玄宗の書に似ているが、何処か変化が乏しいく物足らない。
玄宗の石臺孝経に見られる艶やかさを感じない。
と思ったが、臨書してみると仲々変化があって面白い。
あちこちに工夫の跡が見られ、何処かに、所謂、ヒネリがある。
見ると聞く?書くとでは違うのだ。
徐浩(703-782)
粛宗の寵愛を受け皇帝の勅旨の殆どは徐浩の手にななったという。
古来、書人としての人気は今一つであるが・・・
朱巨川告身(768)
律令制において、位階を授けるときに与える文書を告身と言う、位記とも言う。
懐素(725?736?~?)
無類の酒好きで興に乗ると壁、衣装、器具など至る所に書きなぐり、
狂僧と呼ばれた。
幼少から書を好んだが極貧であったため紙が買えず、
芭蕉の葉に書いては消し書いては消し、
遂には葉に穴が開いたという。
自叙帖(777)
古法草書の代表は王羲之、
新法草書の代表はこの自叙帖と言われる。
気のおもむくままに一気に書いたに違いない。
スピード感が迫ってくる。
書き始めのせいだろうか、よくよく眺めると、
スタート台に立った走者の息遣いが聞こえてくる。
焦る気を、抑えて抑えて、だろうか。
今までの草書とは全く趣が異なる。
いわゆる、酔書、狂書である。
筆を立てたり寝かしたり捻ったりしているのであろう。
酔狂でありながら見事なバランスを保っている。
潤滑、太細のバランスはお見事だ。
尚、書いてある文字は「区中実譁?喧既見浮」。