終戦
「鳥澤さん、私らは一刻も早く祖国に帰りたいので、これにて失礼します。」
列車が満州の首都新京に到着すると、欧州から逃れてきた同行者のうち何人かの人々は慌しく日本へ向けて出立して行った。
「沼津や静岡のあたりは空爆がひどくて、大分やられたみたいだ。帰国してもろくに食べるものがないから、しばらくは満州にいて様子を見たほうががいいよ。」
と忠告してくれる人もいた。そこで、晃は奉天(瀋陽)にある三井系の化学会社の支店で働くことにした。しかし、やっと落ち着いたと思ったら、1945年8月6日に広島へ原爆が投下され、8月8日にはソ連軍が日ソ中立条約を破棄し満州へ侵攻してきた。さらに8月9日に長崎に原爆が投下されるにいたって、ついに日本は降伏を決定した。晃たちは、8月15日の天皇による無条件降伏受諾放送をラジオで聞いた。
ソ連軍の参戦は、同年2月のヤルタ会談において米英ソの間で密約されていたことだったが、日本政府は事態の正確な把握ができていなかったし、無条件降伏へのこだわりがあった。さらに、日ソ中立条約の存在が満州国にある種の安心感を与えていた。すでに関東軍の精鋭は南方戦線に送られていて、ソ連軍の侵攻の前になすすべがなかった。
ソ連の占領軍による暴行や、それまで虐げられていた朝鮮民衆による略奪が始まった。時計や、ラジオ、万年筆、宝石、お金など、めぼしい物を強奪し、暴行を繰り返すさまは、まさに百鬼夜行の有様だった。日本人の婦女子は身に危険を感じ、引き上げできる日まで剃髪し、男装して難を避けていた。
一方、蒋介石が率いる軍隊が撤収した後に満州へ侵攻してきた中国共産党の八路軍は、軍律が厳しく、日本人の安全を確保してくれていた。これは、敗北した関東軍の一部が八路軍の強化に協力したことや、八路軍の将校に海外に留学した者が多かったことによるものと思われる。
占領軍は、奉天の満鉄支社や学校などを接収して、司令部を設けていた。日本人は、これらの建物の掃除をするようにという命令があり、晃は率先してその任にあたった。このような協力的な態度が、八路軍に好意的に受け取られていた。
英語と中国語の話せる晃は便利な存在であり、次第に司令官とも懇意になった。司令官はシカゴ大学出身のインテリで、物腰も柔らかった。
「あなたは老子の道徳経を読まれたことはありますか。」
晃は、こう彼に問いかけた。
「否」という司令官の回答に、
「中国には、キリスト教や仏教の前に、このような偉大な思想があったのです。これは中国の誇りだと思います。ぜひ読まれた方がよい。」
こうした何気ない会話に、殺伐とした日々を送る司令官は感じるものがあったのかもしれない。
「時代が落ち着いたらまた会いましょう。」という挨拶を交わして、晃たちは帰国することとなった。
つづく
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