食と世界

食と世界についての雑記 菜食・断食の勧め

キリスト教偽典群

2012-04-22 07:54:01 | 焚書/解体


モーセ五書(トーラ)の作者がモーセであるというイエスら昔のユダヤ人が信じていた説は現代聖書学ではほぼ否定されている。 旧約聖書成立の概要

コヘレトの言葉(伝道の書)も、前10世紀のソロモンではない誰かが600年以上後の時代に記したらしい。

紀元前から
文書偽造を領分としていたユダヤ人は、キリスト教世界では反論、問題解決の為に文書を使った。そしてそれらは使徒によって書かれたものだとした。正典入りしなかった外典の中にも一読の価値のある物が多い。


 ペテロの黙示録
神からの秘密の黙示による天国・地獄の見聞録。『ヨハネの黙示録』と最後まで正典入りを争った正統派の書。

 べテロ行伝
イエスの死後、神通力を得たペテロがマグロや人間を生き返したり、円形闘技場で魔術師シモンと奇跡対決をするペテロ外伝。2世紀以降このような伝説的資料を書くことは、人気の文学的な書式だった。

 ペテロの手紙
ペテロからイエスの兄弟ヤコブに宛てる形で書かれた偽名書。"ユダヤの律法に効力がない"かのように語るある違法なキリスト教徒を断罪している。

邪悪な教えを広める
「私の敵である男」とは、パウロの事である。作者はパウロと対立したペテロ(『ガラテヤ』2章)の権威を借りて、パウロの思想を非難しているのだ。

 偽クレメンス文書
上の手紙を序文とする、クレメンス(ペテロに任命された司教)の一人称で綴られるペテロとの冒険譚。この文書における敵役・魔術師シモンは、パウロに重ねられている。
「私(ペテロ)は彼(シモン)の後から来て、彼を凌駕した。ちょうどを、知識無知を、癒しを凌駕するように」(2章17節)
「あなたは言った、…イエスの言葉を幻影から聞いたのだから、イエスの説く教義を私より理解していると… だが、幻影や幻視や夢を信じる者は地に足がついていない。… 信頼している相手が、言葉巧みに正体を誤魔化す邪悪な悪霊か、人をたぶらかす霊かもしれないからだ」

「誰が幻影によって教えるに相応しい者だと認められるというのか? もしあなたが「できるとも」と言うなら、私は
「なぜ私達の教師は、目覚めている者達に、一年もの時間を費やして、忍耐強く教えを説いたというのか?」と問い返すだろう。… キリストの教えに背く考えを抱くあなたに、キリストはどうして姿をお現しになられたというのか?」(17章)

一瞬の幻視に立脚した教義が、一年間もイエスに師事し礎(ペテロ=岩)の任命を受けた自分のそれに勝るはずがない…それが本書におけるペテロの主張である。

 パウロ行伝
パウロの宣教、奇跡物語、女性テクラとの冒険譚。本書の外典『コリント人への手紙三』は異端(グノーシス)的見解をパウロの権威で厳しく否定した書。

 ペテロによる福音書
1886年、エジプトの発掘作業中に出土した2世紀の福音書(断片)。正典福音書にはないイエスが墓から出る場面が描写されている。歩いたり喋ったりする十字架が登場する幻想的な内容。 ペテロによる福音書 - Wikipedia

パウロとセネカの往復書簡
同時代の知識人がパウロを一切知らなかった事態を打破するために書かれた14通の偽書簡。

 ポンティオ・ピラトの報告書
ピラトにイエスの潔白と、行った奇跡の偉大さを報告させた文書。イエスが死ぬと地を暗闇が覆い、復活後は光が差し、地震が起きて大勢のユダヤ人が裂け目に飲み込まれたという。

キリスト教の外典を語る上で避けて通れないのが激しい
反ユダヤ主義の性格である。下記『ピラト行伝』では悪名高い「その血の責任は我々と子孫にある」(『マタイ』27章)が3度も宣言される。

 ピラト行伝(ニコデモ福音書)
法廷にイエスが呼ばれると、旗持ちの2名が勝手に頭を下げカエサルの旗がイエスにお辞儀をする。ユダヤ人指導者が怒って十二名の屈強な旗持ちを用意するが、再入廷したイエスに旗がまたもお辞儀してしまう。ピラトは恐れおののきイエス釈放を試みる。しかし、ユダヤ当局が頑強に死罪を要求し…

4世紀に生まれた当文書のラテン語版は中世の欧州でも人気を博したという。どれほどのユダヤ人への邪悪な暴力を助長したのか、知る由もない。

 トマスによる福音書
1945年にエジプトのナグ・ハマディから出土した2世紀のグノーシス派の福音書。イエスの114の説教から成り(死と復活の記述はない)、忌まわしい肉体の檻から抜け出るための秘密の知識(グノーシス)が、半ば暗号化したイエスの言説で語られる。 トマスによる福音書 - Wikipedia
「死人達は生きないであろう。そして、生ける者達は死なないであろう。あなた方が死を食う日に、あなた方はそれを生かすであろう」(11章)


Q資料

『マタイ』と『ルカ』だけにある並行箇所が本書にも発見され、初期キリスト教内で出回っていたと考えられる未発見の『語録資料Q』の存在が裏付けられた。
Q資料

.トマスによるイエスの幼時物語
イエスが奇跡で悪ふざけをする5~12歳の頃の物語。

子供が走ってきてイエスにぶつかるとイエスは怒りその子に言った。「お前は父親の所には帰れまい」その子はたちどころに死んでしまった。

ヨセフは教育を受けさせようと教師の下へイエスを送った。しかし何の効果もない。挙句、傲慢な態度に教師は怒り、イエスの頭をぶった。イエスが呪うと、たちまち教師は死んだ。ヨセフはイエスを家に連れて帰り、マリアに命じた。「この子を外に出すな。この子を怒らすと誰でも死んでしまう」…
 






パウロから始まる様々な手紙・福音書は、“聖書”に比肩する物として書かれた訳ではない。あくまで外典・参考文献的であった文書群を旧約聖書にドッキングさせたのは、ローマ帝国の政治の安定の為であった。

それを「神の言葉」だと言うなら、キリスト教が今もローマ皇帝の前に跪いている事実を受容せねばなるまい。

参考文献: 『キリスト教の創造』 バート.D.アーマン著 津守京子訳 柏書房  






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残りの藁の書

2012-04-13 00:31:04 | 焚書/解体


ここにあるような検証は勿論いつの時代でも可能だったが、迷惑な事に、新約聖書はそう遠くない時代まで見ずに信じた人々による
傲慢・侵略戦争・ユダヤ人迫害の隠れ蓑とされて来た。人類史の汚染源となった残りの文書も概要を纏めてみたい。

 マルコによる福音書
『マタイ』と『ルカ』の底本になった最古の福音書という説が19世紀以降有力。(両者とも所々『マルコ』のギリシャ語が丸写しになっている 両者ともマルコより洗練されたギリシャ語を書いている 『マルコ』だけの独自部分が少ない…)歴史的信憑性は比較的高いかもしれない福音書。

『マルコ』最古の写本には復活の記事が存在しない(16章9節以降)。現在の版も16章8~9節がギリシャ語で歪な接続になっているばかりか、文体・語彙が変化する(写本によってはストーリーが異なる復活譚が付随)。文体は14章から変化しているという指摘もある。

 ヨハネの手紙一 二 三
パウロ的観念を持つ(ヨハネ福音書を書いた)ヨハネ共同体の作と思われる。贖罪論、異端の糾弾、信者の結束を呼びかけた書。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16) 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。… わたしたちの罪を償う生贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4:9-10)

 ヨハネの黙示録
1世紀末、迫害者ローマ帝国の滅亡と、再臨のキリストによる希望を綴った預言書。新約文書に一貫して見られる黙示思想の集大成。(作者は不明)
「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」(黙示録17:18)

光の勢力が闇を駆逐するユダヤ教的終末観は、元はペルシャのゾロアスター教から伝播したもの。そしてこの書簡には
ペルシャの光の神ミトラからの剽窃が見られる。イエスの右手にある七つの星とは、ミトラの右手にある北斗七星(大熊座)のことであろう。「右の手に七つの星を持ち(黙示録1:16)」
http://homepage2.nifty.com/Mithra/Mihrijja_Mithra_and_Christ.html
>『ヨハネの黙示録』に記されているキリストはミトラそのものである。


怪奇で非現実的な描写がオカルト的脅迫に使われる事もあるが、ローマ帝国に拾われて晴れて世界宗教となった今、キリスト教が謝罪しつつ破棄すべき文書でもある。 黙示録、外れているその予言  ヨハネの黙示録とは

 テサロニケ人への手紙二
時が過ぎても終末が来ないことに疑いを抱いた懐疑論者を糾弾したパウロ名書簡。2章2節「私たちから書き送られたという手紙(※)によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」

※当時
偽パウロ書簡が出回っていた状況が示唆されている。しかし本書自体が偽パウロ書簡視されているのは面白い。読者も「騙されてはいけない」と警鐘を鳴らす本人がまさか偽証を実践しているとは思わない…一流の詐欺のテクである。(結びでも真筆をアピールしている)

 ユダの手紙
異端の不品行を非難した書。「ヤコブの兄弟ユダ」を名乗り、恐らくイエスの弟を自称している。

 ペテロの手紙一
信者の品行方正、権力への服従を説いた書。キリスト教に対するローマ帝国や異教徒からの「厄介者」の視線に対処している節があり、発生は皇帝からの迫害があった1世紀末が有力。
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(ペテロ一2:12-14)

 ペテロの手紙二
終末が来ないせいで増えた懐疑論者に腹を立てた著者が記した2世紀後半の書。「無学な人や心の定まらない人」をユダの手紙を盗作しながら攻撃している。ペテロ一の作者とは別人。
「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者達が現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」」(ペトロ二3:3-4)
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません」(ペトロ二3:8-9)

ペテロの手紙二 ユダの手紙
「また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました」
「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、… 永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています」 「この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します」「この者たちは、… 理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます」 「ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み」「金もうけのために「バラムの迷い」に陥り」 「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです」「実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です」 「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ」「終わりの時には、あざける者どもが現れ」

 ヘブライ人への手紙
パウロの作と思われて正典入りした匿名の書。しかし少し読んでも文体、論法がパウロとは大きく異なる。広範な旧約知識を華麗に流用したテーマはおよそパウロには書けない内容で、教養あるユダヤ人キリスト教徒の作であろう。

 ヤコブの手紙
「行いの伴わない信仰は死んだもの」として信じ込みを優先したパウロ的思想を否定した書。

新約聖書中稀にみる良書であるが、プロテスタントの開祖ルターが「無価値な"藁の書"」として正典から外そうとした事は有名。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2:14) 「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(ヤコブ2:24)

聖書訳文: 新共同訳  

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第四の福音書『ヨハネ』

2012-04-06 19:05:28 | 焚書/解体


現実の歴史ではない福音書の中でも発生の遅い
『ヨハネ』の特徴は一層の史実性の薄さ。イエスの生涯の中で圧巻である"ラザロの復活"が先行する福音書に全く登場していない時点で話が創作だと見抜けなければならない。







 著者
ヨハネ21:24
「これらの事について証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」
 
文中で著者は直弟子(使徒ヨハネ)ではないこと、また宣教目的で書いた旨も告白している。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため…」(ヨハネ20:31)

 独特の構成
【独自の発言集】
『ヨハネ』にはイエスが一人称
わたしはで語り掛ける台詞が100を超える勢いで登場する。この形式は『マルコ』には数える程しかない。
【独自の物語】
ヨハネ伝の内容は胸のすくイエスの奇跡譚。言行録というよりは完全な比喩、形而上学的表現で構成されている。パンを増やす6章 -「わたしが命のパンである」(6:35) 盲人を癒す8章 - 「わたしは世の光である」(8:12) ラザロを蘇生する11章 - 「わたしは復活であり、命である」(11:25)
【伝道期間】
およそ3年間というイエスの伝道期間はこの史実性の薄い『ヨハネ』に基づいている(3度の過越祭の記述(2、6、11章))。


 神殿の浄化
ヨハネ2:15-16
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」」
 
イエスが商人達を追い払うエルサレム神殿事件が『ヨハネ』では序盤(2章)に登場する。共観福音書ではこの行為がユダヤ当局の不安を買い逮捕に繋がるが、『ヨハネ』ではイエスを十字架送りにするのは蘇生事件の衝撃なのである。

「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」」(ヨハネ11:47-48)


 異教的な救世主像
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
ヨハネ独特の語りは明らかにエジプトのテキストにヒントを得ている。イエスは道であり、エジプトの神ホルスも救済への道であった。イエスは世の光であり、ホルスもまた神の光であった。イエスは命のパンであり、ホルスもまた神の穀物であった。
「我は栄光のホルスなり」「我は神の光なり」「我こそは天への道を知る者なり」(『エジプト死者の書』78章)


 ラザロとは誰か
ラーとも互換性のあるもう1人のエジプトの太陽神も『ヨハネ』には出演している。イエスは「眠っているだけだ」と言いラザロを墓場から蘇生する。ホルスは「出よと命じられるのを待ちながら、自身の安息の場アヌで死にはせず、眠っている」父オシリスを墓場から蘇らせる。

オシリス(ギリシャ名)の古代名[アサル]にヘブライ語の冠詞を足すとエルアサル。ラザロのヘブライ名はエルアザル(旧約のエルアザル)。
http://freett.com/wolf_man/mcr/mokuji_eg.htm
>キリスト教ではラザルス


 贖罪論
歩いておられるイエスを見つめて 「見よ、神の小羊だ」と言った(ヨハネ1:36)
イエスの処刑日は『ヨハネ』では木曜日過越祭の前日に変更されている。
これは過越祭の準備日の正午過ぎに祭司(ラビ)が
過越の小羊を屠るしきたりにイエスを重ね合わせた描写であると言われている。
「(処刑決定は)過越祭の準備の日の、正午ごろであった」(ヨハネ19:14)
「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(マルコ15:25)


『マルコ』『マタイ』のイエスは死に際して絶望し切っており、共観福音書にパウロ的な贖罪論の色は薄い。『ヨハネ』のみがイエス=「世の罪を取り除く生贄」と説明している唯一の書である点に注目していただきたい。


 見ずに信じる者は幸いである
ヨハネ20:29
イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。
 
考えずに信じ込む事が信仰、吟味・検証したりする事が神への背信・不信仰に当たるとしたら…それはもはやマインド・コントロールに他ならない。

思考停止に陥りただ信じ込むロボットになれと命じるこの“み言葉”は、半開きの口のまま世界中で人間狩り、特大規模上のゆすりを続けたキリスト教洗脳兵士と明らかに響き合っているように思える。 (『ヨハネ』のみの記述)

考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」 「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」 - キリスト狂信者に殺害(415年)された知識人ヒュパティアの言葉

画像出典:  

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