空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」②

「日本軍は悪いことをした」という「信念」の弊害

 

 日本の戦争責任を追及する人たち、あるいは組織団体が「具体的なものから抽象的なものへシフト」させ、その「適用範囲を拡大」させているということを説明しました。そしてそれが弊害を生んでいるということも指摘しました。

 では一体、どのような弊害を生んでいるのでしょうか。

 戦争責任追及の根本にあるものをわかりやすくいえば、「日本軍は悪いことをした」ということになると思います。悪いことをしたからその責任を追及するんですよね。そういった「信念」を持っているのは間違いないと思います。

 日本の反戦団体や平和団体で活動している人たちとお話になったことはありませんか。仮に日本軍についての質問やその人たちの考えを聞いたら、必ず日本と日本軍の批判や非難を繰り返しますし、自分もそういう経験をしてきたことがあります。

  これは「信念」ですから絶対に揺るがないことでしょう。ただし、信念を貫くこと自体を批判する気はございませんので、そこは誤解をなさらないようにお願いします。

 しかしながら、その揺るがない信念を貫き通すはずが、何らかの作用によってその信念とは真逆の、あるいはその信念を否定するような事態がおこった場合、その人たちはどういった行動をとるのでしょうか。つまり「日本軍は悪いことをした」という信念あるいは考え方を、真っ向から否定されるようなことです。

  渡嘉敷島の集団自決において「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」とシフトしていったことを前述しました。仮に赤松大尉の自決命令が、誰もが納得できるようなゆるぎない事実であったなら、「軍の命令」→「軍の強制」という流れは絶対になかったでしょう。「日本軍は悪いことをした」という信念を完全に完璧に肯定し補完するものですから、そこで流れが止まるのです。

  しかし現実には当事者の発言を否定する証言と、当事者の「誰も聞いていない」といった証言や事実しかありません。「赤松大尉の自決命令」がなかったと主張されても、常識的に考えれば間違いであることを否定できません。つまり「日本軍は悪いことをした」という自らの信念が否定されてしまうわけです。

  そこで次に出てくるのが「軍の命令」です。赤松大尉の発した自決命令はないかもしれないが、複数の証言には軍からの命令があったのは事実だから、集団自決も「軍の命令」だった。つまり「日本軍は悪いことをした」という信念を肯定することができます。

  しかし、複数ある証言のなかに軍の命令があったのですが、「移動しろ」「集合しろ」というものばかり。肝心の自決命令を聞いた人の証言には、それが自決しろという命令かどうかもわからず、命令がどこから来たのかさえ当事者には不明だったという事実もあります。これについては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」②」に詳しく書きましたので、興味がおありになったのなら読んでいただくとありがたいです。

 これも「赤松大尉の自決命令」と同様、誰が言って誰が聞いたのか特定できない「軍の命令」なのですから、それがあったとは言い切れない状況です。命令はなかったと主張されても、それを覆すことができません。すなわち「日本軍は悪いことをした」という信念が崩されてしまうのです。

 そして最後に出てくるのが「軍の強制」になるわけです。誰かから誰かへという明確なラインがある命令と違って、強制であったならばそんな明確なものは必要ありません。軍が集団自決を強制させるような行為、あるいは彷彿とさせるような行為、またはそれを匂わせるような行為であれば、その全てが「強制」の範疇内になるわけですから、そういった行為をどんどん出していけばいいわけです。箱が大きければ大きいほど、物がいっぱい入ると同じ論理です。そう考えれば「強制」なんていくらでもありますよね。

 また「強制」というのは、つまり「自らの意思に反する」ということでもあります。裏を返せば「自らの意思に反する」行為なら、全てが「強制」にすることが可能となるわけです。
 例えば「徴兵制」というものがありますが、これも人によっては「自らの意思に反する」ものでしょう。そうでありますから、徴兵も「強制」であるといえることが可能になるわけであります。
 日常生活の中でもそれが「自らの意思に反する」ものであれば、たとえ「出勤」や「勉強」といった当たり前のようなことまでも、何の違和感もなく「強制」と位置付けることが可能となっていくのです。「やりたくないこと」を「やらされれば」、それは全て「強制」されたといえるのです。
 要は何でも「強制と言い換えられる」ことが、それこそ無限に現出してくるというわけです。

 これで「日本軍は悪いことをした」という自らのゆるぎない信念は、誰からも否定されなくなるわけではありませんが、されにくくなるということになります。もし否定されそうになったら、数ある「強制」という証拠を逐次投入すればいいだけです。

 「強制」を基準点にするならば個人的には同意できませんが、彼らの「日本軍は悪いことをした」という主張(信念)は決して間違いではないのです。

  これで具体的なものから抽象的なものにシフトさせ適用範囲を拡大する行為が、どういった内容なのかがお分かりいただけたでしょうか。

  次は上記の行為がもたらす影響はどういうものなのでしょうか。

  原因には必ず結果があります。厳密にいえば原因と結果の間には過程(プロセス)もあり、これに関していえば特に議論の余地はないと思います。

 原因→過程・プロセス→結果といった一連の流れを「集団自決の考察」に当てはめてみますと、集団自決の発生(原因)→実像解明(過程)→結果となります。当然、実像解明という過程によって結果は変わってくるものでありますから、解明されていない場合は結果を決定することができません。

  しかし仮に結果が最初に固定された場合、言い換えれば、結果が先に決まっていたらどうなるでしょうか。原因があって過程があって初めて結果へと到達できるのに、最初から結果が決まっていたらどうなるでしょうか。本来ならありえないことなのですが、実は集団自決の考察において、残念ながら起きていることなのです。

  その結果とは戦争責任の追及、つまり「日本軍は悪いことをした」ということです。この場合、結果というより前述した信念と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。あるいは「日本軍は悪いことをした」という前提条件がある、ともいえるのではないでしょうか。

  集団自決の発生(原因)→実像解明(過程)→「日本軍は悪いことをした」(結果)ということになります。

 結果が最初から決まっているのであれば、当然のごとく過程も決まっていなければなりません。そうしないと結果へ到達できませんから。この場合は「日本軍が悪いことをした」という結果に合致するような過程、つまり悪いことをしたという証拠を提示することです。

 そういうことであるならば、一番都合のいい証拠というのは「赤松大尉の自決命令」なのですが、再三指摘しているように自決命令は疑わしい証拠ですし、なかったという可能性が限りなく高いです。従って自らが決定した結果を否定するものですから、「過程」に組み込むことができないのです。

  「赤松大尉の自決命令」では結果(日本軍は悪いことをした)に合致する過程(自決命令があった)がないので、「個人」という具体的なものから、「軍」という抽象的なものへとシフトさせました。個人がダメなら軍ならどうだ、みたいな感じですね。

  「軍の命令」も「赤松大尉の自決命令」とほぼ同じ理由で組み込めみそうにありません。 

 「軍の命令」でも結果(日本軍は悪いことをした)に合致する過程(軍の命令があった)がないので、先ほどと同じように「命令」という具体的なものから、「強制」という抽象的なものへとシフトさせていきます。命令がダメなら強制ならどうだ、みたいな感じですね。

 そして最後に組み込んだのが「軍の強制」ということになります。これならば「日本軍は悪いことをした」という結果へ、何の違和感もなくつなげることができるのです。

  また、この一連の作業をよくよくみてみますと、ある一定の法則が見え隠れします。

 それは最初から決まっている結果のために、恣意的に証拠を取捨選択しているということです。もっと具体的にいうならば、自らが決めた結果のため、都合のいい証拠だけを集めて採用しているということです。

 あるいは「日本軍は悪いことをした」のだから、「悪いことをしていなければならない」とでもいいましょうか。

 その「悪いことをしていなければならない」証拠を見つけるための手段が、具体的なものから抽象的なものへシフトさせ、適用範囲の拡大という行為をおこなうということです。そこまでしなければ主張の正当性を維持できない、ともいえますね。

  自らの主張・考え方を正当化するための具体的な行為・手法がシフトと適用範囲の拡大というわけですが、その作業をした結果、同時進行で恣意的に証拠の取捨選択を行っているのです。

 つまり赤松大尉の自決命令という資料は捨てられ、「強制」を補完するような資料を選ぶ、ということです。その根底には「自決命令はないが、日本軍は悪いことをしたのだから、何か他の証拠が絶対にあるはずだ」というものもあるのではないでしょうか。

  赤松大尉の自決命令は無視されいると先述しましたが、これは彼らにとって都合の悪い証拠だと理解していただけたかと思います。それゆえに自らが決めた結果にそぐわないから現在も無視され、そして排除され続けているのです。 

 

 したがって、資料の恣意的な取捨選択こそが弊害だと指摘いたします。

 

 自らの主張(信念)する結果に合致するような証拠がないから、恣意的に具体的なものから抽象的なものへとシフトさせ、適用範囲を拡大させて合致させるように導いておいてから、自ら設定した「日本軍は悪いことをした」という結果を正当化しているとしか思えないのです。

 「日本軍は悪いことをした」という信念があると前述しました。こうしてみると、その信念を貫きたいがために、意図的だったらもちろんのこと、信念がゆえに無意識で資料の恣意的な選択をしているのではないかと、そう思えてならないのです。

  ただし、信念を貫くことを批判しているのではありません。その頑な思いが、時には弊害になってしまうということを強調したいのです。

 理由はどうあれ自らの考えの正当性を主張したいがために、その主張に都合のいいような資料ばかり集めている行為は、誰が考えても不適切だとは思いませんか。

 無益な論争に終始するのではないでしょうか。本来なら固定されるべき的を好き勝手に、時にはずらし時には大きくしているようなものですから。

  自分の個人的な意見を長々と書きましたが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?

  

追伸

 「日本軍は悪いことをした」ということを批判の対象にしましたが、かといって「日本軍は素晴らしかった」などという、安直な訴えをするアホみたいな考えはございません。戦争のない平和な現在においても普通に人殺しがいるのに、人殺しが合法的に行われている戦争で悪い奴がいなかったなんて絶対にありえませんから…という個人的見解を付記しておきます。

 

 

次回以降へ続きます。


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