマンテックの製品(インターネットセキュリティ)を診てもらうと
「これは妙に古いヴァージョンですね、それに壊れているようです」
昨年自動更新をしたし、てっきり問題はないと思っていたのに、、
ということで、この問題のソフトをアンインストールし最新のヴァージョンをダウンロード

すると、使用中のストレージはぐぐっと減って「その他」は控えめになった
たったこれだけのことだが、なんかスッキリした
ずっともやもやしてたことが解決したようで、、
このiMacにはまだまだ頑張ってもらわねば、、

でも最近は、そんなに難しいことはやってない
今望むことは、程々の性能で長持ちすること
(現在使用中のバックアップ用のTime Capsuleは購入してから時間が経ってるので
 それそろやばいかな、、、)
 
それにしても、スッキリした、、朝から気分がいいみたい 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しむ能力

2018年02月05日 19時20分07秒 | 

昨年はまずまずの読書量だったかもしれないが、今年は思いっきりスタートが出遅れている
その原因はプルーストの「失われた時を求めて」のせいだ
端っから全部を読み切る気力はないので、(上)(下)の2冊(各500ページくらい)にまとめられた
ものに挑戦しているのだが、正直なところ投げ出したくなる
20世紀の重要な小説などという触れ込みがあるものだから、気張って購入したのが10年以上も前
しかし、最初の数ページですぐさま挫折してしまった
本棚で背表紙が見える度に読もうとしないことに心苦しい気がして、敢えて見ないようにしたりしたが
どういう風の吹き回しか、突然読んでみようかという気になった

しかし、ほんとに手こずる
たとえ2冊を読み終えても(最後のページにいっても)何にも覚えていない
と自信を持って言えそうだ
劇的なストーリーがあるわけでなく、ひとつの事が書かれると思ったら知らないうちに
妙に細かな描写とそこから連想することなど、、、本当にわけがわからなくなる 

併読している「植物はすごい」を先に読んでしまおうと思ったが
ここで一旦離れると、もう一生読めない気がして、それに登場人物の名前や背景も忘れてしまいそうなので
無理やり浮気はやめて、とにかくこれを最後まで読もうと思いこんでいる

だが今日読んでいたところは、泣きそうになった
「祖母の病気と死」と題された章だ
自分を無条件で大事にしてくれた祖母が、老衰でだんだん弱ってきて、いったん病院に行ったものの
病院の生活はいやだ、どうしても家に帰りたいと必死に望み、多分祖母も死の覚悟をしたのだろうと思うが
その祖母がこの小説の描写にあるような状況になっていった
読んでいて頭に浮かんだのは祖母との最後の数ヶ月のシーン
祖母のことを思い出すと今でも感情が高ぶってしまう
有名なマドレーヌのシーンは覚えていなくても、このシーンはいつまでも覚えているかもしれない 

ところで、今はもしかしたら(上)(下)の最後まで行けるかもしれないという気がしている
というより、どこか意地になって最後までページをめくるつもりでいる
何も覚えていなくても結構、
少なくとも楽しんでいないなら最後まで行けるはずはない
だから何も覚えていないということになっても、読書の瞬間瞬間はなにかしら楽しんでいるのだろう
考えてみると、これは贅沢なことかもしれない
auのCMじゃないが、「学んだことは誰にも奪われない」 みたいなもので
楽しむ能力は誰にも奪われない、、いうところかな 

もっとも、それは何の役に立つわけでもないが
ま、いいか! 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タブレット端末について

2018年02月02日 08時09分42秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

タブレット端末(iPad)を所有している
開発者のジョブズがイメージしたように、リビング・寝室で使うことが多く
ソファや炬燵に座って、あるいは寝転がって画面を覗いている
最新のニュースの収集、SNSの投稿や確認、動画(Youtube)やDAZNの試聴、テレビで出てきた言葉や地区の検索 
遠く離れた人たちとのテレビ電話(Facetime)、毎日の気温湿度の記録、スケジュールの書き込みと確認
写真・動画撮影、フォトフレームとしての利用
そして旅に出るときは列車時刻や経路の確認、また持ち出して現地でのブログ更新など
多くの人が一番の使い方をしているかもしれないゲームは自分はしないが、この様にしっかり使っている
また自宅にやってくる証券会社や生命保険の方々も、タブレット端末を持ち出して作業を行い
少しばかりなれていないかな、、と思う面もあるが、そういう時代なんだと感じたりする
実際のところ本当に便利で、充電も頻繁に行う羽目になっている
だが、これらは基本的には受動的な行為に対するツールで、見るだけとかちょっとした記録とかに適しており
面倒な書類作成とか、長ったらしいブログの更新などはデスクトップパソコンで行っている

新城市ではこの便利なタブレット端末を600台以上購入して、職員の業務に利用してもらう計画がある(可決しているが)
それに要する費用が総額1億7000万円
これが高いか安いかは直ぐにはわからないが、なんでも反対したがる(?)かもしれない自分でも、これは
「そういう時代」で遅かれ早かれやってくるから、要は「今か、もっと後か」だけの問題で、金額がマトモなら
覚悟の問題だけだ、、、と思っていた
だから、なるべく安く済むような工夫をしてほしい、、それが大事だと考えていた

ところが、少し時間が経って、このタブレット端末を職員は一体どんな使い方をするのだろうかと
その光景を思い浮かべようとすると、職員の仕事の内容を知っていないせいか、なかなかイメージが湧かない 
確かに窓口で市民に何か見せながら業務をこなしていくのはありそうだ
でもそれは多分全体量からすればそんなに多くない 
まして職員さんの仕事は書類作成みたいなものが多く(?)必要なソフトはワードやエクセル、パワーポイントのようで
これらの作成にはタブレット端末よりはデスクトップやノートパソコンの方がやりやすいそうな気がする
要は、タブレット端末とパソコンは両用して、それぞれ使い分けるというのが現実的なのかな、、と
自分の例も鑑みて想像する

そのように考えると、購入する数字600台以上というのが理由のある数字なのかが少し疑問に思えてくる
どこかの時点で600台以上必要な理由が議決権のある議員さんにも説明されたと思うが、少なくとも自分らは知らない
購入金額が1億円以上もかかるものだから、慎重な議論が行われていたと信じたいのだけれど
最近の新城市のことを振り返るとそうは行政の説明をのんびりと信用出来ない気分になるのだ

そこで、今度は金額について
これは指名入札というシステムで行われた
電子入札システムで、入札できる業者はそのシステムが利用できるだけでなく、後々のメンテナンスも考えて近くに
営業所などがあることが必要とされたようだ
指名入札の「見積もり仕様書」というものがあるということを、ある人から教えてもらい自分が納得するために
市役所まで出かけ手にいれた
なるほど、この書類には細かな仕様が記入されている
そのなかに、基準品・指定品・制作品の区分という項目があって、そこにはあるメーカーの製品名と型番が記入されている
タブレット端末はいろんなメーカーから出ているが、今回はこのメーカーのこの型番で入札するように依頼されたのか、、
と素人で慌て者の自分は思い込んでしまった
結果的に落札したのはこの型番のタブレット端末を製造しているメーカーのグループ的な要素の企業
だが、この手の入札に詳しい人が言うには、普通はメーカー・型番に措定はしなくて「性能指定」みたいなものを
表示して行うのが普通だとのこと
実際のところ、こうした機器はどのメーカーでも大した差がなさそうなのは現実で、これこれの性能さえあれば
どこのメーカーでも問題はなし、、との考えのもとに進められるべきだとも
そしてそのように行われた場合、200台以上ともなれば希望小売価格の何分の一くらいが相場ではないか、、とも声も

昨日臨時に開かれた新城市議会でこのタブレット端末の購入について話し合うことになったが、お誘いもあり出かけた
そこである議員さんの質問「メーカー・型番は決めた上で入札をしたのですか(性能指定ではなく)?」
するとびっくりしたのが、「見積もり仕様書には、確かに型番は記入されていますが、基準品という項目にチェックが
はいいっています。これがこの仕様書と同等の性能を有するものであればどこのメーカーでも良いということで
決してメーカー・型番を指定したものではありません」の市職員の方の答弁
思わず、「そんなことわかるか!」の声が出そうになった
指名業者は指定されたメーカー・型番でなくても、指名業者の自分たちの得意とするメーカーの同等の性能を有する機器で
見積もればいいということだが、そうしたことをこの見積もり仕様書をみて判断できたのか、、
普通は明らかに記入されている型番の見積もりをするんだ、、と解釈しそうだが、、
入札慣れしてる企業はこのような用語にちゃんと対応できているのだろうか

疑いを持つと切りはなくて、たとえば同等の性能があれば良し、、としても
仕様書には細かなサイズの指定等があった場合、(大枠な性能には違いがないとしても)
メーカーはデザイン等で違いを演出するので、指定された要件を果たせないこともあり
性能指定というものの現実に該当するのはひとつしかなく、結果的にメーカー・型番指定になっているということがあるらしい

ここでごちゃごちゃと面倒なことを書き連ねたのは、タブレット端末の導入の反対を思い込みでしてるということではなくて
少なくとも導入にあたっては最低限上に述べたような懸念が払拭された上で物事が進められていってほしいということ
きちんと説明がなされて納得がいけばいいだけのこと
(本当はこの型番に指定されたスペックが本当に必要なのか、、、との疑問も浮かんだが、これは、ま、いいか!)

要は立場立場の人が、職員さんも議員さんも、きちんとやっていただいて、きちんと説明をしてほしいということ
別に何か疑わしいことがあるとは(今のところ)思ってないし(思いたくもない)

ところで、市の求めるのタブレットは、タブレットいうもののOSは(タブレットで一般的な)IOSやアンドロイドではなく
ワード・エクセルを使いたいためかウインドウズで、現実には使い方としては少しだけ 持ち運びが楽なノートパソコンみたいな感じかな


しかし長いな(3283文字だって)


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする