日伊文化交流協会

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イタリア人の宗教観

2012年05月22日 17時36分11秒 | イタリア全般
あの、たいそうなタイトルになっちゃってなんなんですが、がっちゃんてば、『82.0MHzエフエムあまがさき』で毎週水曜日20時から放送されている、『8時だヨ!神さま仏さま』って番組に出演することが決まりましてですね、そのテーマがなんとこれなんですよ。(厳密には違うけど)

でね、まぁとにかく自分の心の整理のためと、皆様のご意見も伺えたらいいな。なんてムシのいいこと考えましてですね。
こうしてブログに記事をアップしましたでございます。
ちなみに、この『8時だヨ!神さま仏さま』はインターネットラジオでも聞くことができるざます。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
『8時だヨ!神さま仏さま』

収録が6月1日だから、放送は、13日(水)か、20日(水)かなぁ~
またわかったらブログでご紹介します。


ってことで、先方から来たテーマがですね、


内容は、「ここが変だよ、日本人の宗教観」
がっちゃんさんがイタリア人に京都の神社やお寺を
案内してどう説明するのか、その時の反応などを
紹介いただこうと思います。
また逆に、イタリア旅行で日本人がよく訪れる教会
や大聖堂などその魅力について語っていただきたい
なと考えています。



って書いてあったザマス
どうしよう。

とりあえず、過去にがっちゃんがいつもイタリア人が日本に来た時に話す常套句とか、だいたいいつも聞かれる質問をどうかわしてるかをここでばらしちゃいますので、またそれについてのご意見を頂けたらと思っております。

イタリア人にすごくよく聞かれる質問の一つが、

『日本人が一番多く信仰している宗教は何か?』

です。
まぁこれも毎回聞かれるわけではなく、若い子の場合は、まったく関心がない。って子も多いです。
どっちかと言うと、宗教に敏感なのは、アメリカ人かもしれない。

で、まぁそれに対してですが、

「正面切って、私は〇〇教を信仰しています。と答える日本人は少ないけれど、日々の生活の中で、先祖への感謝や、宗教行事を大切にしている人は多い。」

と答えています。

ただし、日本人の中には、子供が生まれた時や、受験の祈願などの折には『神社』へ行き、結婚式は『教会』で挙げ、お葬式は『お寺』さんにお願いする。人もいて、宗教観が薄いのだと。

付け加えています。

そのあたりで、だいたいイタリア人の顔に???が浮かび始めて、こっちも説明に困るんですが、

イタリア人でも教会で結婚式を挙げずに、市役所に行く人が多いでしょ。
っていうと、なんとなくですけど、納得した顔になります。

でもやっぱり、結婚式だけ『教会』と言うのは変だと思う人が多いようです。
これは、私も常々思ってて、教会で挙げるのに、大安にこだわる人とかを見ると、ふーーーーーん。って思います。
かくゆう、がっちゃんも教会で挙げたんですがね、まぁこれにはいろいろわけがありまして、ダンナ側の親族がすべてクリスチャンなんですよ。
でまぁ一応私も1年以上にわたって教会に通いましてですね。結婚式はホテルで挙げましたが、ホテル付きの牧師様にお願いしたのではなく、わざわざ通っていた教会の牧師先生にお願いしましたので、なんていうか、なんちゃって教会式とはちょっと違う結婚式でした。
(でもまだ洗礼はうけていないがっちゃんです。これはいろいろ思うところがあるのでまた今度)

おっと脱線しましたね。
でね、テーマにあるところの『神社やお寺を案内して・・・』
のくだりなんですけどね。
これがいっつも困るんですけど、正直、格別な信仰心も持たず、神社仏閣に詳しくない私にとって、入場の時に渡されるパンフレットを読んでも、実は何が書いてあるのか皆目わからない。ってことが多いんですよ。
えっと、こちらは『醍醐寺』の略縁起なんですが、


≪醍醐寺≫

醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。


ほんとうに恥ずかしいことに、がっちゃん国文科を出てるのに、この中に読めない漢字が山ほど出てくる。
その上、これを訳すのって結構大変。
なので、どっちかと言うと、建物のつくりとか、見えるものを案内することになるんですよねぇ~。
後は、醍醐寺だったら、豊臣秀吉が盛大な花見を催した話とか、毎年開催される巨大な鏡餅を持ち上げるお祭りとか、つまり自分に語るべきものがないから解説できないんだと思うので、その意味でもっと勉強しなくちゃいけないんですけど。

でも、お寺の方も、菩薩と如来の違いとか、(これは東寺で覚えた)、月光菩薩は「げっこう」ではなく、「がっこう」だってこととか(たぶん常識なんだろうけど)、私みたいなアホでもわかる簡単な解説を書いてほしいものです。


でね、とりあえず私がイタリア人に説明するときに苦肉の策として話してるのが、次の通り。
あくまで私見ですので、

「がっちゃん、こないな説明あかんがなぁ~」

と言うのもオオアリだと思うので、その時は、罵詈雑言を浴びせずに、優しく訂正してくださいね。


質問:神道と仏教はどう違うのか?

非常に近しい存在で、日本には八百万の神がいると言われ、あらゆるものに神が宿っていると考えられている。また、菅原道真のように、実在の人物が秀でた学力や人望によって、信仰の対象となっている例もあり、イタリアの聖人と同様、地域で親しまれている神が存在し、さまざまなしきたりの違いがあるにせよ、神宮寺に代表されるように神仏集合思想に基づき、仏教と神教が同時に祭られている場所もあり、対立するものではない。(と思う)


質問:赤いエプロンをつけている石像は何か?

これはお地蔵様と言って、仏教の信仰対象である菩薩の一種で、子供の守り神と考える人も多く、そのため、赤い前掛けに子供の名前を書き込んで奉納する人が多く、地域の信仰対象になっている。イタリアでいうところの、街角にマリア像をはじめ、守護聖人の像があちこちにあるのと同じようなもの。(と思う)


質問:お経を日本人は理解しているのか?

個人的な意見だが、私を含め、多くの日本人は理解していないと思われる。イタリア人にとってのラテン語よりももっとかけ離れた言葉なのだが、ミサで、ヘブライ語のアーメンを唱えるように、ある一部については唱えることができる人もいる。ただし、イタリアにおける聖書の普及率に比べると、格段に仏教の経典のようなものの普及率は低いと考えられる。(と思ってる)


質問:カトリックとプロテスタントのような対立はあるのか?

仏教の中には、浄土宗、天台宗、臨済宗などさまざまな宗派があり、それぞれ修行の仕方や、戒律は違う場合もあるが、イタリアにもカトリックの中に、ドメニコ会や、フランシスコ会、イエズス会などがあるように、ひとくくりで、仏教となっているため、宗派間での差は、カトリックとプロテスタントほどの差ではない。(と思ってる)


で、ひるがえって考えたとき、がっちゃんは、イタリア人の宗教観を語れるほど詳しいわけでもなんでもないんですけれど、でもやっぱり日本人よりは確実に強いなと思いますです。
日本は、政教分離の思想に基づき、たとえば祝祭日も宗教に関わる祭日がないのに比べて、イタリアはカトリックの行事がそのまま祝祭日となっている日も多く、その意味でも人々とのかかわりが密接なのではないかと思います。
あと、なんと言っても、世界中のカトリック信者をとりまとめるバチカンがイタリア国内と言うべきか、えっと別の国だけど、なんていうか、隣り合わせじゃないな。まぁやっぱりイタリア領土内に、独立国としてあるとか、バチカンの意向と言うのが、イタリアの長い歴史の中で非常に重要な位置を占めてきたこととか、あとイタリア各地に、必ず教会があって、(日本にも神社仏閣があるけど)その教会を中心として広場があって、町の中心でもあったりするのは、日本とは違うなぁ~って思うんですよね。宗教が政治にも深く関わってるし。

まっ色々考え方があるわけですけれど、何かイタリア人の宗教心とかで思うことがあれば、教えて下さいねーーー。


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2 コメント

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Unknown (さばぇ)
2012-05-27 08:41:55
私は日本の宗教のこと聞かれるといつも、「生まれたときは神道、結婚はキリスト教、死んだら仏教のセレモニーをするけど、普段の道徳観念は儒教」って答えてました。するとだいたい大笑いされて、めらびりおーぞ!とか言われてました。^^;

でもちゃんと知りたい人にはその後、日本人があんまり宗教にこだわらないのは、第二次世界大戦以前の天皇=神 って考えがあって、その神のために戦争で多くの人が命を落として、でもその後天皇の人間宣言なんかがあって、そんな経緯から盲目的に神を信じることには抵抗がある みたいなことを話してます。

って、これが本当に正しいのかどうかはわかんないんですが、少なくとも私はこういう解釈なので。

イタリア人にとっての宗教は生活びっちり というか、まずは宗教ありき なので、やっぱり日本人の宗教に対する感覚とはかーなり違ってますよね。
モノの善し悪しの判断基準から、生活様式(日曜に働らくのが法律で禁止されてるとか)に至るまで全て宗教がもとになってますし。

イタリアで教会の前とかに座って手出してる人居るじゃないですか、そういう人見ても私なんて、その時間があったらなんでもいいから働けや とか思っちゃうんですが(高齢の人や体が不自由な人はともかく、健康そうな若者とか特に)、イタリア人の友達はよくお金を入れてたんですよね。
一度、なんであげるの?と聞いたら、貧しい人は助けるべき と教会で教わったから と。
その時、なんというか、人間形成のベースに宗教があるんだなー と感じました。(それがいいとか悪いとかではなくて)
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お返事(その1) (がっちゃん)
2012-05-28 14:34:42
☆さばぇさんへ☆

お返事前後してすいません。

>私は日本の宗教のこと聞かれるといつも、「生
>まれたときは神道、結婚はキリスト教、死んだ
>ら仏教のセレモニーをするけど、普段の道徳観
>念は儒教」って答えてました。するとだいたい
>大笑いされて、めらびりおーぞ!とか言われて
>ました。^^;

そうなんですよねーー。ここでmeravigliosoって笑ってくれたら助かるんですが、これがなかなか伝わりにくくて。
ちょっとかわいそうな人っぽい扱いを受けることが多いです。
決して、無宗教とは違うんですけれどねぇ。
たぶん、下記のような答えを続けなかったからかもしれません。

↓↓↓↓↓↓

>でもちゃんと知りたい人にはその後、日本人が
>あんまり宗教にこだわらないのは、第二次世界
>大戦以前の天皇=神 って考えがあって、その神
>のために戦争で多くの人が命を落として、でも
>その後天皇の人間宣言なんかがあって、そんな
>経緯から盲目的に神を信じることには抵抗があ
>る みたいなことを話してます。

こういうことって、どう説明するかは人によるし、すごく難しい部分があって決して正解はないと思いますが、私もまさにこの通りの考え方です。
さらに、一方で、それでいいのだという気もしています。
現在世界で起こっている紛争のほとんどは、宗教が元であることが多く、同じ国民同士で殺しあっていたりするのはとっても悲しいことですものね。
どんな宗教も宗教を意識せず飲み込んでしまう。と言うのはある意味すごいなと。
こういうおおらかさは日本だけかと思ってましたが、もっと複雑に宗教が絡み合っている上に、それぞれの宗教に対して熱心な信徒であることが多い、マレーシアでは、互いの宗教を尊重する意識が高いという内容の番組をテレビで見て、相手と違う宗教だからと言って攻撃しないのは、アジア的なものなのかもしれない。と思うようになりました。
ただ、日本の場合、拘りのないことはいいことかもしれませんが、クリスチャンでもない人が十字架のネックレスをつけたりするのは、それが信者に対しての冒涜になるのではないか?と言うような意識も必要ではないかと思います。


>イタリアで教会の前とかに座って手出してる人
>居るじゃないですか、そういう人見ても私なん
>て、その時間があったらなんでもいいから働け
>や とか思っちゃうんですが(高齢の人や体が不
>自由な人はともかく、健康そうな若者とか特
>に)、イタリア人の友達はよくお金を入れてた
>んですよね。
>一度、なんであげるの?と聞いたら、貧しい人
>は助けるべき と教会で教わったから と。
>その時、なんというか、人間形成のベースに宗
>教があるんだなー と感じました。(それがいい
>とか悪いとかではなくて)

あぁーーーーーこれわかる。
欧米では、「寄付」が一つの文化となっていますよね。
金持ちとなった人は、そうする義務がある。ぐらいの・・・
日本ではたぶん、「施しを受けることは恥ずかしいことだ」と言う意識が強いのではないかと思います。
だから逆に、あげる時と言うと語弊がありますが、寄付行為に対しても、決して上から目線ではないんですよ。と寄付する側が申し訳なくなるようなそういう気持ちになるのかも。
一昨年、年末に児童養護施設にランドセルを送るのが一種のブームみたいになったことがあったのですが、みんななぜか匿名でした。

で、結局のところ、どっちも間違いではないと思うんですよ。
私もどっちかと言うと、「働け!!」って思うんですよね。(おっしゃるように高齢者や体の不自由な方は違いますが)
イタリアでは突然路上で寄付を求められることによく出会いますよね。それも動物虐待を防ぐ運動とか、政治的な活動であったりもしますて、さらには、食事をしているレストランにも入ってきますし、あれはどうにも理解できません。
で、たいていの場合、すごく高圧的ですよね。
寄付をしないお前は人間として失格だぐらいな。
あれはホント不愉快です。
それだけに、人に頼るんではなくて、寄付をしたいなら、自分が稼いでそのお金を寄付すればいいと。

でも、阪神大震災とか、東日本大震災と言う災害をこうむった後は、やはり持っている人は、「持っていたものを奪われた人」を助ける義務があると思うようになりました。
こういうとき、イタリアだと結構教会が主体となって寝る場所や食べ物の確保をしたりするのを見ると、宗教って強いなぁ。と思います。
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