パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「予想通りに不合理」(人間ってやつは、、、)

2017年12月08日 09時52分23秒 | 

少しばかり予想より時間がかかってしまったが、やっとのことで最後のページまでたどり着いたのが、この本

「予想とおりに不合理」ダン・アリエリー
そのなかに、ちょっとした嘘(不正)はどんな人もしてしまうと思われる例が紹介されていた
例えば、男性が女性に書面でプロフィールを紹介するときは、身長・年収を少し盛って記入し
女性が男性に書面でプロフィールを紹介するときは、体重・年齢を割り引いて記入する
このあたりは、やりかねないな、、と簡単に想像がつくし、しょうがないなあと苦笑することになりそう

この本でははもっと深掘りをして、人間がつい起こしてしまうちょっとした不正(嘘)について
呆れるほどいろんな心理的な実験が行われ(中にはえげつないものもあって、よくやったもんだと思うものもある)
その結果や心理的傾向が紹介されている

ある大学の幾つかの研究室の冷蔵庫にコーラ6本パックを勝手に入れておいた(それぞれ研究室のスタッフでない人が)
明らかに自分たちのものではないと解っている状態で、このコーラはどうなるか(飲まれてしまうか)を調べたのだ
すると、大半の研究室で72時間以内にコーラは飲まれてしまっていたそうだ(だろうな、、と残念ながら予想がつく)
ところがここからがこの実験の肝で、実はこの冷蔵庫にはコーラと一緒にお金が6ドル置かれていた
さて同じようにお金がなくなっているか、、といえば、お金はなくなっていなかった
同じようなものでも、ものとお金と違うだけでこのような違いが生じてしまうのは何故か

この本の研究者たちは、人はちょっとした不正、それがお金に直接係る場合と関わらない場合でどのように違うか
少しばかり意地悪な実験を続けている
その方法とは、あるテストで(確か20問ほどだったと記憶してるが)
第一のグループは、そのテスト用紙を持参して正解数を管理者に伝えると、
一問の正解あたりいくらかのお金がもらえることになっていた
そしてこれが、比較のためのベースとなる数字となる

次に第2のグループだが、このグループは解答用紙は破棄していいことになってるが、自己申告で管理者に正解数を伝え
先程と同様に一問の正解あたりにいくらかの報奨金がもらえることになっていた
これは不正や嘘をつきやすい環境下に置かれているということで、結果も残念ながらというかやはりと言うか
第一のグループよりは正解率が高くなっていた

そして第3のグループ、このグループは第2のグループのように解答用紙は破棄して良いことになっていて自己申告する
ところまで一緒だが、管理者からはお金をもらえずお金との引換券を貰えるようになっていた
すると、正解率は(不正を働いたと思われる数は)グンと伸び、第一のグループはもちろんのこと
第2のグループよりも更に上に行ってしまった

不正がわからない状態でも、直接お金に関係しない方が不正は起きやすいらしいということを実証したものだが
世の中の不正は、お金という存在をどこかに忘れることによって容易に起きるものらしい
これはニュースになるような事件等も、お金を抽象化されたいう存在で考えることによって
どこか気楽に不正を行ってしまう傾向があるということだ
そしてそれは不正を行う人間が特別な悪い人間と言うよりは
人はついそうしたことをしてしまう可能性があるということを示している

ちょっとした不正はみんなしてしまいそう、、人間ていうやつは仕方ないな、、
では世の中は回っていかないので、この本ではこれらを防ぐ方法もいくつか提示されていて
その効果もやはり実験で確かめられている

すこし前にゲームの理論というのが話題になったが(囚人のジレンマで有名)
結論としては、ゲームに参加しているみんな(社会)が平等になるほうが
ある特定の人物が有利になるような世界よりも効率が良いとされたが
これなどはそんなに難しい理論を持ち出さなくても直感的にそうだろうなと普通の人は思いつく

ということで、要は、人はちょっとしたことで不正や嘘に関わってしまうことがあるし
自分だけが得する世の中は、実は効率が悪いということ
しかし、そうは言うものの、、ずっといい人間ばかりでいられなさそうな方に自信があるぞ、、

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今年読んだ本

2017年12月06日 08時57分00秒 | 

身の回りが本で埋まる、、それで幸福感を感じてしまう人たちがいるが
そこまでは行かなくても、その気持はよく分かる
今年購入して、とりあえず最後のページまでたどり着いた本を
積んどくだけではもったいないのでスマホで撮影した(全体主義の起源3は昨年読んだのだった)

この他に現在の読みかけの本が
「予想通りに不合理」ダン・アリエリー
「量子力学で生命の謎を解く」ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン 

最近は節約志向で図書館からも借りてきていて、メモ魔の母親から血を引き継いで
読んだ本を記録として残している

このなかには再読した本も含まれている(春の雪、奔馬、孤独な群衆、物部氏の正体)
最近は一気に読書にブレーキがかかってしまったが、今年一年は割合よく本を読んだ
絶対量はそれほどでもないかもしれないが 、「読みでがある本」をよくぞ読んだと自画自賛したい気持ちもある

それで、今年の三冊を選ぶとすれば、まずひつとは簡単に決められる
「樹木たちの知られざる生活」ペーター・ヴォールレーベン
これは圧倒的に面白かった
知らないところで木々(というより生き物)がどんなやり取りをしているか
それをとても優しい眼差しで、わかりやすく紹介している
読んでいてとても幸せな気分になれたし、賢くなった気にもなれるし
手元に置いて何度でも読み返したい、、そんな気分になった本

2冊めは、、、、難しい
苦労して読んだから「イスラエルのアイヒマン」と「全体主義の起源」(2)の
アンナ・ハーレントの作品をあげたいが、理解が出来たかといえば少し怪しいので
素直にあげることは、、心苦しい、、
でも読んでよかった、、とは実感している
(起源を兆候として捉えると、現在のこの国はちょいと危ない) 

印象に残ったのは図書館で借りた「天皇機関説」事件(山崎雅弘)
歴史の教科書に度々出てくる天皇機関説
これがなかば強引な手段によって否定され、それが結果的に戦争へのきっかけを
つくった流れが丁寧に書き込まれている
これを読んでネトウヨの行動を連想し、現在は恐い状況かもしれないと感じたが
同じような印象を読んだ人は持つのではないか、、 

図書館からは「サピエンス全史」(上)(下)ユヴァル・ノア・ハラリも面白かった
結局のところサピエンスとしての人類が生き延びている理由とか経過を
呆れ得るほど幅広い視点から捉えている
生き延びているのは人の持つ想像力・共感力などのおかげなのだが現在それらが
うまく発揮されているかと言えば少し疑問で、人類は生き延びるサピエンスではなくなっているのかも 

心理学、または経済学にも関与する本「選択の科学」シーナ・アイエンガー
「ファスト&ロー」ダニエル・カールマンもそこに書かれたエピソードは興味深かったが
何故か圧倒的に印象に残るとは言えない
(アメリカの本は豊富な例をとりあげた本が多いが、何故か自分のこころに蓄積されない)

小説類は、最近あまり読んでいない
今年は三島由紀夫の豊饒の海の中から2冊を再読
福永武彦さんのお子さんの池澤夏樹さんの「アトミック・ボックス」
中村文則の問題作「教団X」カズオ・イシグロの「夜想曲集」
実名が登場する警察小説「石つぶて」が最後までたどり着いたが
この作家の作品をもう一度読もうという気分にさせられたのは(相性が良さそうなのは)カズオ・イシグロ 

結局のところ際立った印象に残っているのは
「樹木たちの知られざる生活」、「天皇機関説」事件の二冊
あとは、最後までたどり着いたことを自画自賛する意味で
「イスラエルのアイヒマン」「全体主義の起源」(2)とサピエンス全史(上)(下) 

ところで今は読みかけの本がなかなか前に進まないが、読み終えないうちに読みたい本が頭に浮かんでいる
アンリ・ベルクソンの「道徳と宗教の2源泉」これが読め読め!とせっついているかのようだ
これも再読になるが、昔読んだ時とてもあたたかい気分になれて、もう一度読もうと気持ちになったのを覚えている
だが本棚にあるのはとても小さな文字の本しかない
もっと大きな文字の本でないと今の視力ではしんどいが、Amazonで探しても大きな文字の本はなさそう
ただ気分が盛り上がったときでないと読み終えることができそうにないので、なるべく大きそうな文字の本を
手に入れることにするしかない、、かな

その前に読みかけの2冊、最後のページまでたどり着かねば、、

 

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労働時間と休日(日本とドイツを比較してあれこれ連想したこと)

2017年12月05日 09時03分26秒 | あれこれ考えること

先日(12月3日)の中日新聞の社説がとても興味深い
(記事上の部分)


(下の部分)




ドイツ人の働き方、休日について紹介されている
ドイツにいくと驚くのは日曜日に店が開いていないこと(最近は以前よりそうではないらしいが)
そしてもうひとつはウアラウプと言われる休暇が、日本人の感覚からするととても長い3〜4週間もとれること 
(聞くところによると正社員には連続して数週間の休みをとる権利が与えられているとか)
だからドイツ人は夏のウアラウプが楽しみで、その為に仕事をしているみたいなところがあるらしく
真夏のローマやスペインのマジョルカ島はドイツ人が大量に押し寄せて、ドイツ語が飛び交うそうだ

これを日本と比較するとなかなか興味深い
こんなに休んでいて、どうして個人GDPが高いところをキープ出来ているのか
(これは日本の働き方が著しく効率が悪いということなのか、、それとも別の理由か) 
また、そんなに長いこと仕事を休んでしまったら他の人に迷惑がかからないか、、とか
休んでいるうちに自分の席がなくなってしまうのではないか、、という思いに襲われないのだろうか
というのが小心者の日本人の発想
でも、世間全体がそうなっているドイツでは、休みで誰かに迷惑がかかるという心配より
「休みだから仕方ないね」と受け入れて、できる人がカバーするような事になっていて
休む人も誰か別の人がやってくれると信じて自分の楽しい権利を行使できるようだ

働くということの考え方が、そもそも日本とは大きく違う
労働は苦役の一種とまでは行かないとしても、多少そのような考え方が存在するヨーロッパに対し
日本は収入の糧以外にも「生き方」まで影響する考え方が幅を効かす
死ぬまで働けることは良いことだと、、
ところが、ここで「働く」ということの内容が必然的に問題となってくる
被雇用者として雇用主の望むまま、自分にとって非生産的な、時間を切り売りするような仕事(働き方)は
本当に良いことだろうか
ずっと働くことによって、労働中に交わされる他人との会話・交流は確かにボケない大きな助けになりそうなのはわかる
しかし、それがためにずっと働くのは良いことだ、、とは言いにくい

ずっと働くことに意味の有りそうなことは、確かに存在する
例えば作家とか作曲家とか画家とか、、その他いわゆるクリエイティブの分野の人たちだ
この人たちは、いつも前進しているかのように自分のすべきことを追求し、それは終わることがない
だがそんな才能を持ち合わせていない普通の人は、果たしてそんな仕事を自ら探し、実行できるか
といえば、正直なところかなり難しいのではないか
普通の人はぼんやり考え、世間の流れになんとなく乗って、時々なにかおかしいと思うようなことに
少しだけ関与して、大事なのは自分の家族・恋人でその安定した笑いの絶えない世界を望む 
それを維持するために経済的な基盤として仕事を持つ

もちろん雇用主、経営者とか起業家はまったく違う考えを持つ
彼らにとっては作家・作曲家の作品を作り上げる情熱と同じものがその仕事のなかに存在する
そしてそれらは多分、社会的にも大きな意味を持つ

ある人にとってとても重大な意味があり、それに関わりながらも自らは経済基盤の確保以外に
あまり意味を持たない労働契約にすぎないような仕事は存在する
それは立場によってやり甲斐も含めた生き方まで影響を与えるが
当たり前の現実として、上位の立場の人間は、上位の立場の考え方を下の者まで浸透するように望む
それはあるところでは社員教育とか社風となっているかもしれない
それらが下のものまでやり甲斐や充実感を感じさせるものであればいいが、必ずしも全部が全部そうなるとは考えにくい

結局のところ、圧倒的に多いと思われる普通のひとは何を望むか、、といえば
難しいことではなく、普通の穏やかな感情的に負荷のない(時にはあったとしても)
時に些細な喜びと感じられるような生活、自分がそんなに社会的に働きかけなくても安心できる生活なのではないか

仕事に関する考え方、、
一律にどんな仕事も「仕事」というくくりで扱ってしまうのは、きっとうまくいかない
(だからハンナ・アーレントは「人間の条件」で労働・仕事・活動と細かく分けて分析してるのかな
 読んでないからわからないが、、)

相変わらず、あちこちに話が飛んでまとまらないお話、、、
(それにしても、日本もドイツくらいのんびりできると良いのだけれど、、)
 

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「プラハのモーツァルト」から連想したこと

2017年12月03日 14時42分35秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

地味そうな作品だから豊橋では上映されておらず、名古屋まで行かないと見られないかと
思い込んでいた「プラハのモーツァルト」
調べてみたらユナイテッド・シネマ豊橋でもやっていたのでさっそく出かけた

大好きなモーツァルトがタイトルに入っているので興味がそれだけでわくが
出かけようとした理由は、大きな画面でプラハの街並みとか雰囲気を感じてみたいのと
モーツァルトのキャラクターがどんな風に描かれているか興味があったためだ

モーツァルトが歓迎されたプラハはウィーンからはそんなに遠くないようで
日本からのツアーも組まれているし(ウィーンとプラハの)
電車もプラハ行をしばしば見かけた(旅した時)
BSの旅番組を見てもプラハは落ち着いた感じで、どんな雰囲気だろうと思ったが、、、

期待はあっさり裏切られた
映画にはプラハの街並みはほとんどと言っていいくらい出てこない
街の出てくるのは夜の暗いシーンばかり
太陽の下のドラマではなく光の足りない夜と部屋の中
ヨーロッパ人は部屋の灯というのは日本人みたいに明るいのを好まないのかもしれない
数年前のオーストリア・ドイツのホテルでも照明は決して明るいとはいえないものだった
(彼らに言わすれば日本の灯が明るすぎる、、というのだろうが)

興味のもう一つ、モーツァルトのキャラクターについては「アマデウス」がぶっ飛んだ
落ち着きのない人間として描かれていたが、同じように軽薄な人間として描かれるのか
と思ったが、映画は普通の感情をもった、ちょっとばかり(女性には)自制心のない人物として扱われていた

プラハはドン・ジョバンニの初演をした街で
序曲は上演ギリギリまで出来ていなかったというエピソードやら
フィガロの結婚が大受していて歓迎されていたところなどモーツァルトの好きな人間には
おなじみの情報が適度に挿入されている

この映画、プラハにいるモーツァルトが「フィガロの結婚」の上演を見守るところと
新作「ドン・ジョバンニ」を書き上げる過程を捉えているが、この実在の人物たち
サロカ男爵・スザンナを中心にしたストーリーは、実は「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」
の物語そのものを地で行っている
サロカ男爵はフィガロにおけるスザンナの「初夜権」を狙う浮気心いっぱいの人物として
ただし、フィガロの時の伯爵より悪人ぽいイメージとして扱われ、この女好きの人物は
ドン・ジョバンニも連想させるし、結局彼の悪業は罰せられることになるが、
そのイメージとしては騎士団長が食事に誘う不気味なシーンや地獄に落ちるシーンが
ドン・ジョバンニの音楽で暗示される

ただ少しばかり残念なのは、このサロカ男爵は単に悪いやつという女好きであったこと
歌劇のドン・ジョバンニは確かに悪いやつだが、それでも相手(女性)が嫌がるようなことはしていない
伊藤詩織氏の「Black Box」ではないが、合意の上かそうでないか、、は
歌劇のドン・ジョバンニは、どこか仕方ないやつだ、、とか困ったやつだ、、と呆れながら思ってしまうが
この映画のサロカ男爵は「パワハラ」「セクハラ」のオンパレードで、地位を利用して
人を支配しようとしているところなんぞは、つい最近の何処かの国の誰かとそっくりだと連想したのは
自分だけではなかっただろう

それから、どうでもいいことだがモーツァルトが楽譜を書いているシーンには少し疑問を覚えた
モーツァルトの自筆楽譜を見たことがあるが、とでもきれいで、何よりも相当なスピードで書かれている
音楽は既に出来ていて楽譜はその音を紙の上に移すだけの作業で、その息吹みたいなものを
楽譜から感じるが、映画ではベートーヴェンみたいに考えて作曲するようで
わかりやすいけれど、ちょっと違うぞ、、とチャチャを入れたくなった

この映画はストーリーのせいもあるが、一般的な予告編で見られるように火薬をぶっ放して
興奮させるというのではなく、それなりに映像を覚えておいたり、その意味を考えないと楽しめないものになっている
だが、この様に見る側の想像力を前提として進めてくれたほうがかえって見えないもが見える気がする
説明過多とか、わかり易すぎるものは、、面白くない、、
 

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ワールドカップの対戦相手決まる

2017年12月02日 09時31分46秒 | サッカー

最近の大相撲の話題(日馬富士の暴力騒動、引退、白鵬・八角親方と貴乃花親方との確執)には
自分は興味が無いので、くどいくらいに繰り返されるテレビ報道は直ぐに切ってしまうし
大騒動ぶりに終止しているテレビメデイアには怒りさえ覚えてしまう
分別くさく言うならば、もっと伝えるべき、時間を割くべき情報はあるだろうに、、と 

ところで、日本時間の未明 サッカーワールドカップ、ロシア大会の一次リーグ対戦相手が決まった
日本はH組 コロンビア・セネガル・ホーランドとベスト16を目指して闘うことになった
くじびき前は運悪くとんでもない組み合わせになったらどうしよう、、と思ったりしたが
この組み合わせは、そんなに悪くないかもしれない

と言っても全部格上
コロンビアは前回のブラジル大会でコテンパンにやられた、
ハメス・ロドリゲス(現在バイエルンミュンヘン所属)のあざ笑うようなシュート(吉田は記憶から消すことが出来ないに違いない)
クアドラードのスピードには翻弄された、、
日本は南米チームにはてっきり弱いが、リベンジしてほしいところ

セネガルはちょっとどんなチームか知らない
ただ身体能力がすば抜けた人たちで、それに如何に早く対応できるようになるかが勝負
ノセるとどうにも手がつけられなくなりそうなので
我慢強く、相手がイライラするくらいひたむきに戦うしかないかもしれない

ホーランドは何と言ってもレヴァンドフスキ(現在バイエルン・ミュンヘン所属)が危険
香川とはドルトムント時代に同僚だったが、シュートの選択肢は多い(右足・左足・頭)
ストライカーらしくエゴイスティックなところが見られるので、気分良くプレーさせないところが肝心

と、闘うまではいろいろ好き勝手な想像が出来て楽しめる
くじびき前は最悪の組み合わせも予想したが、各組の構成を見てみると不思議と
それなりの組み合わせになっている
FIFAランキング順に第1ポッドから第4ポッドまで決めて、抽選したからだが
今回は死の組みたいなのが直感的には見当たらない(どの組も当事者たちは死の組と思うかもしれないが)

この抽選は運任せなのだが、何故か対戦相手が重なることが多い
今回の日本とコロンビアは2回目、以前はクロアチアも2回戦っている
だがその更に上を行くのがアルゼンチンとナイジェリア 
この両チームは大会の度に戦っている  どうも均された確率にはなかなかならないようだ

日本の対戦相手が決まったので、お隣の韓国を見てみると
ドイツ・メキシコ・スウェーデン
現実的で勝負強いドイツ・メキシコに、イタリアとのプレーオフで勝ち上ったスウェーデン
こちらのゾーンの方が厳しそうな印象

前回のワールドカップはアジア勢は全滅に近いくらいの成績しか残せなかった
本戦前は勝手にいろいろ想像できるので、その想像を楽しむことにしよう
(その前に、日本代表は結局誰が選ばれるか、、本田は、香川は、岡崎は、、、どうなんだろう)

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遠慮について

2017年12月01日 08時47分01秒 | Weblog

以前、知り合いのタイヤショップが周年セールを行った
近所にチラシを折込み、たこ焼き食べ放題、コーラ飲み放題のイベントを企画した
購入した人が対象ではなく、誰でもこの恩恵に預かる事ができたのだが
そこで見かけたあまり嬉しくないことが今も記憶に残っている 

ある若い男たちが2.3人やってきた
彼らはすぐさま「飲み放題だ」と言って、コーラの瓶の蓋をどんどん開けた
それが1人1本ではなく、何本も、、飲まなきゃ損だ、、という勢いで
当然、たこ焼きの方へも手を伸ばしたが、そこでも信じられないくらい遠慮ということもなしに、、
彼らは何も買わなかった
店のスタッフが困った表情を浮かべたが、その表情の意味は無視され
お腹を満たした彼らは嵐のように去っていった 

確かにチラシには「飲み放題」と書いてある
購入した人に限るとも書いてない
だから彼らが行っていることは、法的には何も悪いことはしていない
でも、だからといってそれで良いのだろうか、、

飲み放題・食べ放題と書いてある
しかしそこには、自分だけが得するような自分勝手なことはしないだろう
という前提とか社会常識があったはずで、その常識を基にショップはイベントを企画している 
この緩やかな常識が通用しなかったのはこの連中だけのことか
それとも現代という時代の傾向なのかを考えると
もしかしたら後者かもしれないと 思い至ると少し淋しい気がしたのだった

そんな記憶がある中で、最近読んだ心理学の本の中にこんな(実験の)話が載っていた
ある女性がオフィスに手作りのクッキーを100個を持参した
オフィスには100人のスタッフがいて、その人たちに「タダで(好きなだけ)食べても良い」と伝えたところ
スタッフは平均して1人ひとつだけ手に取ったのだそうだ
知らず知らずのうちに残りの人の分を思い浮かべて調整し、社会規範として円滑に回るようにしたと想像される
と結論付けられていた
またあるところで同じような実験をして、今度は
「ひとつ5セント(?とにかく安い価格で)好きなだけ、、」の条件が付されていた
するとその結果は先程のものとはまったく違ったものとなった
1人で何個も手にする人が多くて、みんなに渡るという気遣いをすることはまったくなかった
お金を払わない払うということで、他の人のことを考えたり考えなかったりしてしまうということだ
これらの答えはとても容易に想像できることで、その場にいたならばきっと自分もそうしてしまう

ここで最初の「飲み放題」の話に戻る
タダで手に入るクッキーの場合、「残りの人のことを考える」ほうが人間社会の知恵として
うまく行きそうだと、誰かに教えられたわけでもなく感じる
このなんとなく良さそうだ、、という感覚が徐々に社会常識化されるのだろうが
コーラを遠慮なしに飲んで去っていった人たちには
誰にもあると思われる残りの人のことを思いやる気持ちが感じられない
そこにあるのは「書かれたとおりのことをしている」という一種開き直り

「法に違反していないが、人道的には、倫理的には問題あり」
そのような事柄が、現代のこの国ではまかりとっている
(多分庶民のストレスの原因はここに集約される)
この国は法治国家というものの、成分化された法のみで世の中が回っていくのだとしたら
それは人にとって住みやすい社会なのだろうか
何かが違っている、、と言う直感は、(多分)正しくてそれこそがサピエンスとして
生き延びた理由となっているような気がするが、、

相変わらずまとまらない話、、、




 

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