今日は七夕。息子が結婚する日である。思い起こすと、息子のエピソ-ドは山のようにある。ほんの一部だけを紹介すると
(1)沼津の病院で生まれた時は、自分が出張で、日本にいた米国人の友人達が出
産祝いに駆けつけてくれた。この日以来、彼の人生の中でずっと外国人がいつ
もそばにいる生活環境だったと思う
(2)息子には、米国人のゴッドファ-ザ-(名付け親)になってくれた独身の友
人(ニュ-ボ-ルド)がいた。その数年後に彼も結婚しお互いの家族同士が米
国で再会した。彼の娘が美人なのにビックリ。米国人でも手紙の中でミススペ
ルが多い人がいることにショックだった。
(3)米国の友人で、日本で芸能人として大活躍していても、時折家まで息子に
会いにきてくれたJ.Kベイツン。その他の外国人もいつも家の中に誰かい
てくれてた。
(4)2~3歳の頃は米国人の小学生の姉妹(クリッサとケイトリン)が良く面倒を
見てれた。その数年後に彼女達はミスペンシルバニアという輝くような美人
になった。
(5)同じ年の京子ちゃんと、いつもアパ-ト内の砂場でママゴトで遊ぶのだが、
最後はなぜか喧嘩。お互い接近した状態で、泣く事もなく延々とプラスチッ
クのスコップや小さな洗面器でお互いに殴りあってた光景が今でも鮮やか。
(6)ままごとには本物の包丁を使っていたので、何度か近所の人が、包丁を持ち
出してますよと連絡を貰う事が多かった。
(7) 息子を連れてデパ-トに買い物に行って、子供の遊び場に置いたまま、忘
れて帰ってきて、気が付いて慌てて探しに行ったことも懐かしい。
(8)幼稚園生のときに、小学校の運動会に行って、母親と一緒の競技に参加した
のだが、恥ずかしいのか母親の手にがぶりと噛み付いたままだった。
(9)小学校の時は、近くの派出所が無人の時間が多く、なんと派出所を遊び場所
にしていて、警察官が、派出所は遊び場じゃないという事を教えるよう家ま
で訪ねて来たこともあった。
(10)わずか1ケ月に3回も怪我で縫う事があり、知り合いの永易外科の先生から
親の監督不行き届きだと怒られた事もあった。
(11)小学生の頃は、自分が海外への長期出張が多く、毎回出かける時に、自分が
いない間は母親を守ってねという約束をしていくので、子供なりにいつも緊
張していたのか、たまに帰国すると、安心してよく熱を出した。
(12)高校時代にボストンに留学したのだが、ESLを取らないですぐ授業を受け
たいという本人の無茶な思いと親の考えの違いでボストンでは親子喧嘩をし
た。
(13)米国の高校生が何を勉強するのか、教科書を見せてもらって感動したことが
ある。最初は授業を聞くのに苦労したと思うが、よく頑張ったのか、成績も
よくて、学校からはボストンの大学に進学させるようにと手紙を貰った。
(14)高校生でもしっかりしていた。下宿費をシェアしていた友人のパトリックが
息子の生活は禅宗のお坊さんみたいな生活だと驚いていた。この頃から料理
を作るのがうまかった。あのままボストンの大学に進学してればまた別の人
生だったかも知れない。
(15)大学生受験の時は、英語だけで入学試験を受けれる大学を良く探したと思う
し、学生時代はよい先生と先輩や友人に恵まれたようだ。
(16)卒業して、商社に就職したが、再び大学に戻りまた塾生として2年間過ごし
た事も人生勉強には良かったと思う。親として塾の卒業式に参加できて嬉し
かった。
(17)塾生のあいだの夏休みのアルバイトに行った外資系の会社に、卒業後に再び
就職するのも人の因縁である。
結婚、おめでとう。
(1)沼津の病院で生まれた時は、自分が出張で、日本にいた米国人の友人達が出
産祝いに駆けつけてくれた。この日以来、彼の人生の中でずっと外国人がいつ
もそばにいる生活環境だったと思う
(2)息子には、米国人のゴッドファ-ザ-(名付け親)になってくれた独身の友
人(ニュ-ボ-ルド)がいた。その数年後に彼も結婚しお互いの家族同士が米
国で再会した。彼の娘が美人なのにビックリ。米国人でも手紙の中でミススペ
ルが多い人がいることにショックだった。
(3)米国の友人で、日本で芸能人として大活躍していても、時折家まで息子に
会いにきてくれたJ.Kベイツン。その他の外国人もいつも家の中に誰かい
てくれてた。
(4)2~3歳の頃は米国人の小学生の姉妹(クリッサとケイトリン)が良く面倒を
見てれた。その数年後に彼女達はミスペンシルバニアという輝くような美人
になった。
(5)同じ年の京子ちゃんと、いつもアパ-ト内の砂場でママゴトで遊ぶのだが、
最後はなぜか喧嘩。お互い接近した状態で、泣く事もなく延々とプラスチッ
クのスコップや小さな洗面器でお互いに殴りあってた光景が今でも鮮やか。
(6)ままごとには本物の包丁を使っていたので、何度か近所の人が、包丁を持ち
出してますよと連絡を貰う事が多かった。
(7) 息子を連れてデパ-トに買い物に行って、子供の遊び場に置いたまま、忘
れて帰ってきて、気が付いて慌てて探しに行ったことも懐かしい。
(8)幼稚園生のときに、小学校の運動会に行って、母親と一緒の競技に参加した
のだが、恥ずかしいのか母親の手にがぶりと噛み付いたままだった。
(9)小学校の時は、近くの派出所が無人の時間が多く、なんと派出所を遊び場所
にしていて、警察官が、派出所は遊び場じゃないという事を教えるよう家ま
で訪ねて来たこともあった。
(10)わずか1ケ月に3回も怪我で縫う事があり、知り合いの永易外科の先生から
親の監督不行き届きだと怒られた事もあった。
(11)小学生の頃は、自分が海外への長期出張が多く、毎回出かける時に、自分が
いない間は母親を守ってねという約束をしていくので、子供なりにいつも緊
張していたのか、たまに帰国すると、安心してよく熱を出した。
(12)高校時代にボストンに留学したのだが、ESLを取らないですぐ授業を受け
たいという本人の無茶な思いと親の考えの違いでボストンでは親子喧嘩をし
た。
(13)米国の高校生が何を勉強するのか、教科書を見せてもらって感動したことが
ある。最初は授業を聞くのに苦労したと思うが、よく頑張ったのか、成績も
よくて、学校からはボストンの大学に進学させるようにと手紙を貰った。
(14)高校生でもしっかりしていた。下宿費をシェアしていた友人のパトリックが
息子の生活は禅宗のお坊さんみたいな生活だと驚いていた。この頃から料理
を作るのがうまかった。あのままボストンの大学に進学してればまた別の人
生だったかも知れない。
(15)大学生受験の時は、英語だけで入学試験を受けれる大学を良く探したと思う
し、学生時代はよい先生と先輩や友人に恵まれたようだ。
(16)卒業して、商社に就職したが、再び大学に戻りまた塾生として2年間過ごし
た事も人生勉強には良かったと思う。親として塾の卒業式に参加できて嬉し
かった。
(17)塾生のあいだの夏休みのアルバイトに行った外資系の会社に、卒業後に再び
就職するのも人の因縁である。
結婚、おめでとう。