食と世界

食と世界についての雑記 菜食・断食の勧め

イスラム教は悪か

2012-08-15 02:30:43 | 焚書/解体


欧州とアジアの間に現れた、強勢を誇る軍営の宗教が無かった場合の世界を考えてみたい。




産業革命以降、中世の支配者・オスマン帝国も領土を蚕食される一方となり武器性能が飛躍的に向上した欧州世界が広く全地球を植民地・半植民地化していった。

近代のこの例から判断しても
差別・弱肉強食の原理で動く百獣の王を脅かすライバルがいなければ、世界各地がより広範に引っ掻き回されたであろう推測は容易だ。生まれる場所が悪ければ私達も白人様に砂糖・タバコを献上するためだけに無賃金で酷使され人生を終えていたかもしれない。
キリシタン狩りをしていなければ今ごろ日本はスペインの植民地だった - 朝鮮歴史館


その先にもはや白人支配を阻む何物も存在しないと思われた時代、日本がロシアを破る激勝の報にアフリカ・イスラム世界は歓喜に沸き返ることになる。



アジア侵略に起因する戦後世界の一斉独立




悪者呼ばわりされてはいても私達は平等・共生の世界という理想を掲げた日本の先人の心を忘れる事はできない。そして特定の宗教のみを導くアンフェアな神を描く新約聖書の病理を暴き出す事が、痛みの時代の真の回顧になる気がしている。














ユダヤ人迫害史(14-19世紀)
●1306年 フランスのフィリップ王、ユダヤ人を国内から追放。
●1321年 フランスのギエンヌ州で、井戸に毒を投げ込んだと拷問を受けたユダヤ人が告白したため、5000人のユダヤ人が火刑となった。
●1348年 ユダヤ人がペストをばらまく犯人だとされ、ヨーロッパ各地でユダヤ人の虐殺が起きる。
●1394年 フランスで第2回ユダヤ人追放。
●1421年 オーストリアからユダヤ人追放。
●1478年 スペインでユダヤ人に対する異端審問が始まる。
●1492年 キリスト教徒がレコンキスタ(スペイン再征服)を成功させると、スペインで徹底的なユダヤ人追放政策がとられる。
●1495年 リトアニアからユダヤ人追放。
●1497年 シシリー、サルジニア、ポルトガルからユダヤ人追放。
●1544年 宗教改革者マルチン・ルター、ユダヤ人を攻撃。
●1554年 「ユダヤ人集団隔離居住区 (ゲットー)」がヴェネチアに初めて設置される。
●1569年 ローマ教皇、教皇領からユダヤ人を追放。
●1648年 ポーランドでユダヤ人10万人が虐殺される(~1656年)。
●1727・
1747年
ロシアからユダヤ人追放。
●1839年 オスマン・トルコ帝国、ユダヤ人に市民権を与える。
●1881年 ロシアで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に発生。ユダヤ人十数万人が犠牲になる。


7世紀にエルサレムを征服したカリフ・ウマルはユダヤ教徒・キリスト教徒を庇護民(ズィンミー)に置いた(ウマル憲章)。現世界が
アラブ(イスラム)vsイスラエル(ユダヤ)に見えたとしても、両者が20世紀までミッレトの下摩擦の無い世界で共存共栄を果たしてきた事は忘れてはいけないと思う。紀元前に既に"神とはユダヤ人だけの神ではない"事を思い知っているユダヤ人が独善的に国家を建てる訳がない事実も。


オスマン帝国が欧州に向かって領土を拡大するなど社会の恥部・世界の恥部に厳しいイスラム圏の有益な怒りがいかに異教信仰を壊滅させる暴風雨を消霧させたかの比較宗教の視点に立つならば、日本人にとっては未だ"訳の分からない"中東の宗教に対する理解は立体的に膨らんでくれるだろう。

「われらはただ全世界への慈悲として、汝を遣わしただけである。」(コーラン21:107
画像借用元: Ricochet.com











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イスラム教対キリスト教

2012-08-04 00:55:35 | 焚書/解体


マホメットの十数年間の忍耐が実り始めていた頃、イスラム教の成長と共に
メッカのクライシュ族の反発が強まっていた。身の危険を感じたマホメットは
622716日、メッカの北部320kmにあるメディナに避難する。 (ヒジュラ: 聖遷

その後隊商路の封鎖措置で飢餓の脅威に直面したマホメットは幾度か隊商の略奪を企て、メッカ側の怒りは沸点へ。イスラム暦(ヒジュラ暦)二年、遂に武装したクライシュ族一千人がメディナに向かって進軍を始めた。

*以下緑字『マホメットの生涯』(ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和男訳 河出書房新社)、白抜きは『燃えるイスラム史』から転載


バドルの戦い(624年)

「ムハンマドはついに戦いの決意を固めます。
メディナは貧しかった事からアラブ伝統の騎兵隊は組まれませんでしたが、その士気は異様なまでに高揚していました。
メディナ軍は70頭のラクダ部隊、300余名の歩兵部隊です。

ジャフル率いる完全武装の1000もの戦士が組織されメッカを発ちました。
両軍はバドルにて対峙しようとしていたのです」

イスラム教最初の武力的勝利

アラブ恒例の一騎討ちにアリー、ハムザが勝利し作戦と士気に勝るイスラム軍が奮闘する。メッカ側はそれぞれ約
70名の戦死者と捕虜を出し敗走、ムスリム側の死者は14名に過ぎなかった。ハディースその他の伝承はこの圧勝に天使による加勢を伝えている。

死体を略奪しようと砂丘に身を隠していた二人の戦場荒らしは、天から雲が地に降りるのを目撃した。「砂丘にいたのですが、雲が俺たちに近付いてきたのです。馬のいななきも聞こえました。その上、突撃!という叫び声も耳にしたんだ」
雲から、武装した天使たちが降り立つ。ある者は馬にまたがり、また徒歩の天使もいた。鮮やかな羽飾りの冑をかぶり、天使の軍勢が天から降り立つのを見て、泥棒の一人は感動のあまり悶死する。
目撃者によれば、天上軍の数は五千程とのことだが、正確ではない。敵に見られることなく異教徒を斃すため
天使の中には姿を現さない者もいたからだ。

ウフドの戦い(625年)

翌年、約三千人からなるメッカ軍が再来。ウフド山に迎え撃ったムスリム軍は優位に戦闘を進めるも、弓兵隊の命令違反から背後を突かれ壊走。ハムザを含む約70名の戦死者を出し、敗北を喫した。メッカ側の死者は22名。

ハンダクの戦い(627年)

メッカ側は次いでムスリム根絶を目指しアラビアの諸侯、ユダヤ教徒を加えた一万人の大軍と共に出陣。三千人のイスラム軍はペルシャ人技術者サルマーンの提言を採り入れ塹壕(ハンダク)を築いて対抗した。

メッカ軍はアラビアの戦争において前例のない塹壕を攻略できず、6名の敵を倒しただけで撤退。この戦いでメッカの権威は失墜しイスラム教の勢力は日増しに拡大していった。



メッカ征服(630年)

クライシュ族との間で締結されたフダイビーヤの休戦協定が破棄された630年、マホメットはメッカに向かって進軍を開始。クライシュ族は抗戦不可能と見て遂に軍門に下りメッカは無血で征服された。マホメットはカーバ神殿の偶像を破壊、群雄割拠の半島にアラビアの部族を熱烈な精神で鼓舞し一致させる新秩序を吹き入れる事となる。




「われは、次々に来る一千の天使で汝らを助けるであろう」(コーラン8:9

「アッラーは多くの戦場で、またフナインの戦いの日にも汝らを助け給うた。
その後アッラーは使徒と信徒たちに平常心を授け、また汝らの目に見えない援軍(天使)を遣わされ、不信仰の輩を罰し給うた。これこそ
不信仰の輩への応報なのである」(コーラン9:25-26

イスラム教の大征服(
632年~)
預言者の死後、イスラム教は2代目カリフ・ウマルの時代にシリア、トルコ、イラク、イラン、エジプトにまで侵攻、戦いはいずれも連戦連勝であった。3代目カリフ・ウスマーンの時代には長年ローマ帝国に対して優勢を保ったササン朝ペルシャ(226-651年)が滅亡。短期間のうちに出現したイスラム帝国(サラセン帝国)はキリスト教が欧州全体に根付く8世紀にはイベリア半島(スペイン全土)を覆い、欧州諸国にとって脅威以外の何物でもなかった。

キリスト教への警告
イエス(イーサー)を
敬うべき預言者としているイスラム教のキリスト教への仲間意識は強い。しかしコーランはキリスト教の教義の中核は割とはっきり否定している。中でもローマ帝国の都合で忍び込んだ異教との習合要素への批判は厳しい。キリスト教は思い違いをし、失敗しているのである。

「啓典の民よ、使徒たちが中断された後わが使徒がやって来て、あなたがたに対し(事物の)解明をする。これはあなたがたに、「わたしたちには吉報の伝達者も警告者も来ない」と言わせないためである」 (コーラン5:19

「言ってやるがいい。「啓典の民よ、あなたがたがわたしたちを非難するのは、只わたしたちがアッラーを信じ、またわたしたちに下されたもの(コーラン)、また以前に下されたものを信じるためであるのか、
只あなたがたの多くがアッラーの掟に背く者たちであるためではないか」」(コーラン5:59



「アッラーこそは、マリアの子メシアである。」と言う者は、確かに不信心者である。言ってやるがいい。「誰がアッラーに対し、少しでも力があろうか。もし彼がマリアの子メシア、その母と地上のすべてのものを滅ぼそうと御考えになられたら、誰が制止出来よう」(コーラン5:17
「アッラーは三(位)の一つである。」と言う者は、本当に不信心者である。唯―の神の外に神はないのである。もし彼らがその言葉を止めないなら、彼ら不信心者には、必ず痛ましい懲罰が下るであろう」(コーラン5:73
「また彼らは言う。「慈悲深き御方は子を設けられる」 確かにあなたがたは、酷いことを言うものである。天は裂けようとし、地は割れて切々になり、山々は崩れ落ちよう。それは彼らが、慈悲深き御方に対し、(ありもしない)子の名を(執り成すものとして)唱えたためである。子を設けられることは、慈悲深き御方にはありえない」(コーラン19:88-92
「啓典の民(キリスト教徒)よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マリアの子メシア・イエスは、ただアッラーの使徒である。マリアに授けられた彼の御言葉であり、彼からの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。彼に讃えあれ。彼に、何で子があろう」(コーラン4:171
「またアッラーがこのように仰せられた時を思え。「マリアの子イエスよ、あなたは『アッラーの外に、わたしとわたしの母とを2柱の神とせよ。』と人びとに告げたか」 彼は申し上げた。「あなたに讃えあれ。わたしに権能のないことを、わたしは言うべきでありません。もしわたしがそれを言ったならば、必ずあなたは知っておられます。あなたは、わたしの心の中を知っておられます。わたしはあなたに命じられたこと以外は、決して彼らに告げません。『わたしの主であり、あなたがたの主であられるアッラーに仕えなさい。』(と言う以外には)わたしが彼らの中にいた間は、わたしは彼らの証人でありました」(コーラン5:116-117


さらにイスラム教の信条によれば
アダムの罪は既に赦されている。
イエスはアッラーが処刑前に別人にすり替え(贖罪はない)、イエスを磔にする姦計は失敗していたのだ。

「われは言った。「アダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから」
ところが悪魔〔シャイターン〕は、2人を躓かせ、彼らが置かれていた(幸福な)場所から離れさせた。われは、「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」と言った。
その後、アダムは、主から御言葉を授かり、
主は彼の悔悟を許された。本当に彼は、寛大に許される慈悲深い御方であられる」(コーラン2:35-37
「「わたしたちはアッラーの使徒、マリアの子メシア・イエスを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だが彼らが彼を殺したのでもなく、また彼を十字架にかけたのでもない。只彼らにそう見えたまでである」(コーラン4:157


「災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、「これはアッラーから下ったものだ。」と言う者に」(コーラン2:79

「彼らの中には、自分の舌で啓典をゆがめ、啓典にないことを啓典の一部であるかのように、あなたがたに思わせようとする一派がある。また彼らは、アッラーの御許からではないものを、「それはアッラーから来たものだ。」と言う。彼らは故意にアッラーに就いて虚偽を語る者である」(コーラン
3:78







信者   「異教徒は人間か否か?」
ローマ教皇
人間ではない!


・新大陸での先住民皆殺し ・アフリカからの奴隷貿易
・アジアへの植民地支配 ・戦争による領土掠奪合戦

15世紀以降この非人間的な質疑応答の下、貿易といえるものではない凄まじい略奪がイエス・キリストにちなんだ名前の宗教によって行われた。選民意識に力付けられた西洋人の頭に残念ながら異教徒・非白人は隣人・同等の人間として映っていなかったのだ。


そんな陰惨を極める人類史の中でも僅かにきらりと光った希望は、7世紀に既に
迷信も程ほどにしろという啓示を受け取った怒れるキリスト教の兄弟が派生し無統制な西洋の倫理と戦いながら、地上に新しい信仰を広め人間行為の全般に渡って一つの革命をもたらした点である。

国際商業都市でそこそこ成功していたマホメットは、突如茨の道へ引きずり出され、安楽・財産・友人関係の犠牲の上に神の道具としての役割を強いられた。そして最後の預言者として使命を全うした。イスラム教ではそう考えている。



「私は私の任務を果たしたのでしょうか? おお神よ、その証をお示し下さい」
マホメット"別離の説教"から

画像借用元: The Islamic World to 1600 Islamic History 世界の国旗一覧 燃えるイスラム史
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戦う福音 イスラーム

2012-07-05 02:55:42 | 焚書/解体


欧州が地球上の「悪」の拠点と化していく事で、キリスト教を弾圧したローマ人がその賢明さを証明しつつあった時。

ローマ人キリスト教への防壁として下された天の啓示がイスラームであったと言っても、それに合理的疑念を挟ませない程の歴史的裏付けは取れない。7世紀の預言者は何を見て、イスラームを興したのだろうか。


*以下緑字『マホメットの生涯』(ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和男訳 河出書房新社)、白抜きは『燃えるイスラム史』から転載

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ (570年頃-632年)
イスラム教の開祖。アラビア半島メッカの支配部族・クライシュ族の名門ハーシム家に生まれる。モーセ、イエスその他に続く最後の預言者とされる。



洞窟の啓示(610年)

「そんなある日、ヒラー山でムハンマドは天使を見ました。天使を見るとは霊験あらかたでありがたい物ですが、そのお姿に恐れおののいたムハンマドは『偶像も崇拝する、占いも信じる、だから占い師にはなりたくない』と、ハディージャに相談したようです。彼女は『神は貴方を占い師にはしない。真実を伝えるのです』と励ましました」


光が降り注ぐ啓示にマホメットは狼狽し自身が悪魔にとり憑かれたようだと錯覚してしまう。その動揺を救ったのは15歳も年長の妻ハディージャの機知だった。

「私がひとりとなると、たちまち『おお、マホメット、おお、マホメット』と呼び掛ける声が聞こえた。私が天の光を見るのは、夢の中ではない、すっかり目覚めた時なのだ。眼に見えぬもの、やがて起きることを知っていると言い張るあの偶像や魔法使いどもを、私はこれまで嫌悪してきた。その私が、今、魔法使いになってしまったのか。私を呼ぶ者は悪魔ではないのか」(バラドゥリ『年代記』)

天使が姿を現したら、すぐ呼ぶようにとハディジャはマホメットにいう。マホメットは妻に叫んだ。天使が彼の側にいて、光り輝き、語りかけるのだ。ハディジャは、右膝の上に座るよう夫に命じた。彼は妻の右膝に腰をおろす。
「まだ天使が見えますか」とハディジャは問うた。「うん見える」とマホメットはいう。彼女は膝を変えるように命じ、「私の左膝にお座りなさい」彼は従う。
「やっぱり天使はいますか」「まだ見える」とマホメットは答えた。
ハディジャは衣服を脱ぎ捨て素裸になり、マホメットにも裸になるよういった。そして、彼女の体に腕を回し、力一杯抱き締めるようにいった。マホメットは従った。「これでも天使は見えますか」
「いや」と彼は答えた。「天使はいなくなった」

ハディジャは衣服をつけ、夫にいう。「あなたに語りかけたのは、やはり天使です。悪魔ではありません」 彼女の説明によると、それが悪魔だとすれば、裸の妻が夫を抱くのを見て、心を乱すことはない。一方、天使は内気で、みだらな光景には耐えられない。はにかんで、そっと姿を消したのを見ると、それはまさしく天使であり、悪魔ではないというのだ。これで証明された。



ハムザの改宗(615年)

天使の命を受けて始まったマホメットの宣教は困難の連続だった。親族は改宗に応じず、無視と嘲笑、次第にメッカの宗教を貶す説教には部族社会からの罵倒が強まり始めた。相次ぐ暗殺未遂事件でマホメットは血まみれになり、ハディージャの子ハリト(前夫との子)が最初の殉教者となった。

格闘家にして騎士、マホメットの叔父ハムザは或る日、預言者の敵アブー・ジャフルがマホメットを殴った話の顛末を聞かされた。宣教には反感を覚えていたハムザであったが、親しい甥が虐げられた事に激昂、カーバ神殿まで行き、座っていたジャフルの頭にいきなり弓を叩きつけて、こう言い放った。

「マホメットが一族から見棄てられるとでも思っているのか。よく聞け。今日からおれは、彼の宗教を受け入れたぞ! おれはイスラム教徒になる。もし、お前にしろ、他のやつらにしろ、イスラムを攻撃する勇気があるやつは、おれにかかってこい!」 この瞬間から、信徒の中に騎士が加わる。彼は、アリと共に戦場を駆けめぐり一騎打ちにたけ、恐れを知らぬ騎士として、アラーの栄光を地上にもたらすこととなる。


ウマルの改宗(615年)

「授業に入る前に、イスラームの、コーランの奇跡である話を一つしましょう。メッカには反イスラム反ムハンマドの急先鋒にして、血気盛んな若者がいました。

その名はウマル=ハッターブ

悪魔が恐れる男と呼ばれ、剛直で一本気、マジメで誠実ですが頑固な男です。ウマルはイスラム教を一族古来の教えを破壊する邪教だと信じ、ある日ムハンマドを暗殺しようと立った事がありました」


ウマル(オマル)は家に入るにも屈まねばならない、豪胆直情な大男。騒乱の種であるマホメットを始末するためムスリムの集合場所に向かっていた。途中の道で出会った男(ムスリム)が企てに気付き、ウマルに言った。

「最初に君の一族に異端者がいないか心配したらどうだい」 ウマルは尋ねた。「俺の一族とはどういう意味だ」 「君の妹ファーティマと夫のサイードがそうじゃないか」

怒り狂って踵を返したウマルが妹夫婦の家の前に着くと、ちょうど家の中からコーランを吟唱する声が聞こえてきた。これを耳にするとウマルは激怒して、家に入り2人が血だらけになるまで殴り続けた。

しかし妹ファーティマは殺されても棄教はしないと言う。いささか冷静さを取り戻したウマルは、その宗教心に打たれ、読んでいたものを自分にも聞かせるよう求めた。読誦されたのはコーランの20章であったと言われている。

「慈悲深く慈愛あつき神のみ名において! 我らが汝にコーランを下したのは、汝に苦労させるためではない。ただ畏れかしこむ者への訓戒として、大地と至高の天とを創造したもうたお方の啓示としてである。この慈悲深いお方は玉座に登っていたもう。天にあるもの、地にあるもの、その間にあるもの、また地下にあるもの、その全てはこのお方のものである。汝が声を張り上げるのもよいが、このお方は、秘密の事も、それ以上に隠されている事も、全て知りたもう」 「まことに私こそは神であり、私の他にはいかなる神もない。それゆえ、私を崇めよ」(『コーラン』)


「驚くべき崇高さだ!」
オマールは妹夫婦をかき抱き、赦しをこうた。そして直情怪行な彼らしく、ただちにイスラム教徒になると宣言するのだった。


コーランは無数の脚韻を踏み、文飾、詩的な趣が聴く者の心を惹きつける。彼は世界で四十番目のイスラム教徒に改宗した。悪魔も恐れおののく男ウマル=ハッターブ(後の2代目カリフ)の改宗により活気付いたムスリム達はカーバ神殿で堂々と礼拝を行うようになった。  
(以下続く)



マホメットが意図したのは新宗教の樹立ではなく、古き真の神に由来する宗教の復興、即ち一神教徒の怠慢によって舞い込んだ“加筆”の削除だった。

「預言者なんて嘘」 批判的な見方がキリスト教側には常にあるが、新生カトリックの粗末さゆえに宛がわれた兄弟としてのイスラム教の側面は小さくないのではないか。コーランの教説は旧約より新約聖書の方に土台を持っており、マホメットの信仰に影響を与えていたのはマリアの偶像化・聖人崇拝を嫌ってローマ帝国を追われた(431年)キリスト教ネストリウス派であった。

「純正なる人アブラハムの宗教をとる。彼は偶像崇拝者ではなかった」
(コーラン2:135-136)
「我はまた「キリスト教徒である」と言う者とも約束を結んだ。だが彼らも与えられた教訓の一部分を忘れた。… 啓典の民(キリスト教徒)よ、汝らの経典の秘密を明るみに出し、また明るみに出す必要のないものを、取り消すために、御使いがまさに汝らに来た」(コーラン5:14-15)



全世界の侵略と莫大な個人の富の夢に適した宗教にヨーロッパが包装し直された時、アラビアの部族を一つの信仰に団結させる砂漠の巨人が立ち現れ、東西に広く版図をとり白人種を長く欧州に押し込め続けたのは歴史の偶然として片付けられるのだろうか。


画像借用元: 世界史地図理解 宗教史授業シリーズ





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『原罪』とは何か

2012-06-17 18:14:06 | 焚書/解体


ローマ帝国の監視・防衛機構として新生カトリックが発足すると(4世紀)、全般的な目的と構想の下に教義は解釈し直され「原罪」は地中海沿岸の人々を繋ぐ楔(くさび)、「罪の赦し」は改宗者に下る皇帝からの赦しとなった。


       原罪とは何か
旧約に関し不勉強な男パウロが作った不安の概念。ユダヤ教における原罪とは"弁えておくべき人間の悪しき性質"に過ぎずイスラム教もユダヤ教も人間が不治の罪をずるずる引きずっているとは考えない。

       救世主
帝国住人の罪を贖う救世主として、4世紀にイエスは新たに皇帝の元から派遣し直された。 「それゆえに、は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(フィリピ2:9)

人類始祖の堕落を数千年も後になってから贖う滑稽さは江戸時代の学者・新井白石にも「赤子のたわ言」と一蹴されている。
『デウスこれをあはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、エイズスと生れ、それに代りて、其罪を贖へりという説のごとき、いかむぞ、嬰児の語に似たる』(『西洋紀聞』) 新井白石と天地創造。

       新約聖書とは何か
百花繚乱のキリスト教集団がもう正典争いをしなくて済むように、帝国安定の為に生み出された政治道具。帝国臣民が消えた1453年4月以降存在意義を失っている。

       パウロとは何だったのか
キリスト教の何が気に入らなかったのか、パウロは明かしていない。しかしユダヤ人の至宝たる神との契約を破棄できる人物がユダヤ愛に駆られてキリスト教徒を迫害していたなどは荒唐無稽も良い所。これぞ異邦人に向け"回心"のショックを増すための敬虔なフィクションなのである。

       イエスとは何か
以下の箇所にはイエスが良く表現されているように思う。
マタイ12章 2-6節 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、なたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家に入って、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

このダビデの話(サムエル記I 21章)が安息日の出来事だったとはどこにも書かれていない。
この強引な解釈の中にイエス=ユダヤ人の願望なる新モーセが表現されているのが垣間見えるだろう。旧約新約では神が見事にイメチェンを果たしているのも興味深い。
「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう」(マタイ12:7)

       再臨とは何か
「神の国は汝らの中にある」(ルカ17:21)の言葉通り再臨とは一人一人の人生の内で作用する完全な神性の到来である。神の国も悲惨/不条理の悪魔の国もまさしく人間の内にある。

キリスト教の言う"天国"は無益な愚考だったかもしれない。
しかしキリスト教の地獄は十分に本当だった。“終末の再臨”はユダヤ人を解放したペルシャの思想の複製に過ぎず、万人に神性の体験の普遍性が吹き込まれている以上、再臨は特定の人物に倣わなくても良い。

       聖霊とは何か
「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった」
「詩篇に、
『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである」(使徒1:16-)
引用元
「彼らの宿営は荒れ果て 天幕には住む者もなくなりますように」 (詩編69:26)
「彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ」 (詩編109:8)
これをユダの預言の成就だと言って聖書を盗み去ってしまうモラルの野蛮なキリスト教書記が語る“聖霊”もいかがなものか。





地中海を出た原罪の全世界的な適用が後世キリスト教の恐喝的な伝道に根拠を与え続けたことは言うまでもないだろう。

アメリカの征服 http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kyoukaihanzai.htm
ハツアイ(Hatuay) と言うインディオ族長は、火あぶりになる前に宣教師から「洗礼を受ければ天国に行けます。洗礼をしますか。」と聞かれた時、天国にはキリスト教信者がいるのかと質問しました。「勿論」と宣教師が答えると、「じゃ、結構です。そんな残酷な人と一緒になりたくない。仲間のいる地獄の方がいい。」と断りました。(ドイツ新聞taz,1987・2・21からの引用) ハツアイ族長の様な反応から、当時のクリスチャンはインディオ達が無知の悪魔族だと確信しました。


さて、ローマの世界を汚染した狂的信仰の環境から他力本願・敗北者主義・各地に進出して行く性向の残忍な迷信が欧州一帯に広まり出すと、全世界がキリスト教の一元的支配に屈するのは最早時間の問題と思われた…

画像借用元: Chuck Boening's History Web Site

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皇帝コンスタンティヌス

2012-06-05 16:47:06 | 焚書/解体


ローマ帝国が抑圧に困ったキリスト教を統治機構の内に取り込むまでの経緯を最後に確認しておこう。ローマ帝国の東端で生まれた新宗教は4世紀の為政者にその高い組織力が着目される頃までには、無知な一般レベルへの適合に長けた
西洋人キリスト教への奇怪な変形を遂げていた。
 

 
    ディオクレティアヌス     (在位AD284~305)

ローマの伝統を守る事が帝国再建への道と信じたディオクレティアヌス帝は激しいキリスト教迫害を断行した。303~305年にかけてキリスト教一掃を図り集会所の破壊、キリスト教文書の没収・焼却、信者の処刑などの徹底弾圧を行うが、根絶する事はできなかった。


    コンスタンティヌス1世     (在位AD306~337)

ガレリウス寛容令 (311年)で迫害終結が宣言された後、リキニウスと連名でキリスト教を公認するミラノ勅令(313年)を公布。この人物こそ新約聖書の編纂を命じ、イエスの誕生日を定め、聖日を日曜日に統一した現キリスト教の「父」である。コンスタンティヌス以後雑多なキリスト教集団は急速に整備が進められた。

ミラノ勅令後、キリスト教徒を多く抱える東方には出来ない
教会優遇策を打ち出したのも既に政治的戦略であったと言われる。キリスト教の制御と領土の一元的支配を兼ねた国教化事業も政治利用の枠の内に勘案されていた。コンスタンティヌス時代のキリスト教徒は帝国内の1割台の勢力に過ぎず、より数が多いミトラス教徒ら異教徒の風習をキリスト教に適用(改変)させる政治的必要もあった。


    コンスタンティウス2世     (在位AD337~361)

父コンスタンティヌスの路線を継ぎキリスト教を優遇。ニケア公会議(325年)の決定で異端とされたアリウス派を逆に支持した。


       ユリアヌス        (在位AD361~363)

コンスタンティヌスの甥。幼児洗礼を受け聖書にも親しむが、後に棄教。キリスト教優遇に疑問を持ち始める。古典文芸やローマ古来の異教信仰再興の実現に取り組んだ。

ローマ世界最後の光を発しつつ、31歳の若さでペルシャの砂漠に戦没。晩年のユリアヌスは洞穴に入り槍で裂いた牛の血を全身に浴びる祭儀を行ったという。これはミトラスの密儀にキュベレ信仰を混ぜ合わせた儀式と言われる。


      テオドシウス       (在位AD379~395)

380年にキリスト教の国教化を宣言。元老院の反対を押し切り異教禁止令(392年)を発布、翌年には1100年以上続いたオリンピアの祭典競技が幕を閉じた。テオドシウスは380年以降キリスト教徒の頑迷な憤慨からくる異教への破壊活動を教会の公式路線として追認した。

孫のテオドシウス2世はテオドシウス法典の中で計36の異教を非合法とし、ローマの伝統である『宗教的寛容』の時代が完全に終焉した。






コンスタンティヌスの過失は、キリスト教の美しい"人道主義"の覆いに隠された偏狭さ、凶猛性を見抜けなかった点にあろう。異質なものとの共生ができない未熟で不名誉な装置を後世に残す事になるとは、考えもしなかったのではないか(母はキリスト教徒だった)。哲人皇帝ユリアヌスはそのコストを見抜き、ローマの美術品を破壊するキリスト教徒に怒りの目を向けた。

「私は正義とはあらゆる強制を含まぬものと思っている。正義とは自由に他ならぬ。少なくともただ自由のなかだけに存在するのだ。…  しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。あと千年か、二千年か、あくまでこの観念をまもりぬくほかない」 引用元: 『背教者ユリアヌス』


コンスタンティヌスの生涯の信仰が不敗の太陽神ソルと共にあった事は念頭に置く必要がある。彼は2体の像を造り1体は母神キュベレ、もう1体は自身に似せたソルだとした。彼のコインにも“不敗の太陽神(
SOLI INVICTO)”の文字が刻まれている。

死に際してコンスタンティヌスはキリスト教の洗礼を受ける。彼は崩壊して行こうとする落日のローマ帝国の再建をキリスト教に託すのである。

画像借用元: Ancient Coins Chronicles





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原始キリスト信仰を生んだもの

2012-05-26 01:41:53 | 焚書/解体


原始教会ないしエビオン派のパウロへの反発は
"「復活」がイエス信仰の発端ではない"事実を逆説的に浮かび上がらせている。「神の子」としても「メシア(ユダヤの王)」としても発生したとは思えないイエスへの信仰は、何故ユダヤの地で発祥していたのだろうか。その原初の姿を追ってみたい。
 


紀元後1世紀、パレスチナの村落共同体は、新たな支配者のローマ帝国に組み込まれ、政治、経済、宗教、文化のグローバリズムに晒されて困窮化の一途を辿った。重税で借金漬けになった農民は土地を取り上げられ、家族も解体して流浪化し、「ローマの平和」は実に過酷で、…
http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/7330/1/20110428-4-5.pdf


2千年前のユダヤ世界では新たに流入したローマの支配体制の下で
貧困律法(宗教的戒律)によって苦しむ人々が増え続けていた。

野蛮なローマ帝国(共和国)は植民地に飢えており、巨大な軍事・官僚機構を抱え重税が基本。その重圧が上流階級(サドカイ派)でも中流階級(パリサイ派)でもないユダヤ教徒貧民層に時代の要請に応じた救世主(み言葉)への需要の手を呼び起こしていたのではないか― イエスの実像をある程度そこに洞察することができると思う。

世界史講義録 http://www.geocities.jp/timeway/kougi-18.html
極端に言えば救われるのは金で戒律を守ることのできる人だけになる。そして、ローマの支配下で重税をかけられて、貧しい人々がどんどん増えていたのが当時のパレスチナ地方です。
こういう状況の中で、イエスが登場して民衆の支持を得る。イエスが何を言ったか、もう想像つくでしょ。かれは、最も貧しい人々、戒律を破らなければ生きていけない人々、その為に差別され虐げられた人々の立場に立って説教をするんですね。戒律なんて気にしなくてよい。あなた方は救われる、と言い続ける、それがイエスです。





パレスチナの混乱
紀元前4年 ヘロデ王の死を契機に反ローマの内乱状態に突入、… この鎮圧で2000人が十字架刑によって処刑された。
紀元6年 ガリラヤでのユダの反乱・・・ユダヤがローマ直轄の属州になった時、ユダ(ヒゼキアの息子と言われる)という人物が、ローマによる徴税に対する反対闘争を開始する。彼は「土地の収穫はすべてヤハウェの神ひとりのもの。税金を納めることは第一戒に対する違犯だ」と主張して農民を扇動するが、結局鎮圧され多くの犠牲者を出す。
紀元28年 ユダヤ総督となったピラトは皇帝の軍旗をエルサレム神殿に持込み大騒動となり、暴動寸前でピラトが折れる形で沈静。
紀元44年 ヨルダン川東のペレアで、狂信的な農民の反乱
紀元51年 サマリアで1人のユダヤ人が殺害された事に端を発した、サマリア人とユダヤ人が衝突する事件が起こり、混乱の中で多数の犠牲者を出し、皇帝の採決にまでに及ぶほどで、以降パレスティナの混乱始まる。
紀元54~
55年
エジプト人の乱・・・総督フェリクッスの時に起きたエジプト生まれのユダヤ人預言者の反乱事件。4000人(ヨセフスによれば3万人)の暗殺者を荒れ野に集め、オリーブ山に集結させてエルサレムになだれ込もうと計画するが、ローマの守備兵に蹴散らされて一部は殺害され、首謀者は逃走して行方不明。


1世紀には
熱狂的なユダヤ原理主義(ユダヤ・ナショナリズム)が吹き荒れていた。伝統的戒律を乱す異端的集団への厳しい追及が必然的に起こり、迫害はやがてユダヤ教とキリスト教の分離を決定的にするのだった。

その過程の中ですべてが既存の
異教神話が混入したと私は推定している。エジプトの有名な神を拾い上げている点でも(母イシスは2世紀以降ローマ全土で信仰された)初めから実在した神話としての実現は想定しておらず、それよりは早くユダヤ教の亜種を始めたい人々がいた事情を窺わせる。

イエス派ユダヤ教がローマ帝国内で睨まれるキリスト教運動の段階に引き上げられた頃には、宣教者達は原始福音に背を向けていたのだ。

http://www31.ocn.ne.jp/~fellowship/act_08.htm
ステパノの殉教から始まった教会への迫害は、宣教を拡大させるものとなった。… 宣教の舞台はエルサレムとユダヤを離れて、異邦人世界へと大きく展開していく。



・膨大になった律法と教条主義の行き詰まり
・憐れみ・善意を疎かにした宗教エリートによる「差別」
・ヤハウェ=家父長的な原理への追従の限界


イエスの説教から幾つかの方向性を導き出せば、2千年前のユダヤ世界の諸問題に対応している事が分かる。イエスは或いは厳罰で共同体を支配する父性の神に抱き合わされた花嫁的存在でもあったのではないだろうか。

現在のキリスト教はパウロによる所が大きいが、初めの数百年間、救いの為には
ユダヤ教徒でいる事を求めた"ユダヤ教内イエス信仰"がなお存続し、原初の光を放ちながら歴史の表舞台から姿を消して行った事は注目に値する。「イエスが架空の存在であれそんな事では揺るぎもしない」 それが最古のキリスト信仰であったろう。

画像借用元: The Roman Empire The World's Best Photos 

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初期キリスト教の多様性

2012-05-06 21:52:06 | 焚書/解体


数多の偽書を生んだキリスト教の初期にはより多くのキリスト教分派が存在した事が知られている。

乱立するキリスト教集団は自身の教義に沿う正典を独自に護持していた。パウロを"無知"と断じたクレメンス文書も信奉され、パウロの名声も一様ではなかった。初期キリスト教はどんな集団だったのだろうか。



    グノーシス派
グノーシス運動は1~3世紀に東地中海地域で進展した複雑な宗教思想の総体。人間は血肉のみから成る存在ではなく、神と宇宙に関する正しいグノーシス(知識 gnosis:ギリシャ語)を認識する事で天に源がある霊/神性の閃きを呼び覚まされるとする教説。

キリスト教神話を独特の多神教的解釈によって取り込んだため異端とされた。グノーシス的宇宙観によれば旧約の神は破滅的なこの物質世界を創った失敗の神
(悪神)に過ぎず、善なる絶対神・天上界は物質世界の外部に存在すると考えられた。

グノーシス派は
『アダムの黙示録』、『セトの書』、『フィリポ福音書』など多数の偽書を作成した事が報告され(多くは破壊され現存していない)キリスト教集団の正典編纂作業を激化させたと言われている。1945年に46の書から成るグノーシス派のナグ・ハマディ文書が出土して大きなニュースになった。

    マルキオン派
144年頃発生した純パウロ的集団。マルキオンは著書『対立論』の中で残忍な旧約の神とパウロが説くイエスを派遣した慈愛の神は別個の神という考えに帰結した。

聖書(旧約)を破棄、純粋にパウロ化した独自の正典を持ち、大きな勢力となった。新約の文書群が主張をたがえたまま一つに統合された契機は、異端マルキオン派への対抗上と推定されている。四福音書に『マルコ』『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』の名が付されたのも恐らくは2世紀後半のことである。

十字架~復活の場面はイエスが苦しんだかどうか(仮現説 - Wikipedia)を巡り異端(マルキオン派やグノーシス派)との論争の場になり、異端対処に苦心した2世紀の正統派教父パピアス、エイレナイオスは興味深い話を残している。彼らの支持する伝承によれば、イエスは30代で若死にせず、初老まで生き人生を全うしたという。

    エビオン派
モーセ律法の施行に拘り、マルキオン派と対照的にパウロを使徒と認めなかったユダヤ律法主義的集団。

原始教会との共通性が多いこの集団をユダヤ戦争(66-70年)後行方をくらましたエルサレム教団の系譜を引く集団だと考える学者もいる。エビオンとはヘブライ語で「貧しい」を意味し、パウロは原始教会を貧しい者達と呼んでいる。死海文書を記したクムラン宗団も自らを貧しい者と称していた。
「ただ、私達が貧しい人達のことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうど私も心掛けてきた点です」(ガラテヤ2:10)
イエス派ユダヤ人と消えた「エルサレム教団」


多派に分岐するエビオン派の大まかな教義は
・割礼などモーセ律法の遵守 ・菜食主義 ・財産の共有 ・禁欲主義 ・イエスは人間(模範的ユダヤ教徒)として扱う ・パウロへの拒絶

ほぼユダヤ教徒といえる彼らの正典は主に
『ヘブライ語聖書』、『マタイ福音書』(1~2章(処女降誕伝承)はカットした)、『エビオン人福音書』、『ナザレ人福音書』、『ヘブライ人福音書』

エビオン人福音書のイエスは「過越の子羊をあなた方と食べる気はない」と菜食主義を貫き、洗礼者ヨハネの食事もイナゴ(マルコ1:6)が削除された。この集団は多数派にはならず、4世紀を過ぎる頃には消滅してしまったらしい。


    原始正統派
最終的に新約聖書を構成したのは、競争に勝った一派の文書だった。この宗派の系譜に名を連ねる教父はユスティノス、オリゲネス、エイレナイオス、クレメンス、エウセビオスらである。

現在のキリスト教に繋がったこの一派は、覇権を握るなり自身がキリスト教の誕生時から正統だったと主張した。しかし古い史料を辿れば、この"正統信仰"なるものは必ずしも初期の多数派ではなかった事実が浮かび上がる。教義も論争の末に生まれた、イエスや使徒が語っていない後世の産物を多く抱えているのである。 アタナシオス信条 - Wikipedia

彼らの信仰は必ずしもキリスト教の原型とは言えず、熾烈な戦いの末に、勝利を勝ち取ったに過ぎない。


異端とされたグノーシス派でも、今日のキリスト教の様な低俗な思想ではなかった。キリスト教グノーシスでは復活信仰では救われず、イエスが語る神智を自力で解明する者だけが救済に与ることができる。



“カトリック”(普遍)としてローマ帝国に認められた一派は、ローマ周辺で勢力を保っていた集団だった。またユダヤ的要素を(旧約聖書ですら)廃していたマルキオン派も同じく、西側のローマ周辺で勢力を築いた一派だった。

考えてもみていただきたい。開放的なラテン人に、ユダヤ人の緻密で地下的な世界が理解しうるものだろうかと。
宗教熱心な今の米国人には
モーセ五書十戒はおろか、四福音書さえも言えない人が少なくない。大味な西洋人の民族性に合うのは、叡智と実践を犠牲にしながら一般化されたパウロ思想だけであったのかもしれない。


最近千年間のキリスト教が1億人以上を殺害・奴隷化した事実に鑑みる時、皇帝権威/公会議によって一掃された宗派こそ本物のキリスト教であり、現代まで君臨したのがローマの男神崇拝、女神崇拝の換骨奪胎でしかなかったという結論に異論を差し挟める人はいないだろう。



画像借用元: 聖書の民 横浜金沢みてあるき 白地図、世界地図、日本地図が無料
参考文献: 『キリスト教成立の謎を解く』 バート.D.アーマン著 津守京子訳 柏書房 
 

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キリスト教偽典群

2012-04-22 07:54:01 | 焚書/解体


モーセ五書(トーラ)の作者がモーセであるというイエスら昔のユダヤ人が信じていた説は現代聖書学ではほぼ否定されている。 旧約聖書成立の概要

コヘレトの言葉(伝道の書)も、前10世紀のソロモンではない誰かが600年以上後の時代に記したらしい。

紀元前から
文書偽造を領分としていたユダヤ人は、キリスト教世界では反論、問題解決の為に文書を使った。そしてそれらは使徒によって書かれたものだとした。正典入りしなかった外典の中にも一読の価値のある物が多い。


 ペテロの黙示録
神からの秘密の黙示による天国・地獄の見聞録。『ヨハネの黙示録』と最後まで正典入りを争った正統派の書。

 べテロ行伝
イエスの死後、神通力を得たペテロがマグロや人間を生き返したり、円形闘技場で魔術師シモンと奇跡対決をするペテロ外伝。2世紀以降このような伝説的資料を書くことは、人気の文学的な書式だった。

 ペテロの手紙
ペテロからイエスの兄弟ヤコブに宛てる形で書かれた偽名書。"ユダヤの律法に効力がない"かのように語るある違法なキリスト教徒を断罪している。

邪悪な教えを広める
「私の敵である男」とは、パウロの事である。作者はパウロと対立したペテロ(『ガラテヤ』2章)の権威を借りて、パウロの思想を非難しているのだ。

 偽クレメンス文書
上の手紙を序文とする、クレメンス(ペテロに任命された司教)の一人称で綴られるペテロとの冒険譚。この文書における敵役・魔術師シモンは、パウロに重ねられている。
「私(ペテロ)は彼(シモン)の後から来て、彼を凌駕した。ちょうどを、知識無知を、癒しを凌駕するように」(2章17節)
「あなたは言った、…イエスの言葉を幻影から聞いたのだから、イエスの説く教義を私より理解していると… だが、幻影や幻視や夢を信じる者は地に足がついていない。… 信頼している相手が、言葉巧みに正体を誤魔化す邪悪な悪霊か、人をたぶらかす霊かもしれないからだ」

「誰が幻影によって教えるに相応しい者だと認められるというのか? もしあなたが「できるとも」と言うなら、私は
「なぜ私達の教師は、目覚めている者達に、一年もの時間を費やして、忍耐強く教えを説いたというのか?」と問い返すだろう。… キリストの教えに背く考えを抱くあなたに、キリストはどうして姿をお現しになられたというのか?」(17章)

一瞬の幻視に立脚した教義が、一年間もイエスに師事し礎(ペテロ=岩)の任命を受けた自分のそれに勝るはずがない…それが本書におけるペテロの主張である。

 パウロ行伝
パウロの宣教、奇跡物語、女性テクラとの冒険譚。本書の外典『コリント人への手紙三』は異端(グノーシス)的見解をパウロの権威で厳しく否定した書。

 ペテロによる福音書
1886年、エジプトの発掘作業中に出土した2世紀の福音書(断片)。正典福音書にはないイエスが墓から出る場面が描写されている。歩いたり喋ったりする十字架が登場する幻想的な内容。 ペテロによる福音書 - Wikipedia

パウロとセネカの往復書簡
同時代の知識人がパウロを一切知らなかった事態を打破するために書かれた14通の偽書簡。

 ポンティオ・ピラトの報告書
ピラトにイエスの潔白と、行った奇跡の偉大さを報告させた文書。イエスが死ぬと地を暗闇が覆い、復活後は光が差し、地震が起きて大勢のユダヤ人が裂け目に飲み込まれたという。

キリスト教の外典を語る上で避けて通れないのが激しい
反ユダヤ主義の性格である。下記『ピラト行伝』では悪名高い「その血の責任は我々と子孫にある」(『マタイ』27章)が3度も宣言される。

 ピラト行伝(ニコデモ福音書)
法廷にイエスが呼ばれると、旗持ちの2名が勝手に頭を下げカエサルの旗がイエスにお辞儀をする。ユダヤ人指導者が怒って十二名の屈強な旗持ちを用意するが、再入廷したイエスに旗がまたもお辞儀してしまう。ピラトは恐れおののきイエス釈放を試みる。しかし、ユダヤ当局が頑強に死罪を要求し…

4世紀に生まれた当文書のラテン語版は中世の欧州でも人気を博したという。どれほどのユダヤ人への邪悪な暴力を助長したのか、知る由もない。

 トマスによる福音書
1945年にエジプトのナグ・ハマディから出土した2世紀のグノーシス派の福音書。イエスの114の説教から成り(死と復活の記述はない)、忌まわしい肉体の檻から抜け出るための秘密の知識(グノーシス)が、半ば暗号化したイエスの言説で語られる。 トマスによる福音書 - Wikipedia
「死人達は生きないであろう。そして、生ける者達は死なないであろう。あなた方が死を食う日に、あなた方はそれを生かすであろう」(11章)


Q資料

『マタイ』と『ルカ』だけにある並行箇所が本書にも発見され、初期キリスト教内で出回っていたと考えられる未発見の『語録資料Q』の存在が裏付けられた。
Q資料

.トマスによるイエスの幼時物語
イエスが奇跡で悪ふざけをする5~12歳の頃の物語。

子供が走ってきてイエスにぶつかるとイエスは怒りその子に言った。「お前は父親の所には帰れまい」その子はたちどころに死んでしまった。

ヨセフは教育を受けさせようと教師の下へイエスを送った。しかし何の効果もない。挙句、傲慢な態度に教師は怒り、イエスの頭をぶった。イエスが呪うと、たちまち教師は死んだ。ヨセフはイエスを家に連れて帰り、マリアに命じた。「この子を外に出すな。この子を怒らすと誰でも死んでしまう」…
 






パウロから始まる様々な手紙・福音書は、“聖書”に比肩する物として書かれた訳ではない。あくまで外典・参考文献的であった文書群を旧約聖書にドッキングさせたのは、ローマ帝国の政治の安定の為であった。

それを「神の言葉」だと言うなら、キリスト教が今もローマ皇帝の前に跪いている事実を受容せねばなるまい。

参考文献: 『キリスト教の創造』 バート.D.アーマン著 津守京子訳 柏書房  






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残りの藁の書

2012-04-13 00:31:04 | 焚書/解体


ここにあるような検証は勿論いつの時代でも可能だったが、迷惑な事に、新約聖書はそう遠くない時代まで見ずに信じた人々による
傲慢・侵略戦争・ユダヤ人迫害の隠れ蓑とされて来た。人類史の汚染源となった残りの文書も概要を纏めてみたい。

 マルコによる福音書
『マタイ』と『ルカ』の底本になった最古の福音書という説が19世紀以降有力。(両者とも所々『マルコ』のギリシャ語が丸写しになっている 両者ともマルコより洗練されたギリシャ語を書いている 『マルコ』だけの独自部分が少ない…)歴史的信憑性は比較的高いかもしれない福音書。

『マルコ』最古の写本には復活の記事が存在しない(16章9節以降)。現在の版も16章8~9節がギリシャ語で歪な接続になっているばかりか、文体・語彙が変化する(写本によってはストーリーが異なる復活譚が付随)。文体は14章から変化しているという指摘もある。

 ヨハネの手紙一 二 三
パウロ的観念を持つ(ヨハネ福音書を書いた)ヨハネ共同体の作と思われる。贖罪論、異端の糾弾、信者の結束を呼びかけた書。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16) 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。… わたしたちの罪を償う生贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4:9-10)

 ヨハネの黙示録
1世紀末、迫害者ローマ帝国の滅亡と、再臨のキリストによる希望を綴った預言書。新約文書に一貫して見られる黙示思想の集大成。(作者は不明)
「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」(黙示録17:18)

光の勢力が闇を駆逐するユダヤ教的終末観は、元はペルシャのゾロアスター教から伝播したもの。そしてこの書簡には
ペルシャの光の神ミトラからの剽窃が見られる。イエスの右手にある七つの星とは、ミトラの右手にある北斗七星(大熊座)のことであろう。「右の手に七つの星を持ち(黙示録1:16)」
http://homepage2.nifty.com/Mithra/Mihrijja_Mithra_and_Christ.html
>『ヨハネの黙示録』に記されているキリストはミトラそのものである。


怪奇で非現実的な描写がオカルト的脅迫に使われる事もあるが、ローマ帝国に拾われて晴れて世界宗教となった今、キリスト教が謝罪しつつ破棄すべき文書でもある。 黙示録、外れているその予言  ヨハネの黙示録とは

 テサロニケ人への手紙二
時が過ぎても終末が来ないことに疑いを抱いた懐疑論者を糾弾したパウロ名書簡。2章2節「私たちから書き送られたという手紙(※)によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」

※当時
偽パウロ書簡が出回っていた状況が示唆されている。しかし本書自体が偽パウロ書簡視されているのは面白い。読者も「騙されてはいけない」と警鐘を鳴らす本人がまさか偽証を実践しているとは思わない…一流の詐欺のテクである。(結びでも真筆をアピールしている)

 ユダの手紙
異端の不品行を非難した書。「ヤコブの兄弟ユダ」を名乗り、恐らくイエスの弟を自称している。

 ペテロの手紙一
信者の品行方正、権力への服従を説いた書。キリスト教に対するローマ帝国や異教徒からの「厄介者」の視線に対処している節があり、発生は皇帝からの迫害があった1世紀末が有力。
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(ペテロ一2:12-14)

 ペテロの手紙二
終末が来ないせいで増えた懐疑論者に腹を立てた著者が記した2世紀後半の書。「無学な人や心の定まらない人」をユダの手紙を盗作しながら攻撃している。ペテロ一の作者とは別人。
「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者達が現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」」(ペトロ二3:3-4)
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません」(ペトロ二3:8-9)

ペテロの手紙二 ユダの手紙
「また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました」
「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、… 永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています」 「この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します」「この者たちは、… 理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます」 「ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み」「金もうけのために「バラムの迷い」に陥り」 「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです」「実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です」 「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ」「終わりの時には、あざける者どもが現れ」

 ヘブライ人への手紙
パウロの作と思われて正典入りした匿名の書。しかし少し読んでも文体、論法がパウロとは大きく異なる。広範な旧約知識を華麗に流用したテーマはおよそパウロには書けない内容で、教養あるユダヤ人キリスト教徒の作であろう。

 ヤコブの手紙
「行いの伴わない信仰は死んだもの」として信じ込みを優先したパウロ的思想を否定した書。

新約聖書中稀にみる良書であるが、プロテスタントの開祖ルターが「無価値な"藁の書"」として正典から外そうとした事は有名。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2:14) 「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(ヤコブ2:24)

聖書訳文: 新共同訳  

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第四の福音書『ヨハネ』

2012-04-06 19:05:28 | 焚書/解体


現実の歴史ではない福音書の中でも発生の遅い
『ヨハネ』の特徴は一層の史実性の薄さ。イエスの生涯の中で圧巻である"ラザロの復活"が先行する福音書に全く登場していない時点で話が創作だと見抜けなければならない。







 著者
ヨハネ21:24
「これらの事について証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」
 
文中で著者は直弟子(使徒ヨハネ)ではないこと、また宣教目的で書いた旨も告白している。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため…」(ヨハネ20:31)

 独特の構成
【独自の発言集】
『ヨハネ』にはイエスが一人称
わたしはで語り掛ける台詞が100を超える勢いで登場する。この形式は『マルコ』には数える程しかない。
【独自の物語】
ヨハネ伝の内容は胸のすくイエスの奇跡譚。言行録というよりは完全な比喩、形而上学的表現で構成されている。パンを増やす6章 -「わたしが命のパンである」(6:35) 盲人を癒す8章 - 「わたしは世の光である」(8:12) ラザロを蘇生する11章 - 「わたしは復活であり、命である」(11:25)
【伝道期間】
およそ3年間というイエスの伝道期間はこの史実性の薄い『ヨハネ』に基づいている(3度の過越祭の記述(2、6、11章))。


 神殿の浄化
ヨハネ2:15-16
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」」
 
イエスが商人達を追い払うエルサレム神殿事件が『ヨハネ』では序盤(2章)に登場する。共観福音書ではこの行為がユダヤ当局の不安を買い逮捕に繋がるが、『ヨハネ』ではイエスを十字架送りにするのは蘇生事件の衝撃なのである。

「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」」(ヨハネ11:47-48)


 異教的な救世主像
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
ヨハネ独特の語りは明らかにエジプトのテキストにヒントを得ている。イエスは道であり、エジプトの神ホルスも救済への道であった。イエスは世の光であり、ホルスもまた神の光であった。イエスは命のパンであり、ホルスもまた神の穀物であった。
「我は栄光のホルスなり」「我は神の光なり」「我こそは天への道を知る者なり」(『エジプト死者の書』78章)


 ラザロとは誰か
ラーとも互換性のあるもう1人のエジプトの太陽神も『ヨハネ』には出演している。イエスは「眠っているだけだ」と言いラザロを墓場から蘇生する。ホルスは「出よと命じられるのを待ちながら、自身の安息の場アヌで死にはせず、眠っている」父オシリスを墓場から蘇らせる。

オシリス(ギリシャ名)の古代名[アサル]にヘブライ語の冠詞を足すとエルアサル。ラザロのヘブライ名はエルアザル(旧約のエルアザル)。
http://freett.com/wolf_man/mcr/mokuji_eg.htm
>キリスト教ではラザルス


 贖罪論
歩いておられるイエスを見つめて 「見よ、神の小羊だ」と言った(ヨハネ1:36)
イエスの処刑日は『ヨハネ』では木曜日過越祭の前日に変更されている。
これは過越祭の準備日の正午過ぎに祭司(ラビ)が
過越の小羊を屠るしきたりにイエスを重ね合わせた描写であると言われている。
「(処刑決定は)過越祭の準備の日の、正午ごろであった」(ヨハネ19:14)
「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(マルコ15:25)


『マルコ』『マタイ』のイエスは死に際して絶望し切っており、共観福音書にパウロ的な贖罪論の色は薄い。『ヨハネ』のみがイエス=「世の罪を取り除く生贄」と説明している唯一の書である点に注目していただきたい。


 見ずに信じる者は幸いである
ヨハネ20:29
イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。
 
考えずに信じ込む事が信仰、吟味・検証したりする事が神への背信・不信仰に当たるとしたら…それはもはやマインド・コントロールに他ならない。

思考停止に陥りただ信じ込むロボットになれと命じるこの“み言葉”は、半開きの口のまま世界中で人間狩り、特大規模上のゆすりを続けたキリスト教洗脳兵士と明らかに響き合っているように思える。 (『ヨハネ』のみの記述)

考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」 「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」 - キリスト狂信者に殺害(415年)された知識人ヒュパティアの言葉

画像出典:  

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『ルカ』と『使徒行伝』

2012-03-28 01:51:31 | 焚書/解体


『マタイ』は不当な脚色を加えたために叙事の正確性が疑わしい物になってしまった。『ルカ』+『使徒行伝』(ルカの第2巻:文体、語彙、序文が類似)も同様に不安定な存在を確立している部分に触れてみたい。


 住民登録令
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が
出た」 (ルカ2:1)
 
"自分の出身地へ赴かなければならない登録令のためにヨセフとマリアはナザレから生まれ故郷ベツレヘムへ旅立った。"
ナザレ-ベツレヘムの距離は約150㎞(直線距離120㎞弱)。地図で分かる通りがそびえ立つ臨月を迎えた妊婦には厳しい道程だ。(やるせない事に『マタイ』の一家は移動するまでもなくベツレヘムに(マタイ2:11)を持っている)

徴税目的である戸籍登録は居住地(ナザレ)で行えば良く、ルカ方式で仕事と居住地を離れて全住人が移動を始めた際の
全ローマ的な大混乱は想像に難くない。歴史に痕跡がないこの話はやはり創作色が強いだろう。


 ルカの加筆
マルコ15:31-32
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
ルカ23:39-43
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ルカの2書はテオフィロという人物(地域の支配者?)に献呈する形で記されている。当時からキリスト教は世間体が悪く、教祖を“無実の人”(十字架刑は国家反逆罪に適用)として強調する事に労を割いたような跡が見られる。
「百人隊長が.....「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(マルコ15:39)
「百人隊長は.....「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」(ルカ23:47)


 復活後顕現するイエス
マタイ28:10、16-17
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」
… さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。
ルカ24:49
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、にとどまっていなさい。」
使徒1:4
彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」
『マタイ』ではイエスが二人の女性の前に現れ、その指示通り(エルサレムから)ガリラヤへ向かった弟子達がイエスと山で再会を果たす。
『ルカ』のイエスはエルサレムにいる弟子達にそのまま現れ、エルサレムに留まることを命じる。弟子達は100km以上離れたガリラヤとエルサレムのどちらでイエスに会ったのだろうか?

 ユダの死
マタイ27:5
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首を吊って死んだ。
使徒1:18-19
(彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。)
記者は互いの福音書を知らなかったと考えられ、家系の他、ユダの死についても示し合わせる事ができなかったようだ。

 血の土地
マタイ27:6-8
祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
使徒1:19
そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)
両者ともユダの報酬を「血の土地」の逸話に結び付けている。しかし土地を買ったのが祭司なのかユダなのか、名の由来は血の金だからなのかユダの血が飛び散ったせいなのか、両者は齟齬を来している。

 回心後のパウロの行動
ガラテヤ人への手紙1:15-20
神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、
すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 ほかの使徒にはだれにも会わず、
ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 わたしがこのように書いている事は、神の御前で断言しますが、嘘をついているのではありません。
使徒9:18、26-27
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、…

サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
神秘体験によって改宗した後のパウロはエルサレムには「向かわず」、使徒とも「会わなかった」点を強調している。自身の教義が他の誰にもよらない“天から下された啓示”であることを権威付ける目的で神にまで誓っているのではないだろうか。

ところが、使徒行伝では改宗後一路エルサレムへ向かい、使徒とも協議した事になった。恐らく何らかの理由で『使徒行伝』作者は事実を改竄したのだろう。

 ダマスコ途上の幻視
使徒9:3-5
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」
サウロの神秘体験は3度この使徒行伝において語られ、相互に矛盾する内容になっている。
1) 降り注いだ光によって、サウロは地に倒れた。同行者はイエスの声は聞こえても、光や人の姿は見えず、ただ突っ立っていた。(使徒9:4-7)
2) 一緒にいた人々は、その光を見たが、パウロに語りかけたイエスの声は聞かなかった。(使徒22:9)
3) 「私達が皆地に倒れた時」(使徒26:14) (1)"他の人は立っていた"という記述と矛盾する。

パウロに比重がある時点でルカグループは異邦人伝道を趣旨とする姿勢が鮮明だ。マタイが地震を起こしたように、ルカも奇跡の安売りをして墓穴を掘ったのだろう。


『使徒行伝』は他にもパウロの真筆と食い違う部分が多く、記述の正確性が疑問視されている。『使徒行伝』のみを典拠とする事実 
・パウロがタルソス出身であること ・ローマ帝国の市民権を持つこと ・テント造りが生業であること ・エルサレムで逮捕され投獄されたこと― 等について批評家は懐疑的だという。

画像出典: Cherished Travel 

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イエスは預言のメシアか

2012-03-18 09:17:21 | 焚書/解体


マタイ福音書の特徴と言えば、旧約聖書の言葉を盛んに引用して“旧約預言の成就”としてのイエスを描く事に腐心している点にある。

しかし敬虔な不正行為が発覚した「14世代作戦」同様、熟読すると頓珍漢な聖句引用の繰り返しが目立っている。自慢気に披露された偽りを並べてみよう。

1章22-23節
全ての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」
引用元 イザヤ7:14
この詩はイザヤがアハズ王の子(ヒゼキヤ王)に期待して残した預言であり旧約の時代だけで完結した文を引用している。

「処女」という語は不適当な訳語 [イザヤの原文(ヘブライ語:アルマ)は処女の意までを含まない] とされ、処女降誕の預言として用いられたとすれば、マタイはギリシャ語訳(パルテノス=英語のバージン)の聖書を読んでミスを犯した事になりそうだ。
(マタイの訳文…「処女」:新改訳・現代訳・回復訳・新世界訳 「乙女」:共同訳・新共同訳・口語訳・フランシスコ会訳・岩波訳)
詳細: http://ja.wikipedia.org/wiki/処女懐胎

2章6節
「ユダの地、ベツレヘムよ。お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さい者ではない」
引用元 ミカ5:2
文意を変更しながら引用している。ミカ書5章
「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中で最も小さい者だが....」  イエスの出身地は『ルカ』ではナザレ、『マタイ』ではベツレヘムなのだ。

2章15節
「わたしは、エジプトからわが子を呼び出した」
 引用元 ホセア11:1
 唯一、難癖の付けられない預言。

21章5節
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」
引用元 ゼカリヤ9:9
字面(詩的な反復法)に囚われるあまり、哀れにもろばの数が増えてしまった。 
ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(マタイ21:7)
他の福音書は1頭。
「子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(マルコ11:7)

27章9節 (ユダの裏切り)
「こうして、預言者エレミヤを通して言われていた事が実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である」」
引用元 ?
エレミヤ書、旧約続編エレミヤの手紙にもこの預言はない。ゼカリヤ書11章の引用と思われるがユダの裏切りや処遇についての記述は特にない。また『使徒行伝』ではダビデの預言(詩篇)が成就した事になっている。

12章40節 (イエスの予言)
「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」
イエスは金曜日の午後に埋葬され日曜日の朝には復活。よってイエス自身の予言までも外れてしまった。(『マタイ』のみの発言)

マタイの加筆: 墓を見に行った女達
マルコ16:4 石は既にわきへ転がしてあった。 ルカ24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり
ヨハネ20:1 墓から石が取りのけてあるのを見た。 マタイ28:2-3
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

十字架の場面
マルコ15:37-38  イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
マタイ27:50-52 イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、
地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。


『マタイ』は『マルコ』を下敷きにして書かれた事が通説であるため上記はマタイの加筆になる。最もユダヤ的な良書とされる『マタイ』でも、ギリシャのロマンチックなフィクションと競合した跡を残しているのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


バビロン捕囚を解放したペルシャ王
キュロス、神殿を再建したゼルバベルが聖書内でメシア(油の子)視されているのはユダヤ教のメシア観を良く表している。 (イザヤ書、ゼカリヤ書)
「主は油注がれた者キュロスに、こう仰せられた」 (イザヤ45:1)

政治的に無名で、ローマ帝国からの解放と王政復古の率先者でもない男に関するメシア預言がある筈もなく、恐らくマタイの目的の為には、使えそうな記事を適当にイエスに切り貼りするよりなかった。その中に聖書の盗難を訴えるユダヤ教徒を納得させるような物は残念ながら1つもないだろう。

1世紀に実在の物証が皆無である急造救世主の悲劇の構成の露出は、キリスト教の諸設定が自らの宗教を広めたいヘレニスト達による神聖なでっち上げに過ぎなかったという結論をいよいよ不可避にしているように思われる。


画像出典: CoolChaser 

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イエス家系図の矛盾

2012-03-03 19:04:46 | 焚書/解体


福音書は多様なキリスト教集団が問答集や宣教文書として保持していた代物で20種類以上が知られている。

"史実"を記録した書物とは言い難く、熟読すると各派の言いたいようにイエスの口が操られているのが判る。異なるイエスの家系図を書いた2つのグループの福音書を比較してみよう。
■聖書が完璧ではないわけ(聖書が人間の書物であるわけ) - 三十番地キリスト教会

旧約聖書 ルカ
アダム
セト
エノシュ
ケナン
マハラルエル
イエレド
エノク
メトシェラ
レメク
ノア
セム
アルパクシャド
シェラ
エベル
ペレグ
リウ
セルグ
ナホル
テラ

アブラハム
アダム
セト
エノシュ
ケナン
マハラルエル
イエレド
エノク
メトシェラ
レメク
ノア
セム
アルパクシャド
カイナム
シェラ
エベル
ペレグ
ナホル
テラ

アブラハム
マタイ ルカ
アブラハム
イサク
ヤコブ
ユダ
ペレツ
ヘツロン
アラム
アミナダブ
ナフション
サルモン
ボアズ
オベド
エッサイ
ダビデ
アブラハム
イサク
ヤコブ
ユダ
ペレツ
ヘツロン
アルニ
アドミン
アミナダブ
ナフション
サラ
ボアズ
オベド
エッサイ
ダビデ
ソロモン
レハブアム
アビヤ
アサ
ヨシャファト
ヨラム

ウジヤ
ヨタム
アハズ
ヒゼキヤ
マナセ
アモス
ヨシア
エコンヤ
(バビロン捕囚)
ナタン
マタタ
※1
メンナ
メレア
エリアキム
ヨナム
ヨセフ
ユダ
シメオン
レビ
マタト
ヨリム
エリエゼル
ヨシュア
エル
エルマダム
コサム
アディ
メルキ
ネリ
シャルティエル
ゼルバベル
アビウド ※1
エリアキム
アゾル
ツァドク
アキム
エリウド
エレアザル
マタン
ヤコブ
ヨセフ
イエス
シャルティエル
ゼルバベル
レサ
ヨハナン
ヨダ
ヨセフ
セメイン
マタティア
マハト
ナガイ
エスリ
ナウム
アモス
マタティア
ヨセフ
ヤナイ
メルキ
レビ
マタト
エリ
ヨセフ
イエス
※1: 以下典拠不明

『ルカ』のイエスの血統はアダムまで遡る壮大な系図だ。旧約聖書に通じた集団を相手にした『マタイ』とは違い、アダムやアブラハムを知らない異邦人にもイエスが広く人類の救世主である事を周知しているように見える。(もっとも処女懐胎のためナンセンスな連結だが…) 「このアダムは神の子である」(ルカ3:38)

旧約の引用が『ルカ』より正確な『マタイ』はアブラハム→ダビデ→バビロン移住→キリストが各
14世代で移行したと主張する。つまり旧約の神の計画によってキリストが誕生したその正統性を(ユダヤ教徒にまで)誇示しているようだ。

ところが、最後の区間は13世代しかいない。また旧約聖書をお持ちならこの系譜の偽善的な操作を確認できる。

ヨラム-ヨタム間
(ヨラム-ウジヤ-ヨタム)は『歴代誌I』3章では6代(ヨラム-アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ-アザルヤ-ヨタム)だ。(ウジヤ=アザルヤ(参照:歴代誌II26:1)) エコンヤの父も本来の「エホヤキム」を削除して、計18代の系図を意図的に4代カットしているのだ。

両者共旧約の人物
ゼルバベル(BC597~)を経由している。ゼルバベルはバビロン捕囚解放後ペルシャ王キュロスの資金援助で第二神殿を再建(BC515)した功労者だが、『マタイ』がイエスまでの約600年を11代で繋いでいるのはいかにも苦しい。ここは20代を挟んだ『ルカ』の方が妥当性があるだろう。『マタイ』は14に拘るあまりここでも自滅しているように見える。



信じやすい異教徒のためのゴスペル

福音書は彼らの教祖を信じさせたい信者が様々な工夫を凝らした宣伝文書であって、真実を告げる歴史の派生物とは解釈し難い。

家系図に相違が多過ぎるため「『ルカ』の方はマリアの系図です」と言い繕う人も稀にいる。しかしシャルティエル・ゼルバベル親子を通した時点で少なくとも片方は間違いでどちらも殆ど信憑性がない事は否定できなくなるだろう。

不遜と過信の果てに人間をはたき殺し「良く読んだら人間の文書でした」では済まされない。自分の信じているモノに責任くらい持つべきではなかろうか?


画像出典: 






 
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イエス教徒とは

2012-02-24 22:20:23 | 焚書/解体


新約の四福音書は1世紀には
『マタイによる』 『ルカによる』等の標題がまだない匿名の書で、厚顔無恥な偽証を企図したパウロ名書簡とは異なる“偽りの著者名を与えられた偽名書”である。

記者は恐らく使徒ではなくイエスを直接知らない、教育程度の高い都市部にいたキリスト教徒。それを裏付けるように作中田舎地方ガリラヤの地理が大きく乱れている。内容の類似性は主に先行する福音書を模写したため。





肝心のイエスの物語はご覧の通りエジプトの太陽信仰に属する物語を中心的素材に、ユダヤ的肉付けをした神話の二番煎じ。イエスの有名な説教の多くも旧約聖書の焼き直しである。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ」 (申命記6:5)
「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づるすべての言葉による」 (申命記8:3) 「自分自身を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ」 (レビ記19:18)


4世紀にローマ帝国の支配のためキリスト教が国家権力の座に着いた時、信徒は異教との結合を示すあらゆる記録の抹殺に忙しかった。悪名高いエジプトのセラピス神殿とアレクサンドリア図書館の破壊、人気女性哲学者ヒュパティアの殺害は映画の題材にもなっている。
『アレクサンドリア』 感想サイト

信者の
病的な憤怒は自身が古代の世界の最終的な混合物(パクリ)である事への自覚に由来していた面もあったのだろう。暗黒の数世紀の幕開けを暗示するかのような恐喝を前に、人々は次々にキリスト教へ改宗していった。

福音書からイエス本来の人格や生活を救い出すことはもはや難しいが、殆どない新約のオリジナル部に焦点を当てることでイエスが本当は何者であったのか、人類の病は何故生まれてしまったのかを浮かび上がらせる事ができるだろう。勘の良い人は薄々気付いているように、パウロを取り除けばイエス教が世界宗教として存続できる気配は微塵もないのである。






救世主か?
新大陸を発見したコロンブスは翌年、嬉々としてカナリア諸島(北アフリカ)から
サトウキビを植え付けに行ったという。

ユダヤ教で言う
原罪とは間違いなく人間が私利のために盗み、貪り、怒る意地汚い性質を指すので、キリスト教史のどこを見ても「癒されている」とは判定しない。罪なる性質からの解放者として既に天の賜り物があるのに神が救世主を派遣する必要がどこにあろうか。



キリスト教に過去の横暴を問えば、それは人間の性質のみが罪深かったと言う。だが私達は人間を信じる。キリスト教の教理そのものに何か非人間的な物が紛れ込んでおりそれが生への公正さ、真剣さ、精神力を完全に消し去ってしまう。キリスト教は人間の善性への恥辱であり、人類の歴史で最悪の災害である。


画像出典: jesusneverexisted.com 






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にせパウロ書簡とは

2012-02-15 22:35:08 | 焚書/解体


新約聖書の半数を占めるパウロ書簡のうちパウロの真筆と一般に認められているのは7つ。残りの6つはパウロが建てた教会やその系統の諸教会を指導する目的で
パウロの権威を借りて書かれた「第二パウロ書簡」として認識されている。その判断の論拠を簡単に並べてみたい。

パウロの名前で書かれた書簡(第二書簡)
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sinyaku.html

敬虔な律法主義的ユダヤ人キリスト者から見ると、自由で解放的な異邦人キリスト者の振る舞いは問題でした。パウロ亡き後、パウロ教会・第二世代の指導者は非難に応え、教会の秩序維持と倫理の適正化をはかり、異邦人信徒の品位を高めようと、教会の回読用として、再三書簡を送ります。


『テサロニケ信徒への手紙二』
(90年代?)
『テサロニケ一』の数十年後に黙示思想の観測上の変化から現れた書簡と見られている(異論もある)。文体はパウロ似。(偽書簡を意識してか)巻末に真正を示す判を押しているが、これはパウロのどの書にも見られない。
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます」(3:17)

『エフェソ信徒への手紙』 (80~100年頃)
文体や語彙のほか要所での主張もパウロと異なっている。短く簡潔な文を書くパウロとは対照的な長文(例:1章3節~14節が一文)が特徴。
『エフェソ』に出てくる100前後の文のうち、9つは50以上の単語から構成されている。例えば『フィリピ』に登場する102の文のうち、50以上の単語を持つ文はたった1つだ。181の文から成る『ガラテヤ』でも、同じく1つしかない。加えて『エフェソ』には、パウロの文書では見られない言葉が頻出する。その数は何と116語に上り、優に半分以上だ(例えば、ほぼ同じ長さの『フィリピ』の5割以上)。(引用:『キリスト教の創造』バート.D.アーマン著)

『コロサイ信徒への手紙』 (80年代)
『エフェソ』同様異邦人改宗者にユダヤの律法を守る必要がない事を説いている。高度な解析から、こちらも他人の筆を真似る難しさを露呈している。
■「反意接続詞」(例えば「~にも関わらず」)の頻度
『ガラテヤ』は84回、『フィリピ』は52回、『テサロニケ1』は29回、
『コロサイ』はたった8回
■因由接続詞(例えば「なぜなら」)の頻度
『ガラテヤ』は45回、『フィリピ』は20回、『テサロニケ1』は31回、
『コロサイ』はたった9回
■名詞節に繋がる従位接続詞(例えば「~ということ」や「~の時に」)の頻度
『ガラテヤ』は20回、『フィリピ』は19回、『テサロニケ1』は11回、
『コロサイ』はたった3回 (引用:同上)

『テモテ一・二』『テトス』 (2世紀) - 牧会書簡
エフェソの牧者テモテ、クレタ島の牧者テトスに宛てる形で書かれた指導書。司祭・助祭の任命法などパウロの時代になかった教会制度(階級制)を論じている。作者は同一(?)。全848語中306語がパウロの文書にないもの、加えて2世紀の関係者に常用された語句が多いという。2世紀前半のパウロ信奉者・マルキオンの正典にもこの3書が含まれておらず発生が新しい可能性がある。



わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)


『マタイ』のイエスはパリサイ派にも勝って
律法を遵守しなければ神に認められないと厳しく戒めている(マタイ5:17~20)。律法を無効としたパウロの救済論がパウロの死後に現れた福音書の救済論と噛み合っていない点からも、パウロ思想が1世紀から教団の中心部に結び付いていたとは判断し難い。その上で偽名パウロ書簡などにどの程度の権威があるのか考察の余地はあろう。

画像出典: jesusneverexisted.com 






 
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