個人的に気になる点 その1
前回は「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」へとシフトした「瞬間」について書きました。
今回は先述した兵事主任の証言について個人的に気になる点、具体的には腑に落ちない点について説明したいと思います。まずはわかりやすいように再び引用します。
「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」
すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」1988年6月16日付『朝日新聞』(夕刊)より引用。
個人的に気になる点は二つあります。
- どうして米軍が上陸するのを予知できたのか?
- それは「命令」なのか「訓示」なのか「指示」なのか?
どうして米軍が上陸するのを予知できたのか?についてですが、他の文献にも指摘されていることでもあり、基本的にその文献等を支持します。わかりやすく説明すれば、その当時は想定外だった地上戦なのに、なぜ地上戦の準備をしていたのか、というのが骨子であります。
そもそも慶良間諸島に海上挺身戦隊が配備された理由というのは、沖縄本島へ上陸する米軍に対しての攻撃であります。もっとも上陸した地上部隊を攻撃するのではなく、上陸部隊を支援する艦船への攻撃になります。従って米軍が沖縄本島に上陸する、あるいはしようとしているのが前提でありますから、慶良間諸島はその次になるわけです。
渡嘉敷島を含む慶良間諸島からすれば、まず本島への攻撃が始まって、いつかはわからないが、その次に慶良間諸島を攻めるのではないか、という認識が少なくとも現地軍である第三十二軍にはあったのです。むしろあったがゆえの結果として、各海上挺身戦隊は慶良間諸島に配備されたということです。
日本軍の具体的な配備・作戦等は省略いたしますので、ご興味のある方は参考文献等でお調べください。
しかし現実にはそうなりませんでした。米軍は沖縄本島よりも先に慶良間諸島を攻撃します。ちなみに兵事主任の証言では3月20日ごろということですが、24日に米軍の空襲が始まり、27日に上陸作戦が展開されます。
結果的に予想外の展開になった渡嘉敷島ですが、大小さまざまな敵の艦船が集結した後に決行される作戦の性質上、実際に出撃する現地部隊のほうが、その認識度は高かった可能性があります。
従って地上戦闘は二次的なもの、あるいは地上戦の準備は優先順位が低かったともいえる状況でした。それにもかかわらず、なぜ米軍の攻撃を「予知」したような、手榴弾を配布するような行為がなされたか、そしてその後に起こる集団自決を「予知」していたような「自決せよ」という「命令」がなされたのか、という疑問がわくのも当然だと思います。
そういう高い認識度があったならば、この証言には信ぴょう性がないかといえば、必ずしも断定することができないと思います。
例えばあくまでも仮定ではありますが、この集合が「訓練」あるいは「軍事教練」の一環だったらどうなるでしょう。
勿論、兵事主任の証言には訓練や軍事教練といたものが、特に明記されているわけではありません。
しかしながら、地上戦は想定外、あるいは優先順位が低いといった認識度が高く、かつ兵事主任の証言に間違いがないのであれば、この役場前の集合というものが来るべき地上戦に備えた、軍事教練といった訓練だったのではないかという推測もできるのです。上記の証言時ではありませんが、そういった訓練をしたという証言もあり、渡嘉敷島のみならず沖縄県全体、いや日本全体で行われていたことも考え合わせれば、特に違和感はないと思われます。
そうであるならば、少年たちに手榴弾を配っていることに説得力も追加されるのです。そういう経緯で兵器軍曹が「自決せよ」と言っても整合性がないとは言い切れないという推測も成立するのです。
くどいようですが、兵事主任の証言には訓練だということは一切明記されていません。それでも「地上戦はない」といった認識度が高かったという事象、もっとわかりやすく言えば、高い認識度があるにもかかわらず、ということと、手榴弾を配布したという二つの事実に辻褄を合わせようとした場合、上記の仮説も成立するのではないかということです。
ただし、訓練ではないかという「発見」を自慢する気はまったくございません。二つの事象を検証してみると、別の仮説や推測が成立するということを強調します、ということを是非ご理解頂きたいだけです。
推測の文字ばかり並んでしまった感もありますが、再三指摘したとおり兵事主任の証言を相互参照・相互補完できる資料が一切ありませんので、これ以上の考察は無理と判断いたしました。
どっちつかずの状態だという疑問、あるいは腑に落ちない点を掲示しましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。
次回以降に続きます。
参考文献
防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968年)
八原博通『沖縄決戦』(読売新聞社 1972年)
秦郁彦『現代史の虚実』(文藝春秋 2008年)