
えー、徳島駅を出発してかれこれ5日。電車ではたった260円15分程度の区間を、ずいぶんかけて帰って参りました。だいぶぐるっと回り道してんですけどね。
というわけで、いつきのおじぃちゃんから調査のアドバイスをいただきつつ、オッパショ石を見てきました。オッパショ石は皆さんもよくご存じの、「おんぶしてくれと通行人に声をかけた」という石です(村上健司『妖怪ウォーカー』参照)。
地元の案内板によると、その昔、「相撲取りの朝日岩がこの石に「オッパショ、オッパショ」と背負ったところ(こうあると朝日岩から背負ってやろうと言ったように読み取れますね)思ったより軽かったが、急に重くなって歩けなくなったので狸に違いないと思い、地面にたたきつけると石は真二つに割れてうんともすんとも言わなくなった」んだそうです。
御覧のように石というよりは石碑で、「南無妙法蓮華経」とあり、下の方にやや磨耗して見づらかったんですが「寛永三癸卯年 功徳」云々と書いてありました。永の字がよくわからんかったので3年が癸卯年に当たるか、どなたか調べてみてください(あぁ旅先って不便)。中央やや上よりに斜めに亀裂が入りコンクリートで補修してあるわけですが、昔は割れたまま放置されてたんじゃないかなぁというお話でした。周囲の墓は明治や嘉永のものでしたから、いずれにせよこのオッパショだけちと古い感じですな。
土地の方に話を聞こうと墓づたいにうろうろ(周辺一帯が草莽にうずもれた墓、墓、墓)していたら真宗のお寺(本願寺派 黒谷山潮見寺)にぶちあたったので、そこの住職さんにいろいろと聞いてきました。まず、オッパショ石の辺りの墓はこちらの管理ではなく、寺の西から先はすべて別の寺のものだけども、その寺はだいぶ前につぶれてなくなったとのこと。後で探し歩いたら、浄土宗実相寺末の無縁寺(焼香庵)とかいう寺のようで、寺の名前は広大な境内に無縁の死者を埋葬したことに由来する、というものらしいです。草創の年代は全く不明みたいなんですけどね。元が無縁の寺であった以上は無縁の墓もあるんでしょうが、普通の墓もうじゃうじゃと入り交じっております。開発に伴って近々整理統合されるようですけども。
立地はまさに境界の地です。徳島市街は南北に稜線をのばした眉山に覆われるように山の東側に広がるわけですが、石は山の南麓の、稜線を挟んだ裏側になります。南麓自体は二軒屋町という地名になってますが、寺(忌部神社に隣接)と庄屋の二軒しかなかったからこの名がついたというほどさびれた地だったらしく、また忌部神社をさらに少し南に行ったところに今は四方亭という料亭があるんですが、そこに城下町を出る門の口があったために役人の家があったらしい(料亭への建替えに際してようけ文書が出たらしいですわ)。
そこをさらに南へややくだると眉山に沿った細い道があらわれます(道の分岐点に砂岩質でぼろぼろになった道標が立っておりました)。その道がかつての土佐街道にあたるわけですが、そいつがちょうど、なんとオッパショ石の前を通っていくわけですねぇ。ちなみにもう片方の道は、明日ワタクシが歩いていく遍路道です。何がどう、とはっきりは言えませんが、モヤモヤと何かが集まってきてる感じがしますね。ご住職(60半ばぐらいの方でしょうか)が子供の頃は土佐街道に沿って家はあったがその向こうは田んぼしかなかったとのこと(後で手書きの地図アップしときます・苦笑)。
さてさて「オッパ」は阿波の方言で背負うことをあらわすわけですが、狸のことも「おっぱひょう」というんだそうです。また、この近くには「オンブの吉」と呼ばれた仔狸が住んでいたらしく、オッパショ石はそいつの仕業という話もあるんだとか。狸の霊をまつった石とも言われるようですけども、何はともあれ赤殿中といいオンブの吉といい、徳島の豆狸は…おっぱひょうなんですねぇ(笑)。
というわけで、疲れを忘れてうろついた夕暮れのひとときだったのでした。
ハートに火がつくぜ燃え上がるぜ
BGM*電撃戦隊チェンジマン/影山ヒロノブ
というわけで、いつきのおじぃちゃんから調査のアドバイスをいただきつつ、オッパショ石を見てきました。オッパショ石は皆さんもよくご存じの、「おんぶしてくれと通行人に声をかけた」という石です(村上健司『妖怪ウォーカー』参照)。
地元の案内板によると、その昔、「相撲取りの朝日岩がこの石に「オッパショ、オッパショ」と背負ったところ(こうあると朝日岩から背負ってやろうと言ったように読み取れますね)思ったより軽かったが、急に重くなって歩けなくなったので狸に違いないと思い、地面にたたきつけると石は真二つに割れてうんともすんとも言わなくなった」んだそうです。
御覧のように石というよりは石碑で、「南無妙法蓮華経」とあり、下の方にやや磨耗して見づらかったんですが「寛永三癸卯年 功徳」云々と書いてありました。永の字がよくわからんかったので3年が癸卯年に当たるか、どなたか調べてみてください(あぁ旅先って不便)。中央やや上よりに斜めに亀裂が入りコンクリートで補修してあるわけですが、昔は割れたまま放置されてたんじゃないかなぁというお話でした。周囲の墓は明治や嘉永のものでしたから、いずれにせよこのオッパショだけちと古い感じですな。
土地の方に話を聞こうと墓づたいにうろうろ(周辺一帯が草莽にうずもれた墓、墓、墓)していたら真宗のお寺(本願寺派 黒谷山潮見寺)にぶちあたったので、そこの住職さんにいろいろと聞いてきました。まず、オッパショ石の辺りの墓はこちらの管理ではなく、寺の西から先はすべて別の寺のものだけども、その寺はだいぶ前につぶれてなくなったとのこと。後で探し歩いたら、浄土宗実相寺末の無縁寺(焼香庵)とかいう寺のようで、寺の名前は広大な境内に無縁の死者を埋葬したことに由来する、というものらしいです。草創の年代は全く不明みたいなんですけどね。元が無縁の寺であった以上は無縁の墓もあるんでしょうが、普通の墓もうじゃうじゃと入り交じっております。開発に伴って近々整理統合されるようですけども。
立地はまさに境界の地です。徳島市街は南北に稜線をのばした眉山に覆われるように山の東側に広がるわけですが、石は山の南麓の、稜線を挟んだ裏側になります。南麓自体は二軒屋町という地名になってますが、寺(忌部神社に隣接)と庄屋の二軒しかなかったからこの名がついたというほどさびれた地だったらしく、また忌部神社をさらに少し南に行ったところに今は四方亭という料亭があるんですが、そこに城下町を出る門の口があったために役人の家があったらしい(料亭への建替えに際してようけ文書が出たらしいですわ)。
そこをさらに南へややくだると眉山に沿った細い道があらわれます(道の分岐点に砂岩質でぼろぼろになった道標が立っておりました)。その道がかつての土佐街道にあたるわけですが、そいつがちょうど、なんとオッパショ石の前を通っていくわけですねぇ。ちなみにもう片方の道は、明日ワタクシが歩いていく遍路道です。何がどう、とはっきりは言えませんが、モヤモヤと何かが集まってきてる感じがしますね。ご住職(60半ばぐらいの方でしょうか)が子供の頃は土佐街道に沿って家はあったがその向こうは田んぼしかなかったとのこと(後で手書きの地図アップしときます・苦笑)。
さてさて「オッパ」は阿波の方言で背負うことをあらわすわけですが、狸のことも「おっぱひょう」というんだそうです。また、この近くには「オンブの吉」と呼ばれた仔狸が住んでいたらしく、オッパショ石はそいつの仕業という話もあるんだとか。狸の霊をまつった石とも言われるようですけども、何はともあれ赤殿中といいオンブの吉といい、徳島の豆狸は…おっぱひょうなんですねぇ(笑)。
というわけで、疲れを忘れてうろついた夕暮れのひとときだったのでした。
ハートに火がつくぜ燃え上がるぜ
BGM*電撃戦隊チェンジマン/影山ヒロノブ
にしても、周辺の墓群の中では抜群に古いですね。もちろん全部調べたわけじゃないですけども。