パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

クラシック音楽の聞き方

2006年04月18日 21時31分20秒 | Weblog
今年はモーツァルト生誕250年。
昨年に続き東京国際フォーラムで5月3.4.5.6日の四日間
開催されるラ?フォルネ?ジャポン(熱狂の日音楽祭)のテーマはモーツァルト。

昨年はベートーベンとその仲間たちがテーマで、この音楽祭を知った時は大喜びで
早速、滅多に聴けないプログラムから(ミサ・ソレムニス 弦楽4重奏曲第14番嬰ハ短調など)
チケットを手に入れたのだった。

会場でのチケットを求める人の行列を見て、今年は込むだろうなと思いつつ
聴こうとする演奏会を選んでいたら、
しまった!
これこそは!と思ったのは頼もうとした時には売り切れていた。

知名度の高い演奏家のものは売れ行きがいいようだ。

クラシックという音楽分野が、こんな風に比較低価格で(1500円位から)
なおかつ、気楽に聴けるというのはよいことだ。

ところで、クラシック音楽のイメージを落としているのは、音楽室のベートーベン、バッハなどの
怖そうな顔と、コンサート会場での堅苦しい雰囲気だろう。

ホントはそんな事ないのに、慣れてない人は必要以上に難しく考えてるみたいだ。

おっさんは、クラシック音楽の演奏会場で眠くなったりするのを否定しない、
つまらない演奏会があるのも否定しない、
しかし、クラシック音楽が高尚で、教養によいなんて事には安易に賛成しがたい。

おっさんにとって、クラシック音楽は、ジャズやロック、演歌と変わらないどころか
サッカー、プロレスとも同じレベルで楽しめる、職人たちのパフォーマンスを楽しむ
機会のひとつだ。

しかし、こんな事も確かに言える。
音楽が何を語ろうとしてるか、どのように語ろうとしてるか、
そんなことを集中して聴くと
そんなふうにして聴かないと感じられない何かがある、ということ。

わかる、ということが具体的にはどんな状態の事かは説明できないが
わかった、感じた感動を再度感じたい!と思わせる力が
クラシック音楽には確かに存在する。

それは、もしかしたら作曲家が
真面目に費やした時間、執念、努力がなせる技の所為かもしれない。

作曲家も演奏家も、そして聴き手も、費やしたエネルギー分だけ報われるのではないのだろうか?
(そうあってほしいものだ)
コメント
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