パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

西行と藤原定家(ジョン・レノンとポール・マッカートニー)

2020年05月01日 08時30分41秒 | あれこれ考えること

自信を持って確かとは言えないが、小林秀雄は「秋の夕暮」で終わる歌を
西行と藤原定家を比較して、圧倒的に西行押しだったように記憶している

西行の歌は
●心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

どうやら昔から「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の部分は
鳥が飛び立ったあとの静寂さを連想させて(芭蕉の古いけやの静寂と似てる?)
その余韻の効果は評価されていたらしい

一方藤原定家の歌は
●見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

有名な人が言うからその通りと評価するほど、自分は素直じゃない
好き嫌いで判断するなら、自分は藤原定家の歌のほうが好き
何よりも場面転換の効果が凄い
カラフルな花や紅葉の世界から一瞬にしてモノトーンの世界に移る
それは技巧的であったとしても、そこにある美(非日常性)は
人の心を捉えて離さない

こに2人の比較に連想が働いて、同じように2人の比較をしてしまった
ジョン・レノンとポール・マッカトニー
あるいは
ベートーヴェンとモーツァルト
前者が西行の立ち位置の人たちで、後者が藤原定家の方に該当する
と自分は思い込んでいる(間違っていないような気も)

人生とかいかに生きるべきとか、深い思索とか実生活に結びつく行動とか
わかりやすい社会的基準では前者が圧倒的に評価が高い
それに比べると、後者はその世界の中だけの秩序なり技工に留まっている
とされ、物足りなく感じる人が多いのは事実

しかし、その世界に終始しているとしても、その世界の存在は
人の心を幸せにしたり豊かにしたり、自分も真似てみようとか
挑戦してみようといった気分にさせる
それは、想像以上に生きる意味を考えるきっかけになる

というわけで、ただ単にポール・マッカトニーとかモーツァルトが好きだ
ということを、屁理屈をつけてみただけなのだが
軽いとか、お気楽と言われても好きなものはしょうがない

不意にヘッセの「ガラス玉演技」の中でガラス玉演技名人が
実生活で生きている商人と対話を交わすシーンがあり
名人の象牙の塔の価値観、秩序で収まっていいる世界に対して
人が生きている世界での価値観を重視すべきとする
討論の場を思い出してしまった

何にせよ、ポール・マッカトニーとモーツァルトが好きで
ますますその傾向は強くなっていく、、、みたい

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