ベッドの下の荷物の中から、35歳の時に渋谷駅前にあったN音楽事務所に遊びに行った時の写真が出てきた。米国人の友人ジョン.ベイッン(J.B)と売り出し中のまだ20歳代で歌のレッスンに来ていた新人歌手の白井貴子さんと事務所の経営者である作曲家の杉山こういちさんと自分の4人の写真。自分で言うのも変だが、今みると35歳というのはまだ子供っぽい顔である。昨日のブログに書いた音楽プロダクションのT社長はJ.Bから紹介されたし、長男が1歳の頃は、J.Bも時折遊びに来て息子の面倒を見てくれた。肖像権の問題で写真はUPできないけど、この写真を見て思い出す事が一杯ある。J.Bは最初は山口百恵、次は岩崎宏美、その次はアン・ルイスのバックバンドのドラマ-として活躍していた。米国に帰国する前はブレッドアンドバタ-が最後に所属していたバンドで,時折アルバイトで来日した外人歌手がミュ-ジックステ-ションの番組に出るときはドラム演奏で出演していた。出演する場合は、いつも事前に電話で報告してくる真面目な青年だった。一番面白かったのは、彼が誘って当時26か27歳だったアンちゃんと3人で六本木に飲みに行った事である。その4年前、彼女が独身の時にも3人で飲みに行った。この時は結婚したばかりで、テレビで見るよりイメ-ジが太め。飲むと陽気で騒ぐのだが、見ていて嫌味が感じられない。天真爛漫という言葉がビッタリ。夜10時ごろから朝まで彼が知っているお店を飲み歩いた。今はもう50歳くらいのはず、アンちゃんはいまどうしてるんだろう。彼女のヒット曲、グッドバイマイラブや六本木心中を歌うときに思い出してしまう。
1ケ月なんてあっと言う間に過ぎる。先月分は駆け込み取材(9月12日のブログ :日本酒のつきあいに記述)で神田で和食を味わい、今夜は、雑誌社の編集長からの原稿締め切り間近の電話を受けて、あわてて今月分は突撃取材に切り替え、五反田駅前のイタリアンレストランにての夕食となった。予期せぬ人との嬉しい出会いもあり、一緒に食事が出来てほんとに楽しかった。このレストランが入っているビルの正式名称は東京デザインセンタ-、イタリアの有名な建築家、マリオベリ-ニが設計したものである。屋上部分に三角のトンガリ帽子を被ったデザインなので、JRの五反田駅のホ-ムからも良く見える。このビルの裏は、旧正田邸もあった高級住宅地の池田山という好立地。本格的イタリアンレストランのイル・カヴァロは、このビルの3階にある。記事を書くために手短に幾つか質問して、メモをしながら、頭の中で文章を構築してみる。もう19回目の取材なので、頭の中で内容が十分か?文字数が不足しないか?のイメ-ジも分かる。ワインを飲みながら、記事の骨格となるキ-ワ-ドを探す作業が楽しい。しかし、本来なら突撃取材でなく、もう少しゆっくり味わいたいものである。しかし、なんとか原稿が出来たのは
。
このお店のパンは本当においしい。それをオリ-ブオイルとバルサミコ・ソ-スを付けて味わうと、もう気分はイタリアン
。ほんとに三浦百恵ちゃんが来て食事をしていると聞いても不思議でないオシャレな店である。
http://www.taiyo-g.com/hondanajoke.html

このお店のパンは本当においしい。それをオリ-ブオイルとバルサミコ・ソ-スを付けて味わうと、もう気分はイタリアン

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昨日は取引先の人から電話があり、雨の中を訪ねて行った。学術書を出版したので
本を贈呈したいというのが彼の目的だった。専門書なので350頁程で定価が3600円。本自体はかなりの重厚感がある。表紙をめくると謹呈と書かれた和紙の短冊に本人の自筆のサインをしたものが貼られている。たぶん謹呈の1番目で貰ったことになる。素晴らしいのは巻頭に有名なM教授の推薦のことばが2頁に渡って書かれていることと、巻末のあとがきには家族への謝辞まで書いていることである。サラリ-マンでありながら、東京大学の講師という肩書きに加え、専門書出版の著者と来れば、肩書きとしては最高である。苦労話を聞いてると出版までの校正にやく1年掛かったというのも納得できるくらいできばえが素晴らしい。興味深かったのは、彼が出版した事を同僚や関係者に話すと、30%くらいは、反応がなかったということである。相手がどんな心境かをお互いに想像して話をしたが面白かった。多分、さすが、当然だと言う人と、やっかみで苦々しく思っている人に分かれるだろうとは容易に想像できる。残りの70%の人は、高くても本を購入しますという人と、印税生活で左ウチワですねというあこがれ派。前者はお世話になったお礼のつもりだろうし、後者は印税のシステムがよくわかっていない人である。学術書は1000冊も売れれば大したもの、2000冊くらい売ろうとすると、大学の専門学科の教科書に採用されない限り、無理である。彼は、出版前にどの程度売れるか、今までの付き合いの人のリストを作り計算したらしい。一応一人数冊の割り当てもしてみたら、見込みで1000冊くらいは行きそうだと言う。その中には今後開く講演会での販売や、専門団体への割り振りまで計算しているのは、さすが工学博士の称号を持つだけのことはある。出来る限り売れて欲しいものである。
本を贈呈したいというのが彼の目的だった。専門書なので350頁程で定価が3600円。本自体はかなりの重厚感がある。表紙をめくると謹呈と書かれた和紙の短冊に本人の自筆のサインをしたものが貼られている。たぶん謹呈の1番目で貰ったことになる。素晴らしいのは巻頭に有名なM教授の推薦のことばが2頁に渡って書かれていることと、巻末のあとがきには家族への謝辞まで書いていることである。サラリ-マンでありながら、東京大学の講師という肩書きに加え、専門書出版の著者と来れば、肩書きとしては最高である。苦労話を聞いてると出版までの校正にやく1年掛かったというのも納得できるくらいできばえが素晴らしい。興味深かったのは、彼が出版した事を同僚や関係者に話すと、30%くらいは、反応がなかったということである。相手がどんな心境かをお互いに想像して話をしたが面白かった。多分、さすが、当然だと言う人と、やっかみで苦々しく思っている人に分かれるだろうとは容易に想像できる。残りの70%の人は、高くても本を購入しますという人と、印税生活で左ウチワですねというあこがれ派。前者はお世話になったお礼のつもりだろうし、後者は印税のシステムがよくわかっていない人である。学術書は1000冊も売れれば大したもの、2000冊くらい売ろうとすると、大学の専門学科の教科書に採用されない限り、無理である。彼は、出版前にどの程度売れるか、今までの付き合いの人のリストを作り計算したらしい。一応一人数冊の割り当てもしてみたら、見込みで1000冊くらいは行きそうだと言う。その中には今後開く講演会での販売や、専門団体への割り振りまで計算しているのは、さすが工学博士の称号を持つだけのことはある。出来る限り売れて欲しいものである。
出会いはもう18年前にさかのぼる。本格的に東京で働くようになり、ふらりと初めて立ち寄ったお店の日本酒がうまくて結構ほろ酔い気分になった。お店を出るときに財布が無いことに気が付いた。いつも財布の中に名詞や身分証明も入れていたので、なにも自分を証明するものがない。悪い事に気が付いた時間も夜遅かったので、お店の電話を借りて職場に電話しても誰も残っていない。初めての客が飲み食いした後に、金が無いと言えば、相手は怒るのが当然である。その時に、じっと自分の目を見て、いいですよ信用しますから、お金が有る時にまた来て下さいといってくれた。翌日、お金を支払いに行ったが、東京でもこんな人がいるんだと感激したのがこの店のマスターとの付き合いの始まりである。店の名前が“心(こころ)”。まさに、マスターの心そのものである。当時はバブル全盛期でありながら、都内の条件の悪いビルは家賃の低価格を武器に、顧客の取り込み競争をしていた。その中で神田のかなりのビルは老朽化しているにもかかわらず、東京駅から1つ離れた駅であり、交通の便が良い事を理由に価格を下げなかった。しかし、92年のバブル崩壊後に、大手の会社が移転を始め、気が付けば、ほんとんどの会社が去って行き、賑やかだった夜の町も、人通りが減って寂れて行った。渡り鳥と同じで、一端環境が変わって他の場所に行ってしまうと、そこが元の状態に戻っても帰ってこないという現象である。今でも行く度に、賑やかだった頃の神田をマスタ-と懐かしむ。
昨夜は取材を兼ねて、久しぶりに神田司町を訪れた。栃木県の銘酒、天鷹を良い気分で飲んだ。ニュ-ヨ-クの世界貿易センタ-でのテロから5年目の日であり、蒸し暑い1日だったので、冥福を祈りながら、杯を傾ける。天鷹は厭味のない透き通った味の日本酒である。毎月1回の原稿締切日が分かっているのに、前日にならないとエンジンが掛からない。更に、相手に取材許可も貰う必要がある。要するに、今日のお昼が締切時間で、昨夜は駆け込み取材である。さき程やっと作業が終わって雑誌社に原稿を送った。しかし、今回で18回目の記事を作成したことになる。1年半もよく続いてきたものだと我ながら感心する。雑誌が出来上がると、それを持って相手を訪ねる時の気分がまた良いものである。日頃ワ-プロで文章を作成していても、立派な装丁の本になって同じ文章を眺めてみると、やはり気分は違う。今日は、雑誌社の編集長と会って、”出版への挑戦”の200ペ-ジの原稿を見てもらう。どんなコメントが返ってくるのかが楽しみである。良いコメントなら、今夜はきっと美味い日本酒が飲めるはずである。
今まで生きてきて、あらゆるジャンルの本を大げさでなく何万冊も読んできた。しかし、この本がここ数十年で一番感動した。日本の戦後復興における、白州次郎が果たした役割が、言い方は変だが、大きすぎたというのが読後感である。白州次郎が戦後、GHQから押し付けられた日本国憲法に対する、独自の日本案を作成していく過程での彼がマッカサ-を相手として戦っていく姿は、誇らしくもあり、悔しさもよくわかった。更に、米国の占領下であった日本を、独立させるべく、吉田茂を支えながら講和条約、日米安保協定の締結での活躍には読んでいて身体が熱くなる。彼の発案による通商産業省の創設過程も克明に記述しているし、日本の経済発展の理由を知る上での最高のバイブルだと思える。いずれにしても、これだけ常識を飛び越えた人間と時代を超えるドラマが実在したので、いずれ映画化されるのは間違いないと思う。
1985年(昭和60年)に彼が緊急入院して二日後に亡くなった病院が赤坂の前田外科病院。斎場が西五反田の桐ヶ谷斎場。どちらも良く知ってる場所だけに、余計に白州次郎が身近に感じられる。
彼の簡単なプロフィ-ルは、明治35年生まれ、父親の文平(ふみひら)の次男として生まれる。住んでた芦屋の家は4万坪。旧制中学を卒業後にケンブリッジ大学に入学、8年間の英国生活後父親の会社が倒産して帰国。身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能、ゴルフはシングル。旧制中学時代には親から与えられた外車を運転し、英国滞在中は親からの仕送りで超高級車を2台を乗り回していた。ようするに明治生まれというのが想像できない人であるが、この本のはじめに掲載されてる写真集を見ると、映画俳優だと言われても可笑しくない好男子だということがよくわかる。白州次郎の2つの口癖が文中でも紹介されている。「人間は地位が上がれば上がるほど役得を捨て、役損を考えろ」と「自分より目下と思われる人間には親切にしろ」という言葉は、彼の生き方を如実に表している。
1985年(昭和60年)に彼が緊急入院して二日後に亡くなった病院が赤坂の前田外科病院。斎場が西五反田の桐ヶ谷斎場。どちらも良く知ってる場所だけに、余計に白州次郎が身近に感じられる。
彼の簡単なプロフィ-ルは、明治35年生まれ、父親の文平(ふみひら)の次男として生まれる。住んでた芦屋の家は4万坪。旧制中学を卒業後にケンブリッジ大学に入学、8年間の英国生活後父親の会社が倒産して帰国。身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能、ゴルフはシングル。旧制中学時代には親から与えられた外車を運転し、英国滞在中は親からの仕送りで超高級車を2台を乗り回していた。ようするに明治生まれというのが想像できない人であるが、この本のはじめに掲載されてる写真集を見ると、映画俳優だと言われても可笑しくない好男子だということがよくわかる。白州次郎の2つの口癖が文中でも紹介されている。「人間は地位が上がれば上がるほど役得を捨て、役損を考えろ」と「自分より目下と思われる人間には親切にしろ」という言葉は、彼の生き方を如実に表している。
昨夜は、知人から映画のプロデュ-サ-である藤倉博氏を紹介された。白いスニ-カ-に白いパンツ。上は黒いシャツを腕まで捲り上げた、白髪まじりで人なつこい顔の人である。人当たりが柔らかいけど物怖じしない芯の強さみたいなものを感じる。最近藤倉氏が読んだ面白い本が、新潮文庫から出てる太田和彦の日本居酒屋紀行シリ-ズと、もう1冊が白州次郎に関する本で、彼のハチャメチャな人生が面白いという話題から始まり、映画監督とプロデュ-サ-との関係や、映画製作費用を集める能力がないと監督なんて出来ないという、映画産業が置かれた立場の説明や、仕事の話を聞いてると、本人曰くの自分は雇われプロデュ-サ-だと言う意味が判ってくる。この業界で最初の仕事がテレビ映画の「ザ・ガードマン」だったという話が出てきたときは,懐かしいですねという言葉が自分の口から思わず出てきた。現在の警備会社のセコムの前身である会社を題材にした番組で、当時としては画期的なアクション映画で、警備会社がなぜか警察並の活躍をするのが不思議でもあり格好良いものだった。宇津井健が主役だった事は覚えてる。昨夜は余り時間が取れなかったので、次回にお会いした時は居酒屋紀行か、白州次郎の本を読んだ感想をこちらから話をしてみたいと思ってる。
藤倉さんが手がけた作品と立場 (主演俳優)は以下のようなものです。
[001] □ 助太刀屋助六 (2001) プロデューサー (真田広之)
[002] □ 生地獄 (2000) プロデューサー (本田博仁)
[003] □ 眠る男 (1996) プロデューサー (役所広司)
[004] □ プロゴルファー織部金次郎 (1993) プロデューサー (武田鉄矢)
[005] □ おいしい結婚 (1991) プロデューサー (三田佳子)
[006] □ ほしをつぐもの (1990) プロデューサー (田中邦衛)
[007] □ 死の棘 (1990) プロデューサー (松坂慶子)
[008] □ 海へ See You (1988) 企画 (高倉健)
[009] □ 刑事物語5 やまびこの詩 (1987) プロデューサー (武田鉄矢)
[010] □ 刑事物語4 くろしおの詩 (1985) プロデューサー (武田鉄矢)
[011] □ ヨーロッパ特急 (1984) プロデューサー
藤倉さんが手がけた作品と立場 (主演俳優)は以下のようなものです。
[001] □ 助太刀屋助六 (2001) プロデューサー (真田広之)
[002] □ 生地獄 (2000) プロデューサー (本田博仁)
[003] □ 眠る男 (1996) プロデューサー (役所広司)
[004] □ プロゴルファー織部金次郎 (1993) プロデューサー (武田鉄矢)
[005] □ おいしい結婚 (1991) プロデューサー (三田佳子)
[006] □ ほしをつぐもの (1990) プロデューサー (田中邦衛)
[007] □ 死の棘 (1990) プロデューサー (松坂慶子)
[008] □ 海へ See You (1988) 企画 (高倉健)
[009] □ 刑事物語5 やまびこの詩 (1987) プロデューサー (武田鉄矢)
[010] □ 刑事物語4 くろしおの詩 (1985) プロデューサー (武田鉄矢)
[011] □ ヨーロッパ特急 (1984) プロデューサー
本屋で何の気なしに歩いてると赤い文字で”日航123便墜落事故”の文字が最初に目に飛び込んできた。事故が起きた翌年の1986年に米国で事故調査委員会の委員の一人の方と偶然出会った事を思い出して、衝動的に買ってしまった。正式のタイトルは”隠された証言”。実際の事故は今から21年前の1985年8月12日(月曜日)の夕刻に発生した。作者の藤田日出男氏の経歴を見ると、1934年(昭和9年生まれ)の今年、72歳。大阪府大の農学部獣医学部を卒業して航空大学に入り1958年に日本航空に入社してパイロットとして活躍し、94年に60歳の定年を迎え退社している。事故発生後に藤田氏が現場を訪れた時の描写はまさに、地獄絵である。バラバラになった遺体に関しての記述は、獣医学部で解剖も経験しているだけに冷静で鬼気迫る文章である。事故による犠牲者は520人。生存者は女性の4名のみ。乗客の川上慶子さん、吉崎博子さん吉崎美紀子さん母娘。客室乗務員の落合由美さんだけである。羽田空港を18時12分過ぎに離陸して、上昇を続けながら館山方面に南下して、大島で右旋回してすぐに爆発音が発生。離陸からわずか12分後の出来事である。その後、大きく右回りに静岡、富士山、山梨を通過して、また東京の青梅上空まで戻ってきたが、今度は左先回。18時56分26秒に御巣鷹山の尾根に激突した。わずか44分間の飛行だった。その間、最初の異常事態発生から実に32分間も乗員と乗客は墜落の恐怖を味わっていたことになる。作者は、旧運輸省とボ-イング社が発表した隔壁破壊による事故原因説の反論を、生きている証人からの言葉も参考にしながら、真の事故原因を探ろうとしている。彼の事故原因の仮説は、尾翼についているフラッタ-に何等かの問題があり、垂直尾翼の破損が引き金となって墜落に至ったと考えている。ドキュメンタリ-でありながら、読み手をひきつける文章力には敬服する。巻末資料に爆発音の発生から墜落するまでの32分間に渡る、ボイスレコ-ダ-に残された音声記録が全て掲載されているが、コックピットと客室のパ-サ-の声まで録音されているので、事故時の緊張感が伝わってくる。本当の墜落原因を知りたい、もっと早く救助に向かっていれば生存者も多かったはずだという作者の気持ちが伝わってくる本である。3時間程で一気に読んでしまった。生存者の一人、落合由美さんの証言もネットで探せばすぐ出てくるが、やはり藤田氏の主張を裏付けるものである。もう一度、事故原因を再調査してもらいたいという気持ちになった。
ネットで検索した結果、次のサイトを読むと、もっと疑問が湧いてくる。
123便事故調査報告書にある事実隠しとは・・
http://www.alpajapan.org/kannkoubutu/jikobousi/INDEX.HTM
ネットで検索した結果、次のサイトを読むと、もっと疑問が湧いてくる。
123便事故調査報告書にある事実隠しとは・・
http://www.alpajapan.org/kannkoubutu/jikobousi/INDEX.HTM
昨夜は、いつもの3人の飲み会メンバ-に、昨年女性グライダ-パイロットの世界最長飛行距離を樹立した森中玲子さんを囲んで4人で飲んだ。彼女とは昨年の早稲田大学での記録樹立後の帰朝講演を聞きに行って以来なので、1年半近くの間があいたことになる。いつも目がキラキラとしていて、自立した大人の女性の活力を感じさせてくれる。彼女と飲むときは、いつもおいしいパンを人数分お土産に用意していてくれる。彼女の会社はスウェーデンに本社があり、ラントメネン・グループと言って、農家49,000人を母体とした北 欧最大の食品と農業の集合体であり、その日本支社に勤めてる。業務用の冷凍パンを販売しているが、冷凍パンというイメ-ジは全然ない美味しい味である。北欧ベ-グルはアメリカンベ-グルより、味が細やかである。昨夜は、元気の出るグッズの話が中心だったが、アイデアがエネルギッシュで、途切れない会話が楽しい。ふっと感じたのは、いろんな意味で自立している4人なので、こんな楽しい時間を過ごせるんだなと自分自信で納得した。
ラントメネン・ユニペイク・ジャパン㈱のURLは http://www.hatting.jp/
おいしそうな北欧ベ-グルの写真が飛び込んできます。通販や、生協でも購入できるので、是非この美味しさを一度味わってみてください。
ラントメネン・ユニペイク・ジャパン㈱のURLは http://www.hatting.jp/
おいしそうな北欧ベ-グルの写真が飛び込んできます。通販や、生協でも購入できるので、是非この美味しさを一度味わってみてください。
撮影した確度が悪くて、ガラスの反射で蛍光灯が写りこんでしまいましたが、作品のバラのイメ-ジはわかると思います。彼女は静物画が得意ですし、五月さんの本名は、面高フサ子(おもたか ふさこ)さんという珍しい名前です。
松坂屋で本物を見れば分かるが、この絵はブツブツと突起状のものが一杯見える。実は、この部分に本物の小さな貝殻を使っている。絵の具の中に埋め込んでいるので、作品には立体感がある。彼女は特技が油絵という事に加え10年連続二科展入選という実績を持つ実力者でもある。今は2女のお母さん。
この絵のタイトルは”人魚の化石”です。
この絵のタイトルは”人魚の化石”です。
今、銀座松坂屋の7階で開催されている、第40回の文化画人展を見に行ってきた。来週の火曜日、8月17日まで開催されているので、一見の価値があります。入場は無料です。今回は大臣経験者である三木武雄、中曽根康弘、宇野宗吉、海部俊樹をはじめ、まさに多彩な顔ぶれの人が出展しています。全体で120作品、その中でも内閣総理大臣賞を受賞した作品も20個近く展示されています。じっくり1時間近くかけて見ると、作者の性格が作品を通じてヒシヒシと伝わってくるのが本当に面白い。芸能人の作品もいくつか出展されていますが、八代亜紀の作品は、見ていて鳥肌が立つくらいうまい。五月みどり、工藤静香も、本業より絵の才能の方が高いのではと思うくらいの腕前です。展示会のスケジュ-ルは
東京 8月17日(木)~8月22日(火)午後5時まで銀座松坂屋
大阪 9月02日(土)~9月10日(日)梅田スカイビル・40階
掲載している写真は八代亜紀さんの作品”夢幻の女”。黒の背景の中に微妙な黒と赤の衣装という配色が、素晴らしい。もう一つ出品している”風を見つめて”も内閣総理大臣賞を受賞しています。
東京 8月17日(木)~8月22日(火)午後5時まで銀座松坂屋
大阪 9月02日(土)~9月10日(日)梅田スカイビル・40階
掲載している写真は八代亜紀さんの作品”夢幻の女”。黒の背景の中に微妙な黒と赤の衣装という配色が、素晴らしい。もう一つ出品している”風を見つめて”も内閣総理大臣賞を受賞しています。
先週蒲田で飲んだ。その数週間前にも蒲田に住む知人に同行して行った同じ店”すずこう”である。一言でお店を紹介すると、メニュ-がない寿司屋。黙ってカウンタ-に座れば、何か食べ物が出てくる。このお店は映画の撮影にも使われたことがある。その店で知人が紹介してくれた常連客が城戸恭さん。御歳は60歳はとっくに過ぎていて、色が付いたメガネを着用しているので取っつきにくい風貌であるが、話をしてみると、博学で周囲には細かく気を使う人である。もともと現役時代は新聞社で働いていたので、TVニュ-スや新聞記事の見方が自分達の発想とは少し違う。ニュ-ス報道の意義やスク-プの大切さ、スク-プを持ち込む人の考えやその理由の一端を教えてくれる。城戸さんは、今ブログを楽しんでいるので、一度是非ホ-ムペ-ジを読んで見てください、いつかアクセスカウンタ-が1000になれば、自分でお祝いをするんだと話をしていたのを思い出した。早くカウンタ-が4桁に届くように祈りながら、ホ-ムペ-ジをご紹介します。城戸さんが通っているスポ-ツジムの話が中心です。
城戸恭さんのホ-ムペ-ジは ”城戸恭”と名前を入れて検索すれば、すぐわかります。
城戸恭さんのホ-ムペ-ジは ”城戸恭”と名前を入れて検索すれば、すぐわかります。
薄曇りの天気の中、表参道駅から歩いて数分の所にある善光寺で催された大橋節夫さんの告別式に行ってきた。こじんまりした葬儀で落ち着いた雰囲気だった。参列者の平均年齢も高く、写真のように焼香する場所は少し高い所にあるため、階段の上り下りがお年寄りには辛そうだった。参列者にはなぜか巨人軍の選手もいた。今年69歳の雪村いずみさんの静かに語りかけるような弔辞は,厳かの中にも一抹の華やかさを添えていた。大橋さんの長男である一夫さん夫妻も寂しそうだった。