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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

モーツアルトの子供の頃の音楽を聴いた

2025年03月06日 09時18分42秒 | 音楽

最近、心が荒んでいる実感がある
世の中の分断とか理不尽な出来事のせいだが
こうした時、生き物としての人間はどこかバランス
を取ろうとするように思える

その一つの方法として、子どもの無邪気な心に触れたいと思い
モーツァルトのすごく初期のレコードを引っ張り出してみた

手元にあったのはKV10から15までのフルートソナタのこれ

子供の頃の作品だから、つまらないかもしれないと想像したが
前に聴いた時に思いのほか興味深かったことは覚えていて再挑戦したわけだ

改めて聴いてみると、凄いとしか言いようがない
それは9歳の人間が作曲したからという面は否定できないが
それでも、もう大人並みの音楽性が感じられる
湧き出るような音楽と、少しばかり意欲的な試みのようなメロディ
そして不意に寂しさを感じさせるようなフレーズ
ただただ、凄いなと思うしかない

このレコードが興味深かったので、次に聴いたのはやはりレコードで
初期のヴァイオリン・ソナタ
リリー・クラウスとボスコフスキーの組み合わせで、昔
その方面では有名な名古屋の小池レコード店で購入したものだ

1面、2面はケッヘルの50台だからとても幼い時の作品のはず
聴いてみると、なんで子どもがこんな曲をつくることができるのか?
という思いをまたもや覚えてしまう

音楽的には既に大人の領域で、本当に一体どういう頭をしているのだろう
と天才としか言いようのない存在に改めて圧倒される
そう言えば昔「モーツアルトの脳」という本を読んだこことがあった
そこにはやはり特別な脳だったとあったが
作曲という行為は作り出すのではなく
楽譜に書くことは既に頭にあることを書き写すだけの行為としていた

確かにモーツアルトの自筆譜を見ると、少しも躊躇したところがなくて
一気呵成に書かれた勢いが感じられる
すごいなあ、、と改めて思うと同時に、未来がある子どもの生命力が音楽にも現れて
いろんなことを吸収していく前の可能性みたいなものが
今の荒んでいる心を癒やしてくれるような気がする

自分が得意ではないニーチェには
精神は駱駝になり、駱駝から獅子になり、獅子から幼子になる
という変化を論じている
幼子に価値をおいているのだが、その気持ちわかるな、、
というのが現在の自分の気持ち(解釈は違っているとしても)

商業的な意味合いではなく、心を癒す音楽は人には必要なものだと
深く実感する


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フルトヴェングラーの不思議な演奏

2025年02月28日 09時31分01秒 | 音楽

指揮者によって音楽の印象は変るのは経験上すんなり認められることだが
それでも、なぜこの演奏だけはそう感じるのかを説明するのは難しい
話は変わるが、テレビで上手な食リポを見聞きしても
想像はできても本当のことは食べてみないとわからない
つまりは当事者が直接どう感じるかを体験するしかない
演奏に対する感じ方もそれに似ていると思う

不思議に思えることの多いのがフルトヴェングラーの演奏
その例の一つはブラームスの4番の交響曲の最終楽章で
この楽章はとても変な楽章で、変奏曲形式で緻密なのだが
いろんな指揮者の演奏は急に終わってしまったと感じることが多い

ところがフルトヴェングラーの演奏だけは終わった!
と実感するのだ
なぜ、これだけがそう感じるのかはずっと不思議なのだが
その答えはわからずにいる

昨日、久しぶりにベートーヴェンのピアノ協奏曲5番皇帝を
フルトヴェングラーの指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ピアノ エドウィン・フィッシャーのレコードで聴いた
この曲は何となく押し付けがましくて、そんなに聴く気になれないのだが
この演奏だけは押し付けがましさを感じずに聴き通すことができる
押し付けがましいというよりは、イメージと違って楽器間のフレーズの
受け渡しみたいのものがはっきり聞こえて、テンポの揺れだけが注目される
彼の評価とは随分違った印象を受ける

なぜ、これだけがそう感じるのだろう
これもわからない

もう一つ、彼の演奏で最も有名なバイロイト祝祭楽団での第九の演奏でも
不思議な瞬間が存在する
それは第3楽章で、ブルックナーのアダージョ楽章を予感するような
内的で考える楽章なのだが、終わり少し前に金管によるファンファーレがある
その第一回目の時の寂寥感、2回目のファンファーレのあとの神聖な充実した音響は
彼以外の演奏は感じられない
他の演奏は「そう楽譜に書いてある!」とか「こうした演奏の表現方法もある!」
と言った印象しか感じず、フルトヴェングラーの切実な何かとは全く違う

トリスタンとイゾルデの2幕の終わりの音響も、彼の演奏では
とんでもないことが起きてしまった!
と後悔すらも感じさせるものだが、彼以外の演奏では
音楽は単なる音の時間経過でしかない

いろんな演奏を比較するとで、いろんな感じ方を体験できるという
当たり前の事実以外に、それでも何か不思議なものがあるという実感は
自分の中から消えることはない

でもこれは、食べたことのないものをいくら美味しいといっても
それは食べた人にしかわからない感覚で
本質的には通じないのと同じかもれない

フルトヴェングラーの若い時はこのような青年

どこか夢見がちな印象を覚える
(どこかジョン・レノンの若い時に似ている気がする)

この人がもう少し歳を重ねた容貌が

そして晩年のすさまじい演奏姿がこれ(リハーサル風景)
フルトヴェングラー ブラームスSy.4 

この動画を見て人はどのようなことを感じるのだろう

「モルダウ」もフルトヴェングラーの演奏は胸を掻きむしられる気がしてしまう

Smetana: Vltava (The Moldau) Furtwängler & VPO (1951) スメタナ ヴルタヴァ(モルダウ) フルトヴェングラー

 

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ビートルズの日

2025年02月05日 09時50分24秒 | 音楽

昨日、車でラジオを聞いていると「2月4日はビートルズの日」
と話題にしていた
毎日、何かの日がある日本だが何故「2月4日はビートルズの日」
なのだろうとググってみると、想像したビートルズが日本に来日
した日ではなかった

来日したのは6月29日で、日本ではこの日も「ビートルズの日」
となっているが、2月4日の方は世界的に認められているようで
ザ・ビートルズ(The Beatles)の愛称である「Fab.4」(Fabulous Four素敵な4人組)と
「Feb.4(2月4日)」をかけて、2月4日が記念日となったそうだ

昨年「F4」という言葉がちょいと話題になったが
それは「光る君へ」の登場人物 藤原道長、藤原公任、藤原行成 藤原斉信
藤原姓の4人をまとめて扱ったもので、省略化したり
似た音にかけて楽しむというのはどうやら世界で共通したものなのだ

世界中の宗教には、あの世の存在を説いているものがほとんどだそうだ
あの世があるのかどうかは知らないが、あると思いたい心情こそは
世界共通の心理的傾向のようだ

ところでグラミー賞の一つを受賞したビートルズの最後の一曲は
AI技術でジョンの声が蘇ったような「ナウ・アンド・ゼン」
ジョンぽい曲で、聴くとつい泣きそうなってしまう
The Beatles - Now And Then (Official Music Video)

 

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2つのシャコンヌ(バッハとヴィターリ)

2025年01月19日 17時07分44秒 | 音楽

バッハの曲の中で好きなのは無伴奏ヴァイオリンパルティータ2番の中のシャコンヌ
時々無性に聴きたくなる
今日は久しぶりにシゲティの演奏するCDを引っ張り出して聴いた
襟を正して聴く!というのはこう言うことだと思うほどの演奏で
こちらも真面目くさって耳をそばだてた
以前から音自体は美しくないが、精神性が云々といわれる演奏だが
確かにそうかも知れないと思える気がする
そのンシゲティの演奏の動画は↓

Bach Chaconne,シャコンヌ(Szigeti,シゲティ)from Partita No.2 for solo violin in D minor, BWV1004

実はもう一つシャコンヌで好きなものがある
それはバッハのものではなくてヴィターリの作ったもので
音楽が構成的と言うよりは十分に濃密な感情に支配されている
そのためかYoutubeでこの曲の演奏を探すと、女性の奏者の良いものがよく見つかる
本音を言えば女性の方がこの曲はあっている気がする
男のほうはどこか曲に入り込むと言うよりは分析的だ
女性の方は無条件に感情移入できているような濃密さだ

例えば↓も結構好きだ

ヴィターリ シャコンヌ Vitali: Chaconne

今日は日曜日、心に栄養を与える日
モーツアルトもいいけど、今日はこれらの曲が気持ちにフィットしている感じ

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変化はしているが、良くなっているのだろうか?

2025年01月10日 09時27分28秒 | 音楽

年末は懐メロを扱うTV番組を多く見かけた
特に見ようとしたわけではなかったが
耳に入ってことで2、3気になることがあった

その一つが、昔の音楽は演奏者の音が生き生きしているように思えたこと
バックのギターのリズムの刻みもはっきりしているし
歌い手さんもすごく上手い
曲自体(メロディ)も一本の旋律で勝負できるほどの彫琢がなされている
また歌詞も物語性の想像の喚起力を備えたものが多かった
つまりはプロの仕事というものを感じた

これは最近目にする大勢の人が踊って、打ち込みの音源で
ハモらずに歌う音楽的には少し幼稚なものと比較することで
際立った印象を覚えたのだと思う

時代(音楽)は変化している
だが進歩しているとは言えないのではないか?
それが、ひとこと言いたくなる世代の思いだ

気づいたことのもう一つは、歌手が大人びていること
特に女性アイドルの年齢が当時〇〇歳と表示してあると
こんなに若いのに大人びていると驚くこと仕切りだった
中森明菜とか山口百恵とか、すでにしっかりした個性と人格をもった存在で
今の子供じみたものをありがたがる傾向とは全く違っている

確かに見せ方はダンスや背景の豪華さで今風はそれなりに凄い
でも、どこか感動しない
これは昔話をしたがる老人の傾向の一つかもしれない

話は変わってラブソングを真正面から堂々と歌うのは恥ずかしいが
それは若い一時期の特権かもしれない
そのラブソングを若いビートルズが歌った一つが「And I Love Her」
たまたま、昨日若い女性にこの歌を紹介したことがあったが
彼女はこの歌を知らなかった(「Let It Be」は知っているけど、、、)

そこでスマホでYoutubeから流れるこの曲を聞かせた
ビートルズがこんな音楽を演奏し歌っているのかと少し驚いたようだった
古い音楽でも良いものは良いという当たり前の事実がここにもあった

The Beatles - And I Love Her (Official Music Video)

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成熟した音楽と可能性に満ちた音楽

2025年01月04日 09時22分39秒 | 音楽

正月の風物詩、ウィーンのニューイヤーコンサートを少しだけ見た
音響が素晴らしいムジークフェアラインで行われるが
音楽をみっちり楽しむというよりは雰囲気を楽しむ感じなので
集中力を要しないでいられる
その分つまらないので流し見ということになる

ウィーンフィルの奏者の中には女性がいた
かつてのウィーンフィルは男ばかりの団体だった
それがジェンダー平等の傾向に従って女性奏者も増えることになった
男ばかりを貫いていた時、女性ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは
そのようなオーケストラとの共演は断っていた

ところで個人的には男ばかりのオーケストラもあっていいと思う
男の感じ方とか演奏の傾向とか、そこから生まれる音響は
個性的になって、それは一つの価値ではないかと思うからで
ブルックナーの音楽を男ばかりと女ばかりのオーケストラで演奏したら
随分違う印象を得られるのではないかと勝手に想像した

話は変わって小学校の学芸会(学習発表会)があったころ
小学一年生の合唱を聞くと本当に感動して涙が滲んだことがあった
音程がどうのとか上手く歌おうとか、そうした気遣いは全く無くて
ただただ大きな声で元気良く歌うその姿と音響は
本当に汚れがなくて清らかで、何も知らないことの可能性に満ちていて
知ったかぶりの大人の心を揺さぶるものだった

つまりは音楽は奏者の年齢とか感性によって違う印象を与えるということだ
昔、変なことを思いついて、だれかその試みをしてくれないかな!
と思ったことがあった
それはベートーヴェンの3番の交響曲「エロイカ」の演奏を
ベートーヴェンがこの曲を作曲した時の年齢の奏者ばかりを集めて
演奏したらどんな音になるか知りたいと思ったのだった
大家といわれるそれなりの年齢の音楽家によるものでなく
作曲家と同じ年齢ならば将来にたいする希望や挫折など
曲に込められたそうしたものを、リアルに現実的なものとして
表現できるのではないか、、と思ったのだった

作曲家が若い時の音楽と熟成してからの音楽
個人的なことを言えば、自分は若い頃、作曲家が晩年の音楽に惹かれた
ベートーヴェンでは32番のピアノソナタとか弦楽四重奏曲14番だとか
ブルックナーでは9番とか、モーツアルトではクラリネット五重奏だとか
それらからは達観した何かが感じられて耳を傾けたのだった
ただし今はその時とは違う感じ方をしている
それは自分の感じ方の変化を重ね合わせて全てを振り返るようになっている

自分は若いときに老成した音楽を求めた(?)が
反対にそれなりの年齢になった今は
作曲家が若い時の音楽に惹かれる
小学生の合唱みたいに可能性に満ちた音楽は
それだけでとても価値があると思えてしまう
(モーツアルトのディベルティメントK136とか
     ベートーヴェンのピアノソナタ一番とか弦楽四重奏曲一番とか)

誰にでも若いときはある
そしてそれはとても貴重な出来事
その貴重な時間経過を他人が見守るみたいなこと
それがいい歳をした人のなすべきこと
年始にちょいと真面目に思ったりした


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今年最初に聴いた音楽

2025年01月01日 11時51分34秒 | 音楽

まるで運試しのように今年最初に聴く音楽は慎重になる
昨日のうちから少し考えていた

バッハのお正月付近のカンタータとか
モーツアルトのフルート四重奏曲とかホルン協奏曲とか、、、
でも、なんだか気分にフィットしない感じで
結局選んだのが年始には珍しいジャズのレコードの「サムシング・エルス」


聴いたのは有名な「枯れ葉」のあるA面ではではなくて、タイトル曲の入ったB面の方
理由はよくわからないがこのレコードはB面のほうが気に入っている
奏者同士の掛け合いとか主張とか、それらの音色がバランスよく混じって気持ちいい
これは聴いていて、今年の選曲は当たり!と自己満足した

聴いている途中に次の曲を選んでいた(まるでカラオケの選曲のよう?)
その結果はキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」一面

この演奏はCMにも使われたことがあるピアノの音が美しい演奏だ
静寂と白熱が入り混じって曲自体は即興によるもので
ゆっくりした左手のシンプルな伴奏に、右手が単音ぽいフレーズで感情を込めて
演奏する部分は何度聴いても惹きつけられる
シンプルな音だけで惹かれることがあるのはモーツァルトのピアノ協奏曲22.23番の
緩徐楽章でも同じこと
難しいことをするのではなく、少ない音で聴き手の心を鷲掴みにする
そういうことってあるものだと今更ながら思う

この2つはレコードで聴いたが、今年も聴き初めの曲の選択は正解だった
と自分は納得している
これで安心していろんな曲を聞聴けるようになる!とホッとした気分
(最初はどうしても慎重になってしまったということ)

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ブルックナー生誕200年の年に思うこと

2024年12月24日 09時14分59秒 | 音楽

今年は大好きな作曲家のアントン・ブルックナー生誕200年で記念の年
でも、CDで交響曲のオルガン編曲版を購入した以外には何もしていない
理由あって家を長く空けることはできないので
名古屋でのコンサートにはいけないでいる
オルガン編曲版はオーディオで聴くとダイナミックレンジの差がありすぎて
弱音がとても聴きづらいので、勢い込んで購入したものの
そのままになっているものが多い
でも記念の年の終わりに近づいているので彼に関することを考えてみる

よく耳にしたブルックナーの音楽は男にしかウケないとか
コンサート会場のトイレには男ばかりが並ぶという噂は
もはや都市伝説で客観的なデータはないそうだ

でも自分は直感的にそう思っていた(男しかウケないだろうなと)
そしてそれは自分以外にも少なからずの男が感じているような気がしていた

なぜそう思ってしまうのか?

反対の状況を思い浮かべてみる
音楽が女の感性にどっぷり浸かっていて男としては聴き続けるのが辛い
と言う音楽が自分にはある
例えば中島みゆきとか竹内まりあのCDが一曲聴くだけなら問題はないが
CD全部を聴くとなると何故か嫌になってまうのだ
その時感じることは、女の感覚には男にはついていけない思いで
上手く言語化できないが、とにかく根本的なところが違うという
信念に近い思いを覚えてしまう
これは歌だけでなく、マルタ・アルゲリッチのピアノ演奏を聴く時も
感じることで、直感でバリバリ突き進む音楽には
迫力があるがどこかついていけない気がしてしまうのだった

尤もこれは自分がどう感じるだけなので一般化することはできない
でも、、、、
そう、でもという言葉がついでてしまう

ブルックナーには一般受けする美味しいメロディがないとする声があるかもしれない
だが8番のアダージョ楽章の第2主題とか、9番アダージョ楽章の主題は
自分にとってはこの上なく美しいというか感動的なのだが
女性はきっとそう感じないだろうという確信に近いものを感じてしまう

ブルックナーもわかりやすい感傷的な音楽をピアノ曲残している
「秋の夕べの静かな思い」など
この路線で行けば彼はもっとポピュラーになった気がするが
彼の一番表現したいものは、拘ったものはこの路線ではなかった
彼が一番表現したかったもの
それは男の支配する感覚の抽象的な部分のような気がする

ということで、ただ根拠もなく自分がそう思った
というだけの話(でも本当に信じ込んでいるのだが)

ブルックナーの感傷的な音楽はこれ
ブルックナー:秋の夕べの静かな思い(1863)白神 典子 2000


自分が大好きな音楽はこれ
ブルックナー 交響曲第8番ハ短調 第3楽章 ヴァント NDR

 

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久しぶりに交響曲を通して聴いた

2024年12月20日 09時34分02秒 | 音楽

久しぶりに交響曲を一曲通して聴いた
CDではなくてレコードの方で(不調だったレコード再生は先日直った)
良い音悪い音というより自分は圧倒的にレコードの音のほうが好きだ
CDの音は録音スタジオできっちり余分な音は省かれている感じ
レコードの音はライブ会場で聴いている感じ
レコード再生は大音量も騒がしいというより音圧が違う

久しぶりに聴いたのはショスタコーヴィチの5番の交響曲(バーンスタイン指揮)


最近はオーケストラ曲より小編成の室内楽を聴くことが多くなっていた
まるで私小説とか独り言を聴くような感じで
大げさな人生観を語るような交響曲より
こうした音楽のほうが今の気分にフィットしていた

だが急にあれ(特に第3楽章)を聴いてみようかと言う気分になって
バーンスタイン指揮のニューヨークフィルのレコードを引っ張り出した

ロシアのウクライナ軍事侵攻以来ロシアの音楽家は
作曲家も演奏家も可愛そうな立場にある(知らず知らず避けているような)
彼らには罪はないが(ゲルギエフはプーチン支持で問題ありとされ
いろんなところで演奏拒否がなされている)
それで曲の良いものは良いと思い、久しぶりに手にしたのだった

この5番の生演奏はゲルギエフ指揮のマリインスキー劇場管弦楽団で
名古屋で聴いたが、これはなかなか良かった
音色が繊細で第1楽章では雪がどんどん積もっていくようなイメージのところ
第3楽章の静謐な木管同士の会話
そして圧倒的なフィナーレ
爪楊枝のような指揮棒を駆使して丁寧に指揮したゲルギエフ
なんか質感が普通の演奏と違うな、、と感じたことを覚えている

ところでこの5番は聴きどころがたくさんある
一番有名なのは第4楽章だが、マーラーの5番の第4楽章に匹敵すると思われる
第3楽章もとてもいい
寒々とした静かで内的な会話は、次の楽章との対比が際立っている

最近イライラすることの多いが、こうして音楽に向かい合うと
音楽は良いなあと素直に思う
そしてそれは自分の心を平安にしてくれるような気さえする

ところで聴き方の年齢による変化は
今のほうがモチーフ変形とか旋律の展開が聞き取れるようになっていて
その技術的なところが面白いと思うようにもなってきている


お気に入りのショスタコーヴィッチの5番の第3楽章はこんな音楽

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調作品47 第3楽章 チョン・ミョンフン指揮

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オルガン演奏によるブルックナーの交響曲

2024年10月04日 08時47分39秒 | 音楽

クラシック音楽の世界では3大Bという言葉がある
一般的にはバッハ・ベートーヴェン・ブラームスのことをさすが
自分はブラームスの代わりにブルックナーを選ぶ
2024年はブルックナーの生誕200年だ

2020年にコロナ禍で生誕250年を大騒ぎできなかったのがベートーヴェン
今年のブルックナーも日本のメディアにはほとんど報じられず大騒ぎできていない人だ

ブルックナーオタクは男ばかり、嫌いな作曲家の筆頭ともいわれるブルックナー
でも、自分は大好きだ
ウィーンの彼の最後の家も、彼の心臓が眠るザンクト・フローリアン修道院も
そこでは日本人の誰にも会わなかったが、大いに満足感を得られる時間を過ごした

生誕200年となれば、商業的にも特別な企画が生まれる
その一つがオルガン編曲による交響曲の演奏だ
これは外すわけにはいかないが一枚一枚購入すると高くなるので
セットでやすいのを手に入れた


ブルックナーの音楽はオルガンの影響下にあると言われる
弦楽器よりも金管楽器が活躍する傾向があるからと思われるが
それは実際に聴いてみると、そうかもしれないと思う

ただし圧倒的に困ることが一つある
それはオルガンの音は弱音と強音のダイナミックレンジが広すぎるので
音響がCDには収まり切れないでいる
フォルテを基準にするとピアノの音は極めて小さな音になる
そしてピアノの時の柔らかい音色はスピーカーからは聞き取りにくい
(ダイソンの扇風機は音が大き過ぎる)
オルガンの音はやはり教会の広い空間の中で聴くのが一番のようだ

オルガン演奏を生で聴いたのは多分ケルンの大聖堂とウィーンのシュテファン大聖堂
50年以上も前の話で、たまたま演奏会があることを知って出かけたのだった
大音量にびっくりしたのは当然だが、今も覚えているのは別のことで
演奏のプログラムに「インプロビゼーション」というのが当たり前のように入っていたことだ
即興演奏という音楽が、ごく自然に組み込まれていてこの国の人々は
古い音楽ばかりをありがたがっていない!と強く感じたのだった

CDに収まりきれない音楽を自宅のオーディオで楽しむには少し忍耐がいるが
いつか名古屋の芸術劇場コンサートホールで
ブルックナーのオルガン編曲版の交響曲を聴いてみたいものだ
(どこかのテレビ局が試みてくれないかな)

CDはまだ聴き始めたばかり、まずは各交響曲のアダージョ楽章ばかり聴いて
その世界に浸ってみることにしようか
(アダージョ楽章はどの交響曲も良い)

ところで、数年前にはオルガンではなくてピアノの二重奏で彼の交響曲を演奏した
CDを手に入れたが、このときもダイナミックレンジの不満を覚えた

ブルックナーの音楽はやはりコンサートホールで聴くのが一番だろうが
田舎に住んでいる身としては、これらで満足するしかない

 

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