パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

優先順位(生きること、芸術)

2015年01月15日 19時46分07秒 | あれこれ考えること

トーマス・マンは裕福になった家庭が三代目は
芸術的なものに目覚め生活力が衰えていく様を
描写したと言われる
(自分は読んでないので解説で知るだけだが)

生きるための努力が敢えて必要とされなくなった時
つまり現代社会ではそこそこの収入がキープできている家庭では
音楽やらお茶・お花などの教養、芸術関連に関心がいって
そこでは真の芸術的関心はさておき、
その芸術に触れられる環境にいるということに
満足感を感じてしまうことが多いように思われる
時に、芸術に身も心も奪われてしまう人物が出てくることがあると
その人は少し危険な人物としてみなされるかもしれない

つまりある種の家庭では芸術は心底浸るものではなく
単なる格付け・ファッションに過ぎないほうが良いものとされる

どの時代も芸術が芸術だけで存在できる時代はなかったかもしれない
しかし芸術至上主義の人物は不思議なことにどの時代にも存在する
それはとても芸術がどんな力を持ちえるのかと思われるような時代でも

最近読んだ「フルトヴェングラーの遺言」
フルトヴェングラーの「音と言葉」とか対談からの言葉を
野口 剛夫氏が自分なりの解釈で熱く述べた書籍だが
ここでは、あの世界大戦のような時代だからこそ芸術が必要とされる
と信じきっていたフルトヴェングラーの姿が描かれる

確かに芸術はお腹をふくらませてはくれない
生活が便利になるわけでもない
しかし、人間にはやはり芸術は必要、
芸術は心の栄養と続く

さて今の社会 特に日本
巷には有名であることイコール素晴らしい物
多くの支持があるものイコール偉大なもの
お金がある人イコール偉大な人
みたいな風潮があって、どこか真の芸術、それは身に付けるのも
解釈するにもそれなりの時間を必要とするが、そうしたものが
軽んじられている気がしてならない

今こそ必要なのは真の芸術、それを感じる心、それを理解する根気
説明的でないだけ自分の想像力を駆使する
その感覚、、、、そうしたものが必要なのではと思ってしまう

それはフルトヴェングラーがあの時代に今こそ必要と感じたことと通じる
いや、今はもしかしたらあの時代に似ているのかもしれない
だからこそ何よりも優先的に芸術的なものは必要なのかもしれない

 

コメント
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