日本教の聖書といわれる「大和俗訓」で、貝原益軒はこのように語ります。
天地は万物をうみ給う根本にして、大父母なり。
人は天地の正気を受けて生きるる故に、万物すぐれて、
その心、明らかにして、五常の性をうけ、天地の心を以て、心として、
万物の内にて、その品いととうとければ、万物の霊とは、
のたまえなるべし。霊とは、心に明らかなるたましいあるをいう。
天地は万物をうみ、養い給う中にも、人をあつくあわれみ給うこと、
鳥獣草木にことなり、ここを以て、万物のうちにて、もはら人を以て、
天地の子らとせり。されば、人は天を父とし、地を母として、限りになき、
天地の大恩を受けたり。
故に天地につかえ奉るを以て、人の道とす。
これを山本七平さんは、次のように解説しています。
人間とは何か。
それは施恩の権利を主張しない天地(自然=宇宙)に、
受恩の義務を感ずる存在であらなけばならぬ。
それが貝原益軒の基本的な考え方である。
したがって彼には、聖書のように
天も地もともに被造物、すなわち物質であって、
人の肉体もその点では変わらない、
という考え方はなく、天と万物は人格化されている。
そのために被造物に過ぎない人間が、
なぜ自由意志をもてるのかという発想も議論もありえない。
と山本は言いますが、まだ山本の比較論は続きます。
ここに聖書思想と日本教の比較が展開されていきますので、
しばらくこの山本流の比較を見ていきましょう。
日本教は比較文化がないと山本さんは常々、指摘しています。
日本のキリスト教会では、日本がキリスト教が成長しない理由は、
日本教のゆえだと指摘する方がおられます。
しかし、山本さんのように聖書とキリスト教の論理と
どこが異なるのかを正しく比較して、
議論がなされているのかはあまり見たことも聞いたこともありません。
では次回も日本教の本質に迫っていきましょう。