空と無と仮と

1990年代の沖縄旅行 「白梅」戦跡巡り⑥ 漆黒のガラビ壕①







 兵士たちの自決 仲地政子(旧姓・崎間)

 じめじめと梅雨が降り続いている頃、急速に増えた戦傷者の処置を、軍医を始め衛生兵や看護婦、近所の集落から借り集められた女子義勇隊、防衛隊等で、昼夜を分かたぬ奮闘が続けられていました。一日に何十人と送られて来る患者の数。目まぐるしい忙しさ。どんなに頑張っても力を尽くしても、人のやり得る仕事の量には限界があります。病院(新城分院即ちヌヌマチガマ・ガラビガマのこと──引用者注)に来て一回目の治療を受けたっきりで、病室に放り込まれた多数の患者。負傷者の呻き声。

(中略)

 やがて三度のご飯を配るのさえ精一杯になりました。身動きのできない重傷患者は、寝かされたまま死んだように動きません。「ご飯を下さい」と叫ぶ気力もなく、薄暗い中で誰にも気付かれずに忘れられたまま冷たくなった人々。おや、ここにも誰か負傷兵が寝ている。ふと気づき「兵隊さん、兵隊さん」と声をかけても返事がありません。「看護婦さん、隣の奴どうも変ですよ。先刻まで水をくれとか呻いたりしていたが、いやにおとなしくなっていますよ。ちょっと見てやって下さい」という声に灯りを照らして見ると、藁のなかに苦悶の様相で既にこときれている始末。家を出るとき歓呼の声に送られて華々しく出発して来た人たちのこれが哀れな最期でした。

(中略)

 だんだん情勢が悪くなり、もう近くの前川という集落まで米軍は進出してきているとの話です。遂に病院閉鎖が決まりました。歩ける者には退院を命じ、どうしても動けぬ者は青酸カリで自決。前の晩(6月2日頃と思われる──引用者注)、軍曹ら二~三人の人たちが、青酸カリの粉とブドウ糖の粉を混合したものを一服ずつこしらえていました。皆黙ってただ手を機械的に動かしつつ、これからどうなるかどうするとか少しも気にならず、無神経にただ黙々とこの恐ろしい毒薬を包んでいるのです。唐突に一人の兵士がカラカラと馬鹿笑いを始め、皆の気持ちを引き立てようと試みました。
 翌朝、全員にその旨を告げ、居残りの患者に薬を配りました。死を控えた人たちの態度、何ら取り乱した所もなく、もう諦めきったように平静を装っているようでした。しかし、心中はどんなにもがき苦しんでいたのでしょうか。いろいろと故郷のこと、肉親のことなど、死を目前に迫られた人たちの気持ちを思うと、私はいたたまれなくなってしまったのでした。

(中略)

 やがて、一人ずつ薬を飲ませ、飲めぬ者には注射を打ったのでした。「上野駅から九段まで…」小さかった声がだんだん高くなり、とうとういたたまれず外へ飛び出した私は声をあげて泣いてしまいました。「万歳!」という叫び声。「パーン」と銃声一発。将校の患者が自決したのです。
 しばらくして再び病院へ足を運ぶと、すでに呼吸困難を始めている人、目をうつろに天井に向けている人、刻一刻と迫る死をこんなにも静かに待っている人たち。神に近い崇高さが漂っているのでした。

白梅同窓会編 『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』 
(クリエイティブ21、2000年)

 
まずはヌヌマチガマ・ガラビガマで何があったかについて、
「元白梅隊員」の手記を引用させていただきました。

次回以降に続きます。

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