パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

遠慮について

2017年12月01日 08時47分01秒 | Weblog

以前、知り合いのタイヤショップが周年セールを行った
近所にチラシを折込み、たこ焼き食べ放題、コーラ飲み放題のイベントを企画した
購入した人が対象ではなく、誰でもこの恩恵に預かる事ができたのだが
そこで見かけたあまり嬉しくないことが今も記憶に残っている 

ある若い男たちが2.3人やってきた
彼らはすぐさま「飲み放題だ」と言って、コーラの瓶の蓋をどんどん開けた
それが1人1本ではなく、何本も、、飲まなきゃ損だ、、という勢いで
当然、たこ焼きの方へも手を伸ばしたが、そこでも信じられないくらい遠慮ということもなしに、、
彼らは何も買わなかった
店のスタッフが困った表情を浮かべたが、その表情の意味は無視され
お腹を満たした彼らは嵐のように去っていった 

確かにチラシには「飲み放題」と書いてある
購入した人に限るとも書いてない
だから彼らが行っていることは、法的には何も悪いことはしていない
でも、だからといってそれで良いのだろうか、、

飲み放題・食べ放題と書いてある
しかしそこには、自分だけが得するような自分勝手なことはしないだろう
という前提とか社会常識があったはずで、その常識を基にショップはイベントを企画している 
この緩やかな常識が通用しなかったのはこの連中だけのことか
それとも現代という時代の傾向なのかを考えると
もしかしたら後者かもしれないと 思い至ると少し淋しい気がしたのだった

そんな記憶がある中で、最近読んだ心理学の本の中にこんな(実験の)話が載っていた
ある女性がオフィスに手作りのクッキーを100個を持参した
オフィスには100人のスタッフがいて、その人たちに「タダで(好きなだけ)食べても良い」と伝えたところ
スタッフは平均して1人ひとつだけ手に取ったのだそうだ
知らず知らずのうちに残りの人の分を思い浮かべて調整し、社会規範として円滑に回るようにしたと想像される
と結論付けられていた
またあるところで同じような実験をして、今度は
「ひとつ5セント(?とにかく安い価格で)好きなだけ、、」の条件が付されていた
するとその結果は先程のものとはまったく違ったものとなった
1人で何個も手にする人が多くて、みんなに渡るという気遣いをすることはまったくなかった
お金を払わない払うということで、他の人のことを考えたり考えなかったりしてしまうということだ
これらの答えはとても容易に想像できることで、その場にいたならばきっと自分もそうしてしまう

ここで最初の「飲み放題」の話に戻る
タダで手に入るクッキーの場合、「残りの人のことを考える」ほうが人間社会の知恵として
うまく行きそうだと、誰かに教えられたわけでもなく感じる
このなんとなく良さそうだ、、という感覚が徐々に社会常識化されるのだろうが
コーラを遠慮なしに飲んで去っていった人たちには
誰にもあると思われる残りの人のことを思いやる気持ちが感じられない
そこにあるのは「書かれたとおりのことをしている」という一種開き直り

「法に違反していないが、人道的には、倫理的には問題あり」
そのような事柄が、現代のこの国ではまかりとっている
(多分庶民のストレスの原因はここに集約される)
この国は法治国家というものの、成分化された法のみで世の中が回っていくのだとしたら
それは人にとって住みやすい社会なのだろうか
何かが違っている、、と言う直感は、(多分)正しくてそれこそがサピエンスとして
生き延びた理由となっているような気がするが、、

相変わらずまとまらない話、、、




 

コメント
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