空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」①

 

赤松大尉の「自決命令」から「軍の強制」への方針転換

 

  「ふざけたタイトルをつけつけるな!不謹慎だ!訂正しろ!謝罪しろ!」とお怒りの声もあるでしょうが、こう思った方は多分、集団自決は「悪行三昧の極みをしつくした」軍の強制によるもの、と断定しているのではありませんか?

 でも当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」②」を読んでいただいた方には理解して頂けると思いますが、2019年2月の時点でさえ「鉄の暴風」に記述された赤松大尉の文言は、誰も聞いていないんですよね。

 誰も聞いていないという事実と、赤松氏本人の「言っていない」という当事者の証言を突き合わせてみて、それを極々常識的に考えれば「自決命令はなかった」という答えも、必ずしも否定できないものであることは、特に論ずるまでもないと思います。

 

 それでは「自決命令はなかった」ということが結論であるならば、集団自決の実像解明において、そこで止まって何も進展していないのかといえば決してそうではなく、むしろ議論が活発になっているという状況にあると思います。

 

 ただし、その活発な議論にはどういうわけか「鉄の暴風」が含まれていないのです。具体的にいえば、あの赤松氏の文言については、わかりやすく言えば忘れ去られているような感じを受けるのです。いや、無視されているといっても過言ではないと思います。

 

 ではどのような活発な議論が展開されているかといえば、わかりやすくいえば「集団自決は軍の命令」そして「集団自決は軍の強制」によるもの、というスタンスに変わっていったということです。もっとわかりやすくすると、渡嘉敷島の集団自決は、

 

「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」

 

 といったかたちの流れになって現在へと続いているのです。
 一見すると「皆同じようなことじゃないか?」と思われる方がおられるかもしれません。ですがこの流れをよく見てみると、ある一定の法則が見えてきます。
 
 
 それは「具体的なもの」から「抽象的なもの」への変換です。あるいは「焦点が合ってるもの」から「焦点をぼかしたもの」または「小さな的」から「大きな的」へ、とでもいいましょうか。
 
 
 「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」というのは赤松大尉という「一個人」という具体的なものから、「軍」という抽象的なものへとシフトしました。これはわかりやすいですね。
 次に「命令」から「強制」へのシフトですが、集団自決における「命令」というのは基本的に発信と受信が明確であり、つまりは発信者と受信者が特定できるものですが、それが「強制」になった場合、発信と受信が明確な「命令」ではないのですから、必ずしも発信者と受信者を特定することはしなくてもいいことになります。ただし「強制」へのシフトはあくまで「命令」を基準にした場合です。そう考えると「命令」という具体的なものを基準にすれば「強制」は抽象的になってしまうということです。誰が発信して誰が受信したのかを特定しなくてもいいわけですから。
  もっとわかりやすくいえば「集団自決を命令」したのであるならば、必ず誰かしらの発信と受信というラインがあって、初めて成立するものであるのに対し、「集団自決を強制」では特定の発信と受信のラインがなくても、それなりに成立してしまうということになります。すなわち、具体的なものから抽象的なものへのシフトということになります。言葉遊びみたいになってしまいましたが、ご理解いただけたでしょうか。
 
 
 「具体的から抽象的にシフトしたからなんだというんだ?」という疑問をお持ちの方もいるとは思います。これは別の観点からみると、大変興味深い現象が起こります。
 
 「焦点が合ってるもの」から「焦点をぼかしたもの」または「小さな的」から「大きな的」へということを書きましたが、具体的から抽象的へシフトさせるという行為をしておいてから、適用範囲の拡大を創出させるという現象です。本来なら狭かった適用範囲を、恣意的に広くしてしまったということです。
 
 具体的なものから抽象的なものへシフトすることによって、ある事象の適用範囲を拡大することができるのです。
 
 これを別のわかりやすい例でいうと、いわゆる従軍慰安婦問題というものがあります。これも実は同じような現象が起こっておりまして、むしろこちらの方が早く出現しているのですが、要は「軍の強制」から「軍の強制性」「広義の強制」にシフトしていったということです。
 最初は軍の強制だという触れ込みだったのですが、実際は決定的な証拠というものが出てこなかったのです。それで次に出てきた論調・スタンスが「強制性」「広義の強制」であって、要は軍が強制したという証拠はないが「強制的」なことをしたということです。「強制はないかもしれないが、強制的なことがあったから日本に責任がある」ということですね。
 「強制性」というのはあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、これを「強制的」と言い直したほうが、抽象的になっていることを理解していただけると思います。また「広義の強制」の広義は「狭い意味での」に対する「広い意味での」ということですから、まさに適用範囲の拡大ではないでしょうか。
 ここでも具体的なものから抽象的なものへシフトすることによって、その適用範囲が拡大されています。
 
 
 このような現象が渡嘉敷の集団自決を考察する現段階でも起きているということです。
 
 適用範囲の拡大というものは、あくまで個人的な意見ではございますが、集団自決の実像解明を阻害する行為であるばかりでなく、歴史学という学術研究においても弊害ではないかと思っています。
 
 
 適用範囲の拡大をしている人には、いわゆる従軍慰安婦問題も同様なのですが、日本軍および日本の戦争責任を追及するという、大変わかりやすい共通点があります。従軍慰安婦で日本の責任を追及する人あるいは組織が、同時に集団自決で日本の責任を追及しているんですね。例えばテレビのニュース番組で従軍慰安婦問題や集団自決問題を取り上げた時、専門家として日本の責任を解説する人がいますよね。あれっていつも「この人しかいないの?」っていうぐらい同じ人なんです。特定の人物しか呼ばないマスメディアの姿勢にも問題がありそうですが、ここではそれ以上追求しません。
 
 ただし、戦争責任を追及すること自体が弊害というわけでは、決してございません。これは確実に理解していただきたいです。日本に戦争責任があるというならば、学術研究という立場からしてそれを追及することは、むしろ必要不可欠なことだと思います。これは皮肉でも何でもありません。戦争というものの実像を解明する一つのアプローチなのですから、弊害だと思うほうがおかしいのです。
 
 
 では何が弊害なのか、何が阻害するものなのかということですが、具体的なものから抽象的なものへのシフト、あるいは適用範囲の拡大をするその手法・手段にあると思っています。
 
 
 
 次回以降に続きます。

「挑まれる沖縄戦」という書籍のタイトルがあるのに、それについては全く触れませんでした。この章はそこに行くまでのプロローグだということを理解していただくとありがたいです。
 

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