2014年(原書は1993年発刊)
『ビルボード』誌の記者を経て、アトランティック・レコードの共同経営者に。レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、オティス・レディングら多くのR&Bアーティストを育てた名プロデューサーの自伝。
アトランティックの黄金時代を築いたシンガー、作品はいかに生まれたのか、個性豊かな音楽人にまつわる逸話と共に、読み応え満点の音楽史! 久しぶりにワクワクしながら読みました!
黒人レコードチャートは「ハーレム・ヒットパレード」と呼ばれていたが、1945年に「レイス・レコードという婉曲的な名称に変わった。、、、、、
1949年、変えたらどうかという私の提案がビルボード誌に採用された。それが”リズム&ブルース”だった」
「バート・バーンズはお墨付きのヒットメーカーだった。やつが制作したアイズレー・ブラザーズのツイスト&シャウトはスマッシュヒットし、ビートルズがさらに大ヒットさせた。、、、、
バートは英国でギタリストのジミー・ペイジを見つけ(当時の通称はリトル ジミー・ペイジ)R&Bセッションで使おうと、アメリカに連れてきていた。アトランティック史上最大の売れっ子、レッド・ツェッペリンを率いることになる、あのペイジだ」
「レット・イット・ビーはもともと、ジョンとポールがアレサ・フランクリンのために書いた聖歌だった。けれどアレサに1年以上保留にされ、ビートルズは待ちきれずに自ら歌った」
「ウイルソン・ピケットの新シングルがものすごく良くできたから、電話越しに聞いてくれという。確かにヴォーカルは素晴らしい。が、私の耳をさらに強く捉えたのはすべてをひとつにまとめているギターソロだった。こいつは聞いたことがない。誰だ?」
「名前はデュアン・オールマンです」
そのプレイに深く恋した私は、デュアンの契約を1万5000ドルで買った。
アーメット・アーティガン ジェリー・ウェクスラー(1917~2008)
アーメット・アーティガン(アトランティック・レコード創設者)は振り返る。
「ロンドンのスコッチクラブでだった。店が閉まった後、ウイルソン・ピケットのバンドが演っていた」
「私はステージに背を向けていたが、びっくりするようなサウンドが聞こえてきた。
「ウイルソン、君のところのギター、なかなかやるじゃないか」
でもウイルソンが言うには、うちのギターはバーで飲んでるよ、と。えっと思って振り向いたら天使のような顔つきの若人、童顔の青年が偉大なるデルタ・ブルースの巨匠のように弾いていた。それがエリック・クラプトンだった。それでクリームは60年代後半、うちで屈指の人気グループになったというわけなんだ」
「ディランが新作を「プロデュースしてもらいたいと言ってきた。、、、、
チェロキーのコントロールルームにディランが入ってきたその瞬間、その場にいた全員が後ずさりし、周囲に緩衝地帯を設けた。ディランが口を開くまで誰も口を開けない。それくらい強力なオーラだった」
「ディランのリハを始めたさい、マーク・ノップラーとそのドラマー、ピック・ウィザーズを加えたら面白いと思った。、、、、マークには前もってアルバート・キングみたいに弾いてくれと言ってあり、、。
ボブが付けたタイトルは『スロー・トレイン・カミング』。
『ガッタ・サーブ・サムバディー』はトップ10に入り、ボブに初のグラミー賞も贈られた」