パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

夏は、ホント、しんどい!

2007年08月16日 06時00分58秒 | Weblog
一応盆休み終了
今日から仕事開始
ここでつらいのは短パンTシャツに
慣れた体にスーツ&ネクタイ姿をしなくてはならないこと

そして冷房の効いた部屋と暑い外を
行ったりきたりで体調が追いつかない

それに食べるものといったら
そうめん、冷奴みたいな冷たい水っぽいものばかり

おまけに夜は寝苦しいので睡眠不足になり勝ち
(朝方は眠れるけれど日が上るのが早いので目覚めてしまう)
年々夏がきつくなってくる

冬は着込めば寒さは何とかなるけれど
夏はどうしようもない、、、

あと一月?
思考力も読書量も低下気味なのは
なかなか暑くてその気になれないから

愚痴と言い訳ばかりの夏
若い時はそうでもなかったのに
仕方ない、歳をとるということは
こういうことなのだろう
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長い休みは、大事な生活の一部

2007年08月13日 05時55分01秒 | Weblog
お盆休みのこの時期、高速道路の渋滞状況が
年中行事のように報道されているが
それはそれで大変だけれど
多くの人が仕事を離れ、自分たちの時間を費やすのは
良いことのように思われる
週休2日制になって休みは当たり前のようになっているが
それでも数日間の連続した休みというのは
気分的にずいぶん違う

以前、北アルプスに毎年のように登っていた頃
いつも夜行で一泊、山小屋で1泊の結構余裕のない計画で
楽しんでいたが、ある年、山で2泊したことがあった
すると2日目の一日が山のリズムと
ぴったり合い始めて、心が本当に開放された気分になった
その時感じたのは、休みのモードになるのには
時間が必要だと言うこと
つまり週休2日はもう日常の生活の一部になっているので
いつもと変わった気分になれるようになるには
より長い休みが必要だと言うこと

この夏休み、子供たちが小さい家族では
家族の楽しみ、思い出のために必要不可欠だろう
贅沢に海外旅行するにしても、
近場で海に行くにしても
子供の心にははっきりと記憶に残っている
(少なくとも自分には)

日本人は、年配の人はまだまだ休むということに
抵抗感のある人が多いようだ
しかし、休みはよりよく働くため手段として
現実的に有効な面が多いのではないか

生活自体は必ずしも仕事のためにあるのではない
むしろ休暇を始めとする家族同士の充実した時間を
費やすための手段として仕事(から得られる金銭)
があるように思えるが
ヨーロッパの国々ではバカンス、ウアラウプなどと
長い休暇が当たり前になって
人生を楽しむことが出来ているが
(一部の恵まれた人々だけ?)
日本のように無目的的に仕事馬鹿になるよりは
ずっと人間らしくて良いことのように思われてならない

「休みは良いこと」と思われるようになるのには
日本はまだまだ時間がかかるのだろうか
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子供達には夢中に、逞しく、想像力を育ててほしい

2007年08月11日 12時51分53秒 | Weblog
最近見なくなったものに子供達の屋外での遊ぶ姿がある
自分たちの子供の頃は、違う学年のお兄ちゃんとも
命令(?)を聞きながら一緒に遊んでいた
缶蹴り、三角ベース、ドッジボール、川遊び等

しかし、今は外で遊んでいる子を見かけない
防犯上の問題もあって遊ぶ場所もないのも事実だけれど
ゲーム機の存在も大きい
この季節涼しい部屋の中でずっとゲーム機に
遊んでもらっているようだ

だからというのではないが
今の子は運動神経が鈍いというか
俊敏でない子が本当に多い

夏のこの時期、市のスポーツ体験教室で
小学1年の子供を見ているが、まず驚いてしまうのは
サッカーをする以前の、走るという行為のへたくそさ加減
腕をだらんとしたまま、腿が上がらない、
そして間違って転ぶような事があってもその転び方の下手な事
転び方が下手だからいろんなところを怪我する
(試合になると夢中になるのでぶつかって転ぶ事が多い)
そのちょっとした怪我、僅かに擦り剥けて赤くなっていると
心配な顔をして訴えてくる
「痛いのかい?」と聞くと
「ううん」と答える
つまり怪我をするという経験をしてないので
少しの事でショックを受けてしまうようだ
それに遊び回るスタミナのない子が多い
教室に来ている子が
「僕サッカー嫌い」と言うので、その理由を聞くと
「疲れるから」と予想外の答え
こんな事からも今時の子供のひ弱さを感じ取る事ができる

幸い何回かあるこの体験教室で、そんな子供達にも
数回の教室を経験して
サッカーに夢中になって、怪我も疲れている事も
忘れるような瞬間を与える事ができた
そうすると、やっぱり男の子!
一気に本来持っているような逞しさが表に見えるようになってくる
昔風の考え方かもしれないけれど
その時期の子供に必要なのは、夢中になる事、
逞しさを育む事ではないのか

勿論ゲーム機でも夢中になる事はできるろう
しかし、実際の疲れ、痛みを伴った経験は
バーチャルな中では経験できない事だし
現実的に将来の生活にも有効だろう(と思う)

話は変わってハリー・ポッター
作者は子供達がゲーム機から離れて
読書に時間を費やすようになった事を喜んでいたようだが
読書は自ら字を目で追い、想像力を働かせて楽しむ類いのもので
これも子供達に味あわせたい経験の一つだ

多くの原作を読んだ子供達は、本のハリー・ポッターの方が
映画よりずっと面白いという
つまりは自分の想像力の豊かさには
親切にわかりやすくしてもらった映画は
つまらなく感じられるのだろう

つまりは子供達の楽しむものは
遊んでもらっているものではなくて
自らの力でもって、疲れたり、痛がったり、
想像してワクワクするものであってほしい
(それは所謂子供らしい生活と言えるかもしれない
 今は残念ながら子供らしい生活をする事が許されているだろうか?)

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日本にもシェスタの導入を!

2007年08月09日 21時30分34秒 | Weblog
立秋が過ぎても、しっかり暑い最近の夏!
イタリアやスペインにはシェスタというものがあるが
最初この習慣を知った時には
世界には変わった習慣があるものだ、
くらいに思い、次には
日本にもこの習慣はないものかな
などと羨ましく思い、そして今は
この習慣は案外現実的なものかもしれない
と考え直している
つまり実際のところ、こんなに暑くては仕事ははかどらない
おまけに夜も熱帯夜の連続で睡眠も充分というわけにはいかない
だから昼ご飯を食べるとついついいい気持ちになってウトウトしまう

要は12時から2時くらいの間は仕事を
能率的にできる時間ではないということだ

しかしながら、普通の多くの真面目な(しかし目的を見失っている)日本人は
冷房を効かして、眠い目をしぼって、濃いコーヒー等を飲んで
仕事に励もうとしている(ように思える)
本当は人間の体調、リズムを考えればこのシェスタの習慣を
日本も取り入れた方が、より仕事も効率的なのではないのだろうか
などと思ってしまうのだ

最近は文明の機器の発展のおかげで、自然の中の一つである
人間の生活も無理を強いられているようだ
早くから日が昇ればみんな早く目が覚めるし
夜は眠るためにあって決して安い電気代を活用するために
働く時間ではないのに
人間が自然のリズムでつくった生活より
機械的に振り分けられた時間割によって生活が決定されてしまっている

むかし、このシェスタを習慣にしている国、イタリア、スペインを
GDPが日本より低くて経済的に劣った国だと勘違いした事があったが
実際には人間のリズムに無理のない(人間らしい)生活をしているこれらの国の方が
日本よりずっと進んでいるのではないか!
と今は考えを改めている
そういえば昔の時点でも、都市における電線の地中化、下水道等を比較すれば
その当時から日本はそれらの国に勝ってはいなかった
外貨をどれだけ稼いでも、その使い道、人生を楽しむ術を知らない国は
実際には文明国ではないのだ

世の中は確かに競争に満ちている
しかし、みんながみんな勝利者になれない現実をふまえた上で
どんな生活が真に幸福かを国民全体が考えるような世界
これこそが
進んだ世界のように思えるのだが!

つまり、日本全体で(社会的に)シェスタを導入するくらいになれば
それは国民に余裕のある証拠で
より人間らしい進んだ社会のように思えるのだが
残念ながら今一番力を持っている(?)株主資本主義者には、
とうてい認められない事柄かな
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音楽の感じ方の変化

2007年08月08日 22時19分23秒 | Weblog
音楽はその時々の感じ方があるようだ
(小説でもそうだけれど)
ベートーヴェンの第5番の交響曲
なかなかCDを引っ張りだして聴こうという気にはなれないが
NHK FMでやっているのを聞いたりすると(昨日ティーレマンのをやっていた)
自分の、その感じ方の以前との違いに驚きを感じてしまう

若いうちは感情の爆発、それこそ苦悩から歓喜にいたるドラマティックな過程が
その曲の全てみたいで、自らも興奮して聞いていたようだ

ところが最近は有名な運命のモチーフを発展させて
一大建造物を作り上げた職人的な腕前にひどく感心してしまっている
そして音楽史的にこの曲が、動機の徹底的は展開が革命的であるのを
確かにその当時、初めてこの曲を聴いた人たちはびっくりしただろう
などとも思ったりしている

演奏自体も時代の変化を写し出している
ロマン主義的なストーリー性のあるものから
即物的に構造的にはっきり現したもの
過度な思い入れから離れたすっきりしたものなど
しかし、それでもこの曲が革命的な事は疑いえない

ところが自分はこの曲が好きかと言えば
直ぐさまイエスとは答えにくい
やっぱり押し付けがましいところがあるように思えて
(聞いてみるとそうではないのだけれど、
 聞く前は何故だかそんな風に思ってしまう)
少しひいてしまう

ある人が言っていたが
イージーリスニングとしてクラシック音楽を流していると
ある人にはバッハは精密すぎて、
モーツァルトは感情的すぎて、
ベートーヴェンは押し付けがましくて
気楽に聞き流す事ができないのだそうだ
確かに知っている曲が流れていると
ついつい追ってしまって、聞き流すというより聞き込んでしまうので
気楽に味わうわけにはいかなくなってしまうかもしれない
もっとも、最近の自分は根をつめて
音楽に対面する事ができなくなってしまっているけれど!







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人ごみの中の、キャリー付き旅行鞄は困る!

2007年08月06日 21時20分36秒 | Weblog
去年、東京に行った時に思って
今年もやはり同じように思った事に
東京駅のような混雑したなかでは、
キャリーのついたトランクは困るという事

人が多くて、ほとんど後ろの頭しか見えない状態で歩いていると
急に足が何かを蹴飛ばしてしまったりする
いや蹴飛ばすというより、何かにぶつかって転けそうになったり
足を痛めてしまう
キャリー付きの旅行鞄に知らずにぶつかってしまったのだが
ホントに視野に入りにくいので困る事しきりだ

ついでにエスカレーターに乗るときも
彼らは一旦急にストップして鞄を持ち上げて乗るのだが
それを予想してないと、またまた鞄と衝突というはめに!

これの解決方法はないものだろうか?
慣れてしまえば注意するようになる?

実際のところ、東京に人が多すぎるのが一番の問題だろうけれど
仕方ない事かな?
それにしても、やっぱり困ると思うのだけれど、、、
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落とし穴

2007年08月05日 22時00分15秒 | Weblog
少しでも長く生きている人が経験する事の一つに
順調な時にこそ落とし穴が待ち構えている
というのがある
今回の朝青龍、少しばかりやりすぎてしまったようだ
注意深くするなら八百長報道、怪我をさせた稽古等々で
慎重に行動すべきであったのを
久々の優勝ですっかり頭から抜けてしまったのだろう

理事長が述べたように今回の事件だけではなく
以前からたまっていたものが吹き出したようだ
(それは日本人が活躍できないひがみも含まれているだろう)
そして言い訳もできないくらい今回は朝青龍の失態だ
こんなチャンスを反朝青龍の人々が(マスコミが)逃すはずはない
やけに嬉しそうにこの制裁を出したように思えてしまうのは
少しばかり感じ方が偏向してるかもしれないが
同じように思う人はいるだろう

朝青龍はサッカーのビデオを見ても運動神経の良いことが見受けられる
中田英と比べてもそんなに大きくない身体であれだけの成績を残すのだから
半端な運動神経ではない
特に感心するのが集中力、そして勝負に対する執着心
これは本当に凄い、常人のできるそれではない
しかし、それだからこそ一旦実生活に入ってしまうと
ちょっと外れた事をしてしまいそうだ
こんな事は割と良くある事で
ある分野で突出した才能を持った人間は、いざ実生活となると
変人であったり、非常識であったりする事が多い
どうやら神様はあらゆる分野に
人間に才能を与えてはくださらなかったようで
優れている分野が凄い程それに反比例して実生活が変ということが
少なくない
ロマーリオ、マラドーナ、ジョージ・ベスト、ミューラー
少なからず変人ぽい雰囲気がぷんぷんだ
それにミスターと言われるあの人も、害はないけれど
やはりちょっと変っている

話が逸れてしまったが朝青龍が常人と違う生き方、考え方を持つのは
ある程度仕方ないし、まして、上手くいっていると自分が思い
自信があるような時には天狗になるのも仕方ないだろう

しかし、こんな時にこそ落とし穴はやってくる
冷静に考えれば全て自分が導いたものだとしても
「なんで俺だけが、、、」
と思うとしても、それは割合普通の感じ方で
深く反省にいたるにはもう少し時間が必要だろう

実を言えば朝青龍は個々からが勝負だと思う
何をやっても上手くいく
そんな時代は一生のうちに一回くらいはある
しかし、そのあとで何もかもが逆回転するように思われる事に出会う

アメリカ映画の様に、その挫折は努力する事によってクリアされる程
簡単には世の中は上手くいかない事の方が多く
結局自分の心の持ち方という結論にいたるかもしれないが
長い時間をかけて自分の陥った境遇を乗り越えていく
それが人の値打ちのように思われる

朝青龍にそれができるかどうかは知らないけれど
人は多かれ少なかれこんな問題を
クリアしていかなくてはならないのだろう

落とし穴に落ちてから、あるいは挫折してからの生き方の方が
大事だという事なのだが
言うはやさしく行うは難し、の典型みたいなもので
さて自分にできるかと言えば、、、

時間がまだたくさんあるうちは(若いうちは)
ファイトを持って臨んでいけても
失敗を無闇矢鱈と恐れるようになった今は特に、、、
(言い訳を探している自分はずるいのだろうか?)
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政治家には、人間性に基づく想像力を!

2007年08月04日 09時44分01秒 | Weblog
安倍首相に対する多くの人の不満は(不安は)
彼は「お坊ちゃん」で、なんの苦労もしていないから
庶民の気持ちなどわからないだろうという事
これは本当に多く、たいがいの人が口にする

「景気は良くなっています」
「成長を実感に」
と数字を挙げて声を大きくしても
間違いなく都市と地方の格差は広がっており
また大企業と中小零細、輸出関連の製造業と国内を主とする産業間の
景気の対する感覚は大きく異なっている

そうした実感を政府が(安倍首相が)感じられないのは
彼らが接する人たちが(政治家、経済界の人)
やはり今時の言葉でいえば「勝ち組」の人たちばかりで
格差があって困っている人たちの生活を知らないから
実感を感じられないからだと思う

景気の動向を示すデータとか数字は
切り口次第でどうにでも解釈できるようになるので
数字を妄信するより、抽象的かもしれないけれど
多くの国民の感じている感じを
「想像力」で補って共有するしかないだろう
そうした「想像力」が政治家には必要であると思うのだが
どうもこの国民に対する想像力、あるいは庶民に対する共感力が
全般的に欠けているようだ

政治家の中にも格差の現実を口にする人もいるけれど
共感というよりは、上からもの申す、政治がなすべき事は、、、等と
少しばかり違和感を持ってしまうような
発言に終止してしまう事が多い

残念ながら接する人たちを急には変えられないし
官僚が持ってくる数字も自分達に都合の良い数字を集めてくる
そんな中で、まともな判断をしようとするには
想像力を働かすしかないように思える
もちろんこの想像力は自分勝手な思い込みになる可能性があって
客観的でなくなる可能性がある
だからこそ常々自分の想像力が正しくあるように訓練すべきで
その根拠となるのが教養というものではないのだろうか
この意味では、効率優先、今役立つものばかりを詰め込みにする
教育も少しばかり問題だろう

それにしても、庶民に感受性の欠如を問題視されそうな安倍首相
選挙の惨敗にもかかわらず続投を宣言したが
民意は、「もう安倍さんはいいや」と各種の調査で出ているが
民意が必ずしも正しいとは限らない
やるべき事は自分が戦って実行する等と
自分の判断が間違っていないとの前提に開き直っているが
その判断と基準となる人間性において若干の疑問点を感じずにはいられない

安倍首相がこのまま居座っていればいる程
民主党に攻撃の機会を与えて、ますます自民党は
じり貧になりそうな気もするが
一方で、この忘れやすい国民性の人々は
自民にお灸を据えたからもういいや、とか
人の噂も75日で、いつしか選挙の事も忘れて
あきらめの日常に戻ってしまうような気がしないでもない
いったいどちらになるのか
この意味でこれからは
マスコミの報道も含めて、実は国民力が試されているのかもしれない
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欲しいものがないのは幸せか?

2007年08月01日 21時48分23秒 | Weblog
確か林真理子だったと思うけれど
「欲しいものが欲しい」みたいなコピーがあった
確かに現在は格差は広がって、のんびりと
そんな事を言っていられる状態ではないかもしれないけれど
ある面ではこれは事実を言い当てているようだ
そしてそれは段々と物欲がなくなってくる年配の人間だけでなく
結構若い連中にも心から欲しいものがなくなっているようだ
試しに「何か欲しいものある?」と聞いても
すぐさま答えが返ってくる若者も多くなかった
よくいわれる事だが今の子は何でも持っている
欠乏という経験がない
我々の若い頃は欲しいものがたくさんあった(ように思う)
だからいつか手に入れようと楽しみがあったのだが
既に持っていたり簡単に手に入ってしまうとなると
いったいこれは幸せな事なのだろうか?
苦労して手に入れる
この経験は何事においても重要と思えるのだが
あまりのも簡単に手に入る事を覚えてしまったら
苦労して勉強するなんて馬鹿馬鹿しく、
要領よく合格する勉強だけするような事にしてしまわないだろうか
だが、それはもしかしたら実は一番面白いかもしれない経験を
しないで過ごしてしまう事ではないのか?

ものが溢れている
しかし欲しいものはなく
心は満たされない
ホント人間の心は難しい!
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