ODORAMOX!

BABA庵から  釣り糸なんぞが ごちゃごちゃ こんがらかった状態を ここでは「オドラモクス」と言う。

上海のちょっといい人たち(5)

2009-02-21 10:11:39 | 雑感
 友だちと食事をして帰ろうとしたら雨。たいした雨ではなく歩いて帰ろうとしたが、駅に傘売りさんたちが出ていたので買いに寄る。
「これいくら?」と安そうな一本を指差したのに「これがいいよ!」といちばん高そうな傘を取り出して見せるお兄さん。
「いくら?」「85元」、「高すぎる!」「見て、すごくいいものだから」
と傘を開いてプラスチックの骨をピンピンとはじいて見せる。
「いいものだとは思うけど、高すぎ!」
「じゃあ、80元」
「じょうだんじゃない」
「いくらなら買う?」
「こっちにある折りたたみ傘は前に10元で買ったわよ」
「・・・(明らかに失望している)50元にしとく」
「・・・そっちの小さいほうでいいわ」
「いや、見てよ、ほんとにいい傘だから。ね、いくらなら買うの?」
「うーん、30元ってところじゃない?」
「ごじょうだんを!」
「いいわ、いらない。近いから濡れたって大したことない」
「待って、待って。45元でどう?」
「30元よ」
「しかたないなあ、40元!」
「35元」
「負けた」
 傘を受け取って歩き始めたら、すぐに男の人が寄ってきた。
「いくらで買ったの?」同業者のリサーチである。
 アパートの警備員に傘を見せて値踏みをしてもらった。
「ま、20元だな」
         
 写真はホテルオークラ近くの「弄」。日本語では横丁とか長屋とか小路・・・いろいろですが、北京では「胡同」といいます。昔はフランス租界だった地域の「弄」は、小さな庭もついた高級アパートです。






田子坊

2009-02-15 15:43:28 | 雑感
 近年「中国のSOHO」と紹介されて有名になった田子坊まで、アパートから徒歩10分です。雑誌などで見た洒落た店やギャラリーが並ぶイメージとはちょっと違っていて、気に入ってしまいました。いかにも新鮮な芸術的雰囲気をかもし出そうとしている店の上を見るとパンツが干してあったり、なんとなく猥雑な小路です。おもしろい店がぎっしりで、すくなくとも半日は楽しめます。
 若い兵士の男女の絵に「革命無罪、泡姐有理」という標語のバッジがありました。「泡姐」は娼婦のような意味だそうですが、なんとなく田子坊の粋を感じました。
 田子坊入口のひとつです。 →クリック  


上海のちょっといい人たち(4)

2009-02-15 15:16:36 | 花鳥風月
バレンタインデー  「情人節」の商売、中国は花屋さんが勝っています。
 男性が恋する女性にバラを贈る習慣を作り出しました。チョコレート屋さんも負けじと「情人節」を謳っていますが「日本の習慣なの?へぇー」という反応でした。
 前日13日の金曜日はオフィスビルの中をバラの花束を抱えた配達人が駆け回っていました。「義理バラ」というところでしょうか。

 人民公園の出口にあるファストフード店「東方既白」は康徳基(ケンタッキー)グループですが、明るい店内とメニューおよび値段の安さで、太極拳の帰りは朝食に寄ります。「毎日変わる口味」とすこしずつメニューが変わります。揚げパン入りの粥だと思って食べ始めたら、揚げパンでなく厚揚げ、粥でなく春雨ヌードルでした。それで揚げパンを追加注文に行ったら並んでいる男性の足元に50元札がおちていたので「落としましたよ」と教えてあげたのですが、彼は札を拾いながら「ぼくのじゃないよ」とレジの女性に差し出しています。
 レジの女性は札をライトにかざしてしっかり鑑定してから、何か言いながら男性に札を戻し、男性は入口のほうに向かっていきました。外にいる交通整理のお巡りさんに届けにいくのかと思ったら、入口脇のお客さんに50元札を渡しています。その人が落としたのでした。
 レジの女の子は前のお客さんを覚えていて、しかもどの席に行ったかも見ていたわけです。
 でも、お客さんに持っていかせるなんてところ「きちっと解決すれば方法は何でもいいじゃないか」という合理主義に、へんに納得してしまいました。「お客様は神様」なんて対応じゃなくたって、きっちりサービスできるのです。

「ツバルについて」武田邦彦

2009-02-08 10:50:52 | 世の中
ぜんぶ引用です。

ツバルは泣いている・・・“ツバル”で子供に教えること 

今から400年も前のことだ。 それまでサンゴ礁にはマングローブの木が茂り、その上に家を建てて人々は生活をしていた.

地上の楽園、自然の中の人・・・それがツバルだった。 月に何日か来る大潮の時にはすっかり島は海の下になったけれど、それはそれで自然だった.

そんなツバルに異変が起こったのは16世紀。スペイン船がはるか沖にその姿を見せたときだ。 それからというもの,突然、夜になるとスペイン兵がツバルを襲い、住民を奴隷として拉致する。

それは悲惨なものだった.泣き叫ぶ家族、そんな中を容赦なく一家の働き手を奪っていくスペイン兵・・・そんなことが300年も続いた.

自然は一ヶ月に数日,ツバルの大地を水で覆うだけだったが,どう猛な人間は幸福な生活を根底から破壊したのだ.その理由はただ一つ,「奴隷を持てば,俺は楽になる」と言うことだけだった.

やがて,主役は交代し,スペインの衰退とともにイギリス軍が進駐、ツバルを植民地にする。今度は合理的にツバルの富を奪い始めた.

そしてさらに20世紀の中盤になると、主役は日本軍からアメリカ軍へと代わり、ブルドーザーがうなって1500メートルの滑走路を作り、その盛り土で周辺のサンゴはすべて死滅した。

しばらくは、サンゴの死骸でできた滑走路からアメリカ軍のグラマン戦闘機が北西の方向に飛び立っていたが,それも1945年8月には終わり、ほんの数年,ツバルは静かになったように見えた.アメリカが信託統治を始めた頃だった.

しかし,それも長くは続かない.やがて,アメリカは「自分の国で原爆や水爆の実験をやりたくない.他の国でやれば俺たちは被爆しない」という論理で、ツバルの近く、マーシャル諸島で67回もの原水爆実験を繰り返したのだ.

日本では第5福竜丸が被爆したが,ツバルの近海では多くの人たちが被爆し,死んでいった.日本を始め先進国は自分の国のことだけを考えて手をこまねいていた。今の日本ではそんな残虐行為をしたアメリカを尊敬している人すらいる。

そして,1979年,ツバルは独立し、自分たちの国土と人生を自分たちの意志で決めるようになった.スペイン船の襲来から実に400年を経ていた.

さらに,今,ツバルはあのアメリカ軍の「盛りサンゴ」が崩れ,大潮の時には島全体が沈みつつある。これこそかつてのツバルであり、400年前に戻りつつあるのだ.ツバルにとって「沈む島」は彼らの祖先の土地への復帰なのだ。

・・・・・・

もし日本の子供にツバルを教えるなら,3つのウソ・・・「南極が温暖化し,氷が融け、海水面があがり,」と言うのではなく、海水面は変化がないのだから,1つの真実を教えればよい。

「ツバルの人たちは,400年間,奴隷になり,戦争で国土を破壊され、原水爆実験の下で苦しみ、今,やっと国土がかつてのように水没するようになってきた. だから,水没は問題では無いが,私たち先進国はこの400年のツバルの人たちの苦しみを償えるだろうか?」

日本人,アジアの一員として,ツバル問題というのは,上がってもいない海水面のウソをつくことではない.白人が400年間,やってきたことをそのまま認め、国際世論を作ることだ.それはCO2を減らすことではないのは明らかである.

(平成21年1月31日 執筆) 武田邦彦 


水海山をとおして見えてくる「環境問題」は、硬直化した行政を利用して税金を吸収していく大企業が、自然と生活をやすやすと破壊していく姿です。

* 引用した中で「主役は日本軍から」とちょこっと触れるだけなのが気になります。武田邦彦氏が述べる現代史(たとえば南京虐殺)については事実と矛盾するところがあると思っています。



生産指数と幸福指数

2009-02-07 11:48:48 | 世の中
ヒマラヤ山脈の「ブータン」は、その響きから小学校の授業でみんな笑って口にしたことが第一印象の国。70年代ころか「みんなが世界一豊かに暮らしている国」というレポートを読んで、行ってみたいと思っていた国だが、最近わりとマスコミに登場する。高級リゾートのアマングループが5か所にホテルを建てたせいだろうか。

立憲君主制でも、王様が治めている。
国にひとつだけあった道路の信号は、「醜い」と王様が述べた感想で、撤去されたというほどで、日本から見たら絶対王政ともいえるような国である。

しかし、幸せに住めるか豊かに暮らせるかということが、
民主主義だとか、社会主義だとかいう、国の体制で決まるのだろうかと、
ブータンを知ってつくづく疑問になった。
キューバと同じく、教育と医療は無料で受けられる。

ブータンの王様の発言
「われわれが基にするのはGNPではなく、GNHだ。
Hとはhappiness。つまり国民総生産ではなく、国民総幸福である。」
は、キューバの「国民一人一人が120歳まで健康に生きる国」
という目標と共通している。

独裁国家であっても、ひとりひとりが大切にされる国家なら、
どんな<民主主義>国家にもまさると思う。

勝手な推論だが、もしチベットが独立していたら、ブータンのような国家になっていたかもしれない。
信仰と祭りごと(政治)と生活が、いっさいの虚構なく、一致していることが鍵のように思う。
韓国の人が評した「虚構の国、日本」ということばを思い出す。




上海のちょっといい人たち(3)

2009-02-07 11:48:30 | できごと
<勝手につけた名前は武術小路:道場ありショップあり風呂屋ありの里弄です>

上海へ行った時の楽しみは朝の太極拳。平日は近くにある公園で、休日は地下鉄で人民広場まで教わりに出かけます。
ばらばらと集まってくる方たちはさまざまですが、だんだん顔なじみになってきました。
帰り道が同じ方向だったおじ様が初めて話しかけてくださいました。
「どこに泊まっているのか」
「■■です、地下鉄で帰ります」
「そこならバスが行くよ、地下鉄は50円だけど、バスなら30円だ」
「はあ・・・でもぅ」
「△番のバスで、●●で降りるんだ」
「えぇ・・・」(●●が聴き取れないわたし)
「あそこがバス停」
と手を取って引っ張って停留所まで連れていってくださいます。
「来た来た、何本もとおっているから便利だよ」
そして、バスの運転手さんに「●●で降ろしてやって」と叫んでくれました。
女性の運転手さんから「この次ですよ」と教えられて降りたところは、
見覚えのない通りです。
京都のように道路は直角に交差していますから、
方角が定まればまちがわずに歩いていけるので、
道を聞きながらアパートの方向めざして歩きました。
歩くといろいろ発見があります。
30分ほど歩いたところでサンジェルマンみたいなパン屋さんを見つけ、
おいしいコーヒーで思いがけない朝食もできました。
けっきょく、あと40分は歩かなければならないことがわかり、
タクシーで帰りました。

喫茶店で:暖かな日差しにベンチでくつろぎたいところですが外は零下3度です

去年の秋ですが朝食の一例。近所の果物やさんで買った竜眼とみかん、豆乳と粥と揚げパン