パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「良い物を安く」より「良い物を長く」

2007年01月14日 22時12分00秒 | Weblog
どうしても何度も繰り返してしまう失敗に
「安物買いの銭失い」がある
その商品に値打ちがあるというよりも
支払う金額が少ないだけで
得した気分になるから、ついつい求めてしまうのだが
実際はその商品は満足感がないことが多く
結局使わなかったりすることが多く
一回当たりのコスト、使用コスト高くなっている

正直なところ
「いい物を安く」は言葉の響きとしては良いのだが
現実的には無理なことが多いだろう
たとえ出来たとしてもそれは継続できないでいる
最初は良心的な食品が
いつの間にかどこか手抜きの商品になっていたりすることも
時々経験する残念な現実だ

また衣服などについても
安いものはすぐに飽きてしまったり
着崩れしたりして着なくなってしまい
やはり高い買い物になっている

確かに「とりあえず」の状態では
大量生産による商品で仕方ないかもしれない
だが、そろそろそんな考え方を変えたほうがよい
時代になってきているのではないか

少々価格が高くても質のよいもの
それを求めて長く使う
道具、家具などは時々修理したりすれば
ずいぶん長く使えるだろう
(ヨーロッパではそんな生活が当たり前になっている?)

このような物の使い方のほうが実際には
地球にも負担をかけないエコに適した生き方ではないのか


大量生産による低価格の実現と大量消費。
それらは今のクイックレスポンスによる
生産管理をもってしても見込み生産の部分は
捨てられないだろう
そこで購入されない品物は破棄されてしまう
なんともったいないことか!
だから価格を下げるためだけの大量生産は
そろそろ別の方法に変わらないかな!

勿論良い商品でも購入されずに
終わってしまう商品はあるだろう
だが、その量が全然違いそうだ

言い換えればアメリカ型の消費社会から
ヨーロッパ型の品物を長持ちさせるライフスタイルに
変わればよいと思うのだが
新しい物好きのこの国では難しいことかな?
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ウィーン・フィル音と響きの秘密

2007年01月13日 16時21分56秒 | Weblog
吉田秀和なら知っているけれど
中野 雄 という人物は知らなかった
(現在は音楽プロデューサーとして内外で活躍中)
だが、この本「ウィーン・フィル音と響きの秘密」(文春新書)は
ページの所々が示唆に富んでいたり
様々な、知られていないエピソードがいっぱい溢れていて
音楽好きなら楽しんで読める著作だ

題のウィーン・フィル音と響きは
ウィーンの楽器、ホールの響き、継承していく意識
そして聴衆から生まれでるものだ、とされているが
この本では、この部分より
フルトヴェングラーの音の合わない指揮ぶりは意図的かどうか、とか
小沢征爾やカラヤンの音楽の質
それに楽団員のストレス発散方法(室内楽演奏)などが
興味深く読む事が出来た

そういえばこの本にもあるが
ウエストミンスターの室内楽シリーズ
これらがCDに復刻されて、よく聞いた事があったが
その時感じた事を不意に思い出した

それは、彼らは「音楽を信じている」ということだ
おおらかに、書かれている事を信じて
素直に表現していた様に思えて仕方なかった
今の解釈万能主義みたいな神経質なところがなくて
こちらもゆったりと音楽に身を任す事が出来た

そして、何度も何度も繰り返し演奏し続けた深みが
それらの演奏には随所に現れているようで
最近の、レパートリーばかり増えて、消化しきっていないような演奏は
まるでテレビのリモコンでのザッピングのような軽さ、
消耗品の類いの様に思えてくるのだった

この傾向は、実は、落語の世界にも言えるかもしれない
昔の人の芸は、時間と稽古の賜物で一つ一つが丁寧で
なるほど芸というのはこういうことか、と感じられたが
今は機転とか勢い、レパートリーの豊富さだけで
必要以上に走ってしまってるように思えてならない

それと小沢征爾の音楽について。
すっきりした清潔な音、生き生きとしたリズム感は認めるけれど
自分は彼の支持者ではないかもしれない

実演はコンサート形式のベルクの
「ヴォツェック」を聞いただけだが
そのときはベルクが嫌いなわけじゃなく、
曲の方に関心がいっていたので
演奏にどうのこうのという感想は持たなかった
ただ清潔な音がするなあ!とだけ感じたような気がする

ちょっと違うかも?と感じたのはマタイの練習風景を
テレビでやってたときだ
やっぱりリズム感は若々しかったが
なんだか「歌いにくそう」と思えて仕方なかった
歌ってる本人たちではないので
ただそう思っただけなのだが
どうもこの時以来、一歩引いて評価する様になってしまった

本は新しい事を覚えたり、知ってる事を再確認するでき
それによって楽しい時間を過ごす事が出来るのだが
この「ウィーン・フィル音と響きの秘密」は
あまり厚くなく、読みやすく
それだけで終わらない重みもあって
年初めにふさわしい一冊だった

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メシアンが好きな理由

2007年01月12日 21時41分07秒 | Weblog
自分が小学生だったか中学生だった頃に
日曜の朝のように思うけれど
NHKのFM番組に「朝の小鳥」というのがあった

FM放送が始まったばかりで
音が良いFMの特性を活かすべく
いろんな森や山、野原で採取した
小鳥の鳴き声を延々と流すだけの番組だった

しかし寝ぼけ眼の自分にとっては
とても気持ちよく
起きているのか眠っているのか
流れてくる鳥の声をきいてウツラウツラしていた

また、やはり子供の頃のこと
縁側に寝そべって(なんだか寝てばかり?)
ウトウトしていた時も
庭に訪れてくる鳥の声がとても気持ちよかった

だからだ、と思う
メシアンの音楽が好きなのは!
特に鳥がらみの音楽がすきなのは!

「世の終わりのための4重奏」
「クロノクロミー」「鳥のカタログ」
「アッシジの聖フランチェスコ」
これらの音楽の中に現れる鳥の鳴き声は
ワンパターン?的であっても
また、特に何かを云わんとしてる、
などということはなくても
ただただ自然の中に居るみたいで気持ちよいのだ

それは原体験として鳥の声は気持ちよいもの
となっているからだと思う

しかしメシアンの他の要素
色彩、リズム、キリスト教の分野は
音楽の専門化ではない自分にとっては
少しばかりきついかな!

だが、難解なメシアンも
鳥が好きなのだと思うだけで、
自分は無条件に彼を受け入れようとしているようだ

それにしても小鳥の鳴き声は
なんて気分よくしてくれるのだろう
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何年ぶり?「原子心母」

2007年01月11日 22時04分06秒 | Weblog
ピンクフロイドの「原子心母」
ビートルズの「アビーロード」のあの(B面の)メドレーの後
自分のIpodから流れてきた

自分で入れておいたのだが、入れたときは聞いてなくて
しかも予想してなかったので
久々に熱心に聞いてしまった

今はない、暗くなった自分の部屋で
夢中になって聞いていた頃のことを思い出した
聞き終わった後、興奮して喉が渇いたのを今でも覚えている

「原子心母」は今聞くと、少しばかり大げさな感じがしないではないが
そういうものだ、と思って聞くとたいした音楽だ

数年前、現代音楽の作曲家 吉松隆がNHKのFM番組で
「原子心母」を流して、「画期的な作品だった」と評していた

また、ずっと昔には やはり現代音楽の作曲家 柴田南雄が
同じくNHKのFMでピンクフロイドの「エコーズ」を流して
その当時の現代音楽の作曲家たちに
ロックという分野でこれほどの事が出来るのだから
危機感を持たなければいけない等と言っていた(と思う)

「原子心母」はオーケストラ、コーラス、雑音(オートバイの排気音、電話の音等)
そしてエレキギター、ドラムスで演奏される壮大な組曲で
チェロの叙情的なメロディーやソプラノのスキャット(?)が
魅力的で切ない気持ちにさせるし
大編成(?)のコーラスは曲を盛り上げるのに効果的になっている

しかし、今日はそういう部分ではないところ
所謂ロックの部分が、想像以上にいいじゃないかと、気に入った

そんな、こんなしているうちに
今「原子心母」を生演奏でやってみたら
どんな気持ちがするのだろうと思ってしまった

出来る限り録音の部分以外は実演で(チェロ、コーラス、ソプラノ、オケ)
ちょうど喜太郎のシルクロードのテーマをオーケストラに編曲して
演奏したみたいにやってみたらどんなだろう

僕らの世代はこの「原子心母」はリアルタイムで知っていて
その衝撃は大きなものだったが
今の若者たちはこの音楽を聞くとどのように思うのだろう?

古くさい?
おおげさ?
理屈っぽい?

自分としては聞く耳のある人には
今もって刺激的な音楽であるとは思うのだが、、、

話はかわって、この「原子心母」を組曲として
クラシックのそれと比べると
シエラザードくらいのファンタジーと重みはありそうな気がするが
評価が甘過ぎ、、、?

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全国高校選手権、盛岡商優勝

2007年01月09日 21時44分44秒 | Weblog
今年はあまり熱心な高校サッカーの視聴者ではなかった
というか、ほとんど見なかった
地元のチームの一試合と準決勝、そして決勝を見ただけだ

そもそも最近はテレビを見ること自体が
少しづつしんどくなってきている
(テレビ画面の前でじっとしてることができなくなっているのだ)

だから、遅まきながらのざっくりとした決勝戦の印象を2,3!

まず感じたのは当たりの強さ、球際の強さは
盛岡商のほうが作陽よりも上まっているように思えた
新聞で言われるような運動量、走力ではなく
腰が据わっている感じが盛岡商にあって
作陽は上手いかもしれないけれど軽いな!と見えた

こんな風に違って見えるのは普段の練習方法が
両チームずいぶん違っているからだろう
作陽は「鬼ごっこ」に代表されるポジションどりを
メインにした練習方法らしい(?)

なるほどユニークな練習方法だ

ところで、日本代表にも見られるフィジカルの弱さは
どうすれば解決するかと思うと
きれいなサッカーを目指してばかりでは
若干の疑問が残る

サッカーはパスゲームでもあるが格闘技の要素もある
ゲームを終えた後で頭にフラッシュバックするのは
そうした体を張り合ったシーンが多い

だからと言うのではないが
1対1に強い選手をつくることが大事だと思うし
それこそが、後々の伸びしろに
結びつくような気がするのだけれど、、

ところで、高校の時点でどのようなことが要求されるのかは
正直分からないが
今年のサッカーを見る限り
みんな上手くなっているけど小粒だな
選手自体が自己主張するより
良い意味でも悪い意味でもチームプレーになっていた

決勝戦で目立ったのは
作陽の後半出てきた選手。
村井(?)だったかな
それと盛岡商の左サイドのアタッカー

しかし東北のチームが優勝したのは
自分としては良かったと思っている
これで日本中のいろんなところで
欲をもって練習に取り組むことが出来るだろう

だが、自分たちの地区がそのレベルになるのは
残念ながら、ずっとずっと先のことだろう
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徒然なるままに思う事!

2007年01月08日 11時05分59秒 | Weblog
本当かな?と思われるようなことが
科学的には定説になっている場合がある
例えば化石燃料の石油、
自分らの小学校時代での説明では
(今はどんな風な説明になっているか知らないけれど)
大昔の動物の死骸が堆積したものが液化して出来上がった、とされていた
でも、本当かな?
石油を掘り出して光学的な検査をすると
確かに動物の関与を示す
右旋性だったか左旋性だったかのデータが現れるという
しかし、動物(生物)の関与は別の仮説でも説明できるらしい
なんだか化石燃料で有限な資源として
大切に扱おうとする事で話が終わってしまっているような気がする
(その方が都合の良い連中がいるのかも)

また、進化論にも?の思いが湧き上がって仕方ない
飛べない生物が突然変異で急に空を飛べる様になるのか?
それには骨の構造、内蔵の仕組みまで
変化しなければならないのに
そんなに都合良く一気に変化したのだろうか
残念な事に、だからといって他の説明が浮ぶわけでもない
ただ、進化論もどうだかな!と思いは抜けきれないのだ

文明は気候温暖で住みやすいところで発展したと言われる
ナイル川、ユーフラテス川、インダス川、黄河に沿った
肥沃な土地に文明が興ったとされている

しかし、条件の優れた土地は
人間が何らかの努力しないでも生きていけてしまうので
結果的に文化が進んでいかないのを
多くの例が示していないだろうか
(もっとも、文化文明が進んだ方が幸せかどうかは分らないが)

つまりは、適度な負荷があった方が
どうやら人間世界は前に進むらしい

そういえば、最近の治療方法もこんな考え方になって
安静にしておくより、自然治癒をより活かすため(?)
結構負荷をかけているみたいなところがある

そうやって拡大解釈的に考えると
「可愛い子には旅をさせよ」と
適度な負荷を与える事をよしとした昔の人は
現実的で賢かったのかもしれないな!



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007 カジノ・ロワイヤル

2007年01月06日 20時26分08秒 | Weblog
映画は見ないとずっと見ない状態が続くが
見出すと反対に連続して見てしまう
お正月映画「007 カジノ・ロワイヤル」
先日の「敬愛なるベートーヴェン」に引き続き
ファースト上演の安い価格で見てきた

ダニエル・クレイグのジェームス・ボンドは
最初地味な印象がしたのだが、
徐々に(見慣れてくるにしたがって)
可愛いところがあって、ハンサムで
しっとりしていて、スパイらしく意志が強そうで
結構いけると思えるようになってきた
先代のピアース・ブロスナン や先々代のロジャー・ムーアが
派手っこいアクション映画になっていたのに対し
今度のはアクションはあるのだが
アクションシーンより静かなシーンが後に残る

だからストーリーがどんな風に展開するかが楽しみで
(どんな馬鹿しあいがあるのだろうと)
火薬、カーチェイスが主役の今までのものより
しっとりして、「スパイ映画」らしかった

だが、今日一番感じたのは
この映画を見ている自分の変化だ
面白かったとかどうのこうのの批評ではなく
もうこの手の映画はいやだな、
と思ったのだ
なぜって?
それは人が死ぬから、人を殺してしまうからだ

設定として悪人だから勧善懲悪で
生を奪われても仕方ない人物でも
人を殺すシーンとか死ぬシーンはいやだなと思ったのだ

フィクションでエンターテインメントであったとしても
人が人の生を奪うというのは、
やはり気分のよいものではない
(今なら仕置き人や暴れん坊将軍でも
成敗のシーンに違和感を感じてしまうかもしれない)

人には潜在的に破壊願望があるのかもしれない
それを認めてたうえで
なおかつ、映画が代わりに
それを果たしてくれているとしても
もういやだな、が先立ってしまった

敵、味方 単純に2つに分けてしまうことに
少しづつ耐えられなくなっているのだろうか?

それとも、たかが映画に
大げさすぎる反応だろうか?
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落語「みかん」を笑えるか?

2007年01月04日 21時15分34秒 | Weblog
何にもしない正月は究極の贅沢かもしれないけれど
少しばかり退屈で近所を散歩してみた

歩く早さというのはいいものだ
普段気がつかないものまで目に入ってくる
近所で知っているとばかり思っていた風景でも
改めてのんびり歩くと結構知らないことに
驚いてしまう

このあたりの家は田舎で土地に困らないせいか
大きな家が多い
建坪50~60坪くらいの家がごろごろしている

そのうちの古い、縁側のあるような
瓦葺で木の壁になっている家は
周りの風景と馴染んでとても落ち着いている

そこで品のないことだが
これらの家はいったいどれだけの金額が
かかっているのだろうか?
そして、その金額は東京なら
どのくらいの広さのマンションや
一戸建ての家になるのか
等と思ってしまった

すると土地の利便性とか有効性とかは
分からないではないが
この土地の広い家と東京の狭い家が
同じ金額(価値)というのが
なんだか不思議に思えてきた

そういうものなんだ
と当たり前に考えていることだが
やはり少し変のような気がする

全てをお金に換算して価値を決めているのだが
どうも全てがそれで上手くいくようには思えない

落語に「みかん」と言うのがあるが
夏にみかんを食べたがる若旦那のために
大枚をはたいて手に入れたみかん
そのみかんのひとかけらを
退職金がわりにもらうバカバカしさを
笑ったものだが
今の時代も知らず知らず
そんなことしてないだろうか?



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落語を受け入れる世界

2007年01月03日 09時43分33秒 | Weblog
さすがに新年のテレビ番組はお笑いが多い
「笑門福来」が縁起が良いのだろうが
ほとんどの局でもやっていた

聞くところによると落語ブームらしい
自分もチョッと前のマイブームは落語だった
古今亭志ん生、志ん朝、三遊亭圓生、柳家小さん
桂歌丸、桂米朝等
他人のCD借りて通勤時に聞いたものだった

特に志ん朝の好きな人がいて全集の大半を
貸してもらったが、その中で好きだったのが
「大工調べ」「文七元結」「井戸の茶碗」
「化け物使い」

よく言われるように「上手い」とか「芸がすばらしい」
なんて全然気にならなかった
と言うより「この親子は無邪気だなあ」
が第一印象、なにしろ後味がさっぱりしている
「人としていい奴なんだろうな」が
次も聞こうという気を起こさせる

だが自分が落語を聞こうと思ったキッカケは
笑いのためではない
実は市井の人の感覚を知りたいと思ったからだ

明治維新の朝、
一般の庶民はどんな生活をしていたのだろう
江戸時代、武士が威張っていた時代、
長屋の住民は何を笑い、何に腹を立てていたのだろう
そんなことが知りたくて聞き始めたのだ

すると今の時代にも通じる、
生き生きとした、普通の、素直な感覚が
そこにはあふれていた

井戸の茶碗や文七元結におけるやせ我慢
(売ったものは売ったもの、売ったものの中に何が入っていたとしても
  返品は一切受け取らない、
 買った物は仏像、中のものは買ってないので中のものは受け取れない
  {井戸の茶碗})

(困った状況の中で、もっと困っている人を見捨てることが出来ず
 お金をあげてしまうが、ここでもあげたものはあげたもの
  いらなくなったと言って今更受け取れない{文七元結})

こんな感覚がとても心洗われる

だが、もっと羨ましいのは、こうした話を
普通に受け入れていたその時代の気持ちの余裕

借金漬けの人々、見栄っ張りの人々
こすっからい人々
何でもありーの、
しかし、正しいこと、あるべきことが、ぶれない世界
羨ましいな!

今は昔より豊かなんだろうか?

お金だけが全てではない世界
意地を張って(合理的だったり賢くなくても)
やせ我慢していた世界
感情がもっと素直に表現できた世界

本当はこんな世界の方が
豊かな世界ではないだろうか
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天皇杯決勝!レッズ優勝!

2007年01月01日 18時03分32秒 | Weblog
正月はいいなあ!
早い時間から酔っ払っても大目に見られる
もういい加減いい気分になってるので
眠くなってしまう前に一言

時々あることなのだがガンバ大阪残念でした
攻めて攻めて、圧倒的に攻めているのに
相手のワンチャンスで負けてしまう
負けるのには必然となる理由はあるにせよ
今日のガンバは少し可愛そうだった

それも決勝点の起点となる岡野のパスの
背中に当たってしまったのが
今までがんばってきた宮本

サッカーの神様は時に残酷な犠牲を強いることがある
日韓ワールドカップの時も3位決定戦で
致命的なミスをしたのがそれまで韓国をひっぱて来た
ホン・ミョンボだった

フランスワールドカップにいけなかったのは
Jリーグを盛り上げたKAZU

どうしてなのかな
少しくらいは報いてあげればよいのに!

さて今日の試合
永井はあの点だけだった
前を向けない
シュートは打てない
ワシントンの穴は厳しかった

もう眠くなってきた

相馬、三都主がいなくても大丈夫と思わせる
若々しいパフォーマンスだった

伸二、確かに非凡な才能は捨てがたいが
あまりにも運がなさ過ぎ
それとやっぱり運動量、ドルブルが少なすぎ

遠藤、今日はイマイチでした
勝負は時の運
残酷な結果の一日でした
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