怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

番外編 四国のミチ 其の3

2007年01月21日 04時14分19秒 | ヘンろみち
みなさんこんにちは!四国88ヶ所遍路大使(認定番号:651)*です。今日は、徳島の北東部と香川東部で似たようなもんを見かけたよ、というお話をいたします。

2番札所極楽寺からすぐのところにあった諏訪神社の境内で、早めのお昼ご飯を食べようと腰をかけた目の前に、不思議な石碑を見つけたのです。それが、これ。



一見墓石のように見えますが実は五角柱になっていて、正面には「天照皇大神」、次いで時計回りに、「大己貴命」「少彦名命」「埴安姫命」「稲倉魂命」の字が刻まれ、碑の真ん中辺りにしめ縄が結ばれています。徳島を歩いている時、これと同じものを、神社の境内や田んぼの端でしばしば見かけました。また、タヌキめぐりをしている際(詳細は後日)、南小松島の駅構内では、近年建てられたばかりとおぼしき御影石製のものがありました。徳島県内でワタシが目撃した南限は、22番平等寺に至る手前でしたから阿南市の真ん中辺りになります。

以降、高知、愛媛と全く見かけなくなって久しくなり、そろそろ忘れかけて遍路も終盤にさしかかった時。香川県は高松市内で、再び同じものを目にすることになりました。見たのは徳島と同じく神社の境内であったり(83番一宮寺手前の成合天満宮)、県道280号線沿いの民家の玄関先であったり。建てられ方としては、碑に正対すると自身は南面して立つことになるものと、東面して立つことになるものの2種類・・・だったと思います。


(高松市内で見たもの)

なんだろうこれは、と思いつつ、結局四国にいる間はわからずじまいだったのですが、最近になってようやく判明しました。これ、「地神碑」と呼ばれるものなんだそうです。

どうやら発祥の地は徳島らしい。それが、江戸時代から明治期にかけて瀬戸内地方に広まり、徳島、香川以外に岡山でもわりと見られるものだそうで(柴はん&いつきのおじぃちゃん、お見かけになりませんでしたか?)、他に北海道でも徳島県人の入植地で集中して存在するようですね。居並ぶ神さんのメンツを見ても、またおそらく、太陽の方向を向いて立つことになるのであろう辺りからも、農耕に関わるものであることは歴然としてます。

徳島ではどのように祀られているのかはググった段階ではイマイチわからず、ここにはとりあえず岡山での習俗をご紹介いたしますが、祭日というのが、春分の日と秋分の日のそれぞれに一番近い「戊」の日の2回。この日は「金忌み」といって、「鍬を使うと地神様の頭に鍬を打ち込むことになる」からということで、農作業を休む慣わしになっているのだそうです。・・・なんだか、どっかで聞いたような話ですね、大江山の周辺に伝わるという、酒顛童子が殺された7月15日には刃物を一切使ってはいけない「鎌止」の慣習。ちょっと違うか(笑)。

徳島の地神信仰は明治期に公権力が入ったり、その上でなおかつ地域性をいまだに持っていたり、というような報告があるようですので、おいおいまた調べてみたいと考えておりますが、この話は今日はひとまずこの辺りにしておいて。

徳島と香川の、さらにしぼって阿讃山脈の南と北に位置する二つの地域、板野郡(徳島)と引田町(香川)についてのお話です。

地神碑を見かけた高松市内はさほどでもないですが、87番長尾寺を出て88番大窪寺に向かう頃から徐々に、にっぽん昔話のような香川の山並みは徐々にうすれ、大窪寺から白鳥温泉をぬけて引田までくると、その風景が、どこかしら徳島的のどかさが漂ってきます(徳島は、どこがどうとはっきり言えないのだけれど、とにかくとっても「のどか」なのです)。

この地域と、南側になる板野郡には、共通する名産があります。それが、和三盆。香川側では讃岐和三盆、徳島側では阿波和三盆と呼ばれています。日本で和三盆が作られるのは、この阿讃山脈の南と北のこの地域だけで、「竹糖」と呼ばれる特殊なサトウキビを原料として作られるのだそうです。両地域は気候や土壌が似かよるのでしょうね。製法は表向き互いに秘伝とされていたようですが、それぞれ18世紀はじめのほぼ同じ時期に確立したといいます。

それぞれの地域に伝わる、和三盆づくりのはじまりについて伝わるお話をご紹介しましょう。

〈讃岐〉
四国遍路の途で病に倒れた薩摩人を介抱したところ、恩義を感じたその旅人が死罪覚悟で国禁のサトウキビの苗を持ちだして届け、それが讃岐の国に根づいた。

〈阿波〉
旅の修行僧が立ち寄ったとき、九州で砂糖黍が栽培されていることを土地の者に伝えた。それを知った若者が日向国に行き、サトウキビの苗と製法を修得し帰って、阿波のサトウキビ栽培の基礎を作った。

サズカリモノ的由来譚の讃岐と自ら獲得におもむいた由来譚をもつ阿波、という違いが見えます。この地域におけるサトウキビの栽培は吉宗による享保の改革の一環で商品作物栽培が奨励されたことにはじまるのですが、実は、製造に着手したのは讃岐の方が先なんですね。どちらも実話かどうかは考慮の余地があるものの(両方とも、具体的な人名まで伝わっていたりします)、両話の温度差の違いは、遅れをとった阿波の焦りと無関係でないように思えておもしろいですね。

で、この両地域を結ぶのが、歴史に名高い大坂越えになります。ワタシが歩いて越えた大阪峠は、実は明治に入って整備された「旧道」と呼ばれるもの(新道は県道1号線)で、本来の道は荷馬が通れないほどの難所だったという話ですけども、この辺りの山は讃岐平野に点在するような、瀬戸内の島々を形成したような峻険な山々とは違いますしね。阿波と讃岐を結ぶ、比較的交流の頻繁な道だったと思われます。そしてまた、引田と板野郡は、もろに大坂峠の北と南の出入口なわけです。

阿波で旅の僧が話したというサトウキビの栽培地も、宮崎まで行ったという若者の真実の行き先も、お山を一つ越えた引田の集落だったのではないでしょうか(笑)。


大坂越えの道より、引田の集落を見下ろす。


*…歩き遍路を結願すると任命してもらえる称号。証明書は前山おへんろ交流サロンにて発行される。無料(なお、88番札所大窪寺発行の証明書は有料)。




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5 コメント

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お彼岸って (いつきのじじい)
2007-01-22 17:30:41
神道で社日っていうんです。明治の国家神道系かなとあまり興味がなかったのですが、ネットで、社は宗廟社禝の社だという指摘を見つけたんです。とすると、ポリスメンのやってる儒家神道に関わってくるのかなとも思うわけで、何せ岡山といえば熊沢蕃山センセイですからね。江戸時代までさかのぼるならそんなことも考えられます。
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ついでに (いつきのじじい)
2007-01-23 15:19:58
高松藩の松平は水戸黄門の子孫なんだそうですね。とすれば水戸学、大日本史的な、つまり神仏分離思想も入ってて不思議じゃないですね。で、徳島藩の蜂須賀家は八・九代と高松藩から藩主を養子にもらっているそうなので、結構イケイケなのかな、とも思います。
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ありがとうございます (主宰者)
2007-01-23 20:17:17
メールでいただいた伊勢の地神碑は六角形、という話もおもしろかったです。いつも勉強になります(≧ω≦)。



ところで、ワタシ近世の調べモノの仕方をまったく知らないもので、いい機会ですのでぜひ教えていただきたいのですが、代々の藩主の系図だとか藩と藩の間の養子関係だとか姻戚関係だとか言うのは、どうやって調べるものなんでしょうか。なんか便利な本があるんですか(汗)?
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それはね (いつきのじじい)
2007-01-23 23:47:30
姓氏家系大辞典(太田亮著 角川書店)とか、寛政重修諸家譜(続群書類従刊行会)とかが手っ取り早いのですが、このごろはこのへんをもとにWikipediaにかなり載っているのですよ。○○藩&Wikiでググるとたいてい引っかかってきますよ。このへんはマニアの方かせ多いようで、かなり楽に調べられるようになりました(^0^)。

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うぃ、 (主宰者)
2007-01-24 01:46:55
うぃきぺでぃあ だったのですね。
べんりな世の中になったもんです・・・。
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