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オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

日野オートプラザの名車コンテッサと歴史的エンジン

2017年06月12日 | 東京


津久井城からの帰り道、八王子の日野自動車21世紀センター・日野オートプラザに寄りました。



1996年にダカール・ラリーに参戦した日野レンジャー。菅原義正が10リッター未満部門でクラス優勝。翌年1997年にはトラック部門総合優勝、1位・2位・3位を独占。

TE21型のボンネットトラック(1959年)
TE120改型の消防車(1974年)
世界初のハイブリッドバスHIMR(1991年。発売1994年)。ハイブリッド車が1990年代の初期にすでにあったのは意外でした。


建物内のTGE-A型(1017年)、国産初の量産型トラック。タイヤは空気なしです。経済産業省「近代化産業遺産」。


日野自動車は東京瓦斯工業として1910年設立されました。1913年に東京瓦斯電気工業となり初代社長となった松方五郎と技術者・星子勇。1942年に現いすゞ自動車と分離し日野重工業、1959年に日野自動車工業、1999年に現社名の日野自動車となりました。

東京瓦斯電気工業の拠点工場は東京・大井町にありました。いすゞ自動車の本社は今も大井町にあります。

ハイブリッドエンジン

オートプラザ入口。エレベータ^で2階へ上がります。
日野自動車の歴史パネル
ミニカーを展示
TGE-A型(1917年)
ちよだTX-35(1932年)
TGE-MPバス(1930年)

T10+T20トレーラー・トラック(1946年)
T118+T25トレーラーバス(1947年)。函館では昭和30年ころ市内を走っていました。私も多分乗ったと思います。私の家のすぐ近くにバス会社の車庫・工場がありました。
TE10(1959年)

BH10バス(1950年)
HE355(1971年)
子供コーナー
ミニカーの町
カフェ・シャノン
日野エンブレムのランチョンマットカフェからの景色

日野車の写真パネル

航研機(1938年)の1/5模型。当時は飛行機専門のメーカーはなく、多くの会社が飛行機開発に挑戦していました。

1階の実車展示フロア

松方五郎は松方正義の五男です。
星子勇。技術開発陣のトップでしたが、1944年に他界。2010年に日本自動車殿堂受賞。

九四式六輪自動貨車のプラモデル。ファインモールド製、現在発売中です。


戦後の日野自動車エンジン開発の第一人者、鈴木孝氏。私は一度取材でお会いしました。現在もご健在です。

2011年に日本自動車殿堂受賞しました。
日本自動車殿堂は2001年に始まり、初回は本田宗一郎(ホンダ)、藤沢武夫(ホンダ)、簗瀬次郎(ヤナセ)、豊田喜一郎(トヨタ)、石橋正二郎(ブリヂストン)ら。2002年は鈴木修(スズキ)、高橋国光(レーサー)、2003年梶祐輔(日本デザインセンター。広告デザイン)、松田恒次(マツダ)、神谷正太郎(トヨタ)ら。2004年久米是志(ホンダ)、カルロス・ゴーン(日産)、2005年中村良夫(ホンダ)、桜井眞一郎(日産。スカイライン)、2006年は川本信彦(ホンダ)、2007年山本健一(マツダ。ロータリーエンジン)、2008年片山豊(日産)、2009年久保富夫(三菱)、大橋孝至(マツダ。ルマン優勝)、2011年鮎川義介)(日産)、2012年川上源一(ヤマハ)、三本和彦(ジャーナリスト)、2013年小林彰太郎(ジャーナリスト。カーグラフィック編集長)が受賞しています。2001年から2014年までの期間を第1期として70人が殿堂入りをしました。2017年から第2期の表彰が開始されます。






ダカールラリーの展示。8年連続で優勝しました。

ドライバー菅原義正のサイン


ボンネットバスBH15(1966年)。いよいよ実車展示です。
日野ルノー(1953年)、フランス・ルノーの技術を導入したノックダウン生産車です。リアエンジン・リアドライブのRR方式で、現在の主流FFとは対極です。


初めて自主開発した乗用車コンテッサ900(1961年)。側面の空気取入れ口が特徴でした。

イタリアのミケロッティがデザインしたコンテッサ1300クーペ(1965年)。日野は「トリネーゼ・スタイル」というキャッチコピーでアピールをしていました。クーペのほかにセダンもありました。

コンテッサ1300スプリント(1962年)。私はこの車を覚えていません。モーターショーに展示をされた試作モデルでした。

ジョバンニ・ミケロッティのエンブレム
コンテッサとはイタリア語で伯爵夫人のことです。日野コンテッサのシリーズはすべて日野ルノー以来のRR方式でした。日野自動車はコンテッサ1300を最後に乗用車から撤退し、1966年にトヨタと提携をし、以後トヨタグループの一員として続いています。

日野コンテッサの3種のエンジンコンテッサ900のエンジンコンテッサ1300のエンジンコンテッサ用の1500cc試作エンジン軽三輪のハスラー(1961年)。三井精機工業が製造し、日野が販売するOEM方式でした。この車も私は覚えていません。
ハスラーは以前はスズキのオフロードバイクでしたが、近年軽自動車として名前が復活しました。ハスラーのネーミングは日野からスズキへ円満に移行したんでしょうか。そもそもハスラーとは詐欺師とかあまりいい意味ではないようです。「ハスラー」という映画もありました。その映画タイトルでは勝負師という意味でした。

商用車の日野コンマース(1960年)。これも覚えていない。ブリスカはけっこう走っていましたが。

戦車用など軍用エンジンの部屋

航空機エンジンの部屋

空冷星型9気筒の天風21型エンジン(1930年)。練習機の赤とんぼに搭載されたエンジンです。
中島製の光3型エンジン(1936年)、基本的な空冷星型9気筒です。
ル・ローン80馬力エンジン(1920年)。なんと不思議なエンジンです。エンジン全体がプロペラと一体で回転する回転(ロータリー)式エンジンです。マツダのロータリーエンジンとはまるで別物です。


液冷V12型エンジン(1935年)。航研機に搭載されたのは川崎製の同型エンジンです。川崎は液冷エンジンの経験があったので飛燕の液冷エンジンに挑戦しましたが、結局安定したエンジンは生産できませんでした。航研機は液漏れはしなかったんでしょうか? 戦闘機と長距離機ではエンジン出力特性がまるで異なるのでしょうね。

初風エンジン(1942年)。空冷倒立4気筒です。飛燕も倒立直列でした。
実に楽しかった。コンテッサの実車を見たくて来ましたが、飛行機のエンジンがたくさんあるとは知りませんでした。日野オートプラザを堪能したので、今度は藤沢のいすゞプラザも行きたいですね。














































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2 コメント

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Unknown (はなべえ)
2019-06-08 05:06:15
私は若い頃に コンテッサを 3台乗り継いだことがあります。始めはセダンでした。すでに販売が終わっており部品はなくポンコツセンターで必要なものを探した覚えがあります。 2台を乗り潰して部品を取ったりして使っていました。 最後はクーペを中古で購入しこれは3年ぐらいに乗りました 。本当に良い車でした。私の青春の思いでです。写真も残っていますがあのインパネやナルディタイプのハンドルやドライブフィーリング、リヤエンジンの滑るような静けさ。 トヨタとの合併でコンテッサは消えてしまいましたが当時のトヨタ車とは比べ物にならないくらい進んだデザインと機能性がありました。残念ながら販売量が少なく、遅れていた日産やトヨタ車に販売では負けてしまい市場では見られなくなりましたがとても残念です。いつの日にか八王子に伺って展示されている車(コンテッサ)に乗ったり写真撮ったりして来たいと思っています。
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Unknown (オーロラ特急)
2019-06-08 13:22:40
私はコンテッサを所有したことはありませんが、いくつか思い出があります。まずはコンテッサ1300の新車デビューのころ、イタリアの斬新なデザインに驚かされました。次に生産中止からしばらく後、知人がコンテッサを持っていて、誰か買ってくれないか?と言われました。価格は10万円。欲しかったけれど私は当時まだ四輪を所有する身分ではなかった。10万円はなんとかなったが、毎月の駐車場代が厳しい。青空駐車場でも無理でした。コンテッサが青空駐車では悲しいですよね。その後、日野自動車と人と話をする機会がありました。当時、日野の社内にはコンテッサのオーナーズクラブがあって、本社工場内に残っていたコンテッサの部品を取ることが黙認されていたそうです。いったい何台残っていたんでしょうね。トヨタや日産の名車・旧車はけっこう見る機会がありますが、日野やマツダ、三菱の車はなかなか見る機会がない。そういう意味で八王子のオートプラザは貴重です。撮影は可ですが、たしか乗ることはだめだったような気がします。
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