ODORAMOX!

BABA庵から  釣り糸なんぞが ごちゃごちゃ こんがらかった状態を ここでは「オドラモクス」と言う。

あてがりぃ 

2010-04-09 17:39:20 | 言語の表現
「いいかげんな」ことを島で「あてがりぃ」という。
とても気楽にさせてくれる響きが好きだけど……

「一所」が「一生」に、「碍さまたげ」が「害」に 

 「いっしょけんめい」を「一生懸命」と書くのが一般的になってしまった。 中国人向けの日本語教材をつくるとき「いっしょうけんめい(一生懸命)」という原稿にあたると「中国人はどう受け取るのだろうか」と、恥ずかしいきもちを抑えきれないが、決まりがあるからしかたない。
 YiSuoXianMing 一所懸命 
 もとは中国語である「ひとつところに打ち込む」四字句を、日本人は「いっしょうけんめい」と「う」をいれて発音しながら、「一所」を「一生」にしてしまった。
 こういう誤りを発生させ、しかも一般的になってくると、臆面もなく「標準表記」に繰りこんでしまう、それは、おろかな官僚や学者のせいというよりも、日本文化の性(さが)のような気がしてきた。

 「いっしょうけんめい」と言うのはいい、それなら「いっしょう懸命」でもいいから、ひらがな(音声)で表記するべきなのだ。
 それなのに、漢字を使いたくて、「一生、命をかける」(「一生、命がけで~をする」ではない)などと、変な四字句を作り出すなど、もとより誇れる性ではない。文化の内容をどんどん粗略に、どんどん即物的にしていく性だと思う。

 「碍さまたげ」が「害」に

 みっともないではすまない問題も生じる。

 「障碍」を「障害」と表記して、障碍(がい)者にはばかることなく強要する常用漢字表の制定など、誤用の普遍化に追随し「まあ、いいじゃないか」と居直りながら、差別の助長、排外的ふるまいの許容へとつながっていく。
 「傷害」は人を傷つけ害をおよぼす。このもとの中国語は「傷害」。
 しかし「妨害」の中国語(原語)は「妨碍」である。呉音なら「ゲ」で「むげに断る」の「無碍」、でも「害」の呉音は「ガイ」。
 「碍」を使えなくして、かわりに「害」をあてるなど、いいかげんも極まると「害」になる。
 「碍」は妨げるものであって「害」とはなんら関わらないのに、音が同じであるだけで、障「害」者にされてしまう。「がい」の音を表記するなら「外」も「貝」もあるのになぜ「害」なのか、そこにある差別意識を公的に認定する常用漢字表は、憲法違反だと思っている。
(電柱の「碍子がいし」は「害子」にならないのに)

 ある語彙や表現を使いたいと、その背景や一般性を調べるのに、辞書に代わってインタネットが優勢になってしまった。その結果がどうなっていくだろうか。インタネットは事象の収集にすぎない。データの収集から、それぞれの分析、過去にさかのぼる調査・研究を経て編纂される事典(辞典:ネットの辞典・事典を含む)とは異なるものだ。「この語彙は***万件のヒットがありますから、だいじょうぶです」という、検証のないその思考は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし・きよし)と同じであり、赤信号の目的を臆面もなく消してしまう。
 どんな政治であろうと、どんな悪逆であろうと、みんながそうならと従っていき、そして波が過ぎれば「時代だからしかたなかった」と恥じらいもなく生き、外部から批判されれば「大和魂」とか「サムライ」をもちだして居直る・・・・・・それが日本文化なのかもしれない。