Jerry Wexler/Rhythm &Blues

2014-07-19 19:03:56 | Weblog

                
          2014年(原書は1993年発刊)

 『ビルボード』誌の記者を経て、アトランティック・レコードの共同経営者に。レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、オティス・レディングら多くのR&Bアーティストを育てた名プロデューサーの自伝。
アトランティックの黄金時代を築いたシンガー、作品はいかに生まれたのか、個性豊かな音楽人にまつわる逸話と共に、読み応え満点の音楽史! 久しぶりにワクワクしながら読みました!  

                        

 黒人レコードチャートは「ハーレム・ヒットパレード」と呼ばれていたが、1945年に「レイス・レコードという婉曲的な名称に変わった。、、、、、
 1949年、変えたらどうかという私の提案がビルボード誌に採用された。それが”リズム&ブルース”だった」                

「バート・バーンズはお墨付きのヒットメーカーだった。やつが制作したアイズレー・ブラザーズのツイスト&シャウトはスマッシュヒットし、ビートルズがさらに大ヒットさせた。、、、、
 バートは英国でギタリストのジミー・ペイジを見つけ(当時の通称はリトル ジミー・ペイジ)R&Bセッションで使おうと、アメリカに連れてきていた。アトランティック史上最大の売れっ子、レッド・ツェッペリンを率いることになる、あのペイジだ」

「レット・イット・ビーはもともと、ジョンとポールがアレサ・フランクリンのために書いた聖歌だった。けれどアレサに1年以上保留にされ、ビートルズは待ちきれずに自ら歌った」

             

 「ウイルソン・ピケットの新シングルがものすごく良くできたから、電話越しに聞いてくれという。確かにヴォーカルは素晴らしい。が、私の耳をさらに強く捉えたのはすべてをひとつにまとめているギターソロだった。こいつは聞いたことがない。誰だ?」
 「名前はデュアン・オールマンです」
 そのプレイに深く恋した私は、デュアンの契約を1万5000ドルで買った。

                  
                   アーメット・アーティガン     ジェリー・ウェクスラー(1917~2008)

  アーメット・アーティガン(アトランティック・レコード創設者)は振り返る。
 「ロンドンのスコッチクラブでだった。店が閉まった後、ウイルソン・ピケットのバンドが演っていた」

 「私はステージに背を向けていたが、びっくりするようなサウンドが聞こえてきた。
 「ウイルソン、君のところのギター、なかなかやるじゃないか」
 でもウイルソンが言うには、うちのギターはバーで飲んでるよ、と。えっと思って振り向いたら天使のような顔つきの若人、童顔の青年が偉大なるデルタ・ブルースの巨匠のように弾いていた。それがエリック・クラプトンだった。それでクリームは60年代後半、うちで屈指の人気グループになったというわけなんだ」

          

 「ディランが新作を「プロデュースしてもらいたいと言ってきた。、、、、
チェロキーのコントロールルームにディランが入ってきたその瞬間、その場にいた全員が後ずさりし、周囲に緩衝地帯を設けた。ディランが口を開くまで誰も口を開けない。それくらい強力なオーラだった」

「ディランのリハを始めたさい、マーク・ノップラーとそのドラマー、ピック・ウィザーズを加えたら面白いと思った。、、、、マークには前もってアルバート・キングみたいに弾いてくれと言ってあり、、。
 ボブが付けたタイトルは『スロー・トレイン・カミング』。
『ガッタ・サーブ・サムバディー』はトップ10に入り、ボブ初のグラミー賞も贈られた」

 


Neil Young自伝/ガルシア=マルケス

2013-09-15 14:24:38 | Weblog

 先月から行っている眼の筋トレ。わずかですが効果あるようです。もう少し続けてみましょう。

 「ニール・ヤング自伝」 話があちこち飛ぶので読みづらい!まあ、彼らしい、といえばそれまでだが、やはり時系列をある程度は考慮し整理していれば、もう少し楽しめたかな?と、。興味深い話が多いのに印象が散漫になってしまい残念。

            

9月8日:東京ジャズ、午後に行ってみたが残念ながら期待していたほどは、、、でした。気になったのが20メーターほど離れた所にある小さなステージでも演奏が行われていたこと。本ステージ演奏中もそちらの音が聞こえるので、何だかなあ、と、、(プログラムを見ると時間をずらして組まれていますが、)。

 
  図書館の新刊コーナーにあった雑誌「Coyote 特集メキシコが変えた二人の男」 ガルシャ=マルケスを読んでいたら、、あれ?これ2010年の発行だ。(「100年の孤独」は読み終えたのだったかな?全く記憶にない)
 それはともかく、L.Aのメキシカンの話などを読みながら、30数年前に現地で知り合ったメキシコ人たちの
顔を久しぶりに思い出したのでした。

              

「愛しい友達がたくさんいるメキシコシティのことで忘れられない思い出がある。またとないある夕方、チャプルテペックの森に太陽が出ているにもかかわらず、木々の間に雨が降り注いでいて、私はその信じられない光景に目がくらんで方向感覚がおかしくなり、ずぶ濡れになりながら歩き回ってみたが、出口が見つけられなかったのだ」   ガルシア=マルケス

 

 


8月の終わりに、、

2013-09-01 11:44:07 | Weblog

 朝晩は秋を思わせる風。ようやく夏もおわるのかな?とほっと一息つきたい所なのですが、まだまだ、、、。

「オリバー・ストーンの原水爆禁止大会でのスピーチの内容を日本の新聞はきちんと伝えていない」といくつかのラジオ番組で聞いたのですが、アエラにも書いてありましたね。

「オリバー・ストーンが日本の戦後政治を厳しく批判するスピーチを行った。日本のマスメディアはこの事実をほぼ黙殺した。
 
 『ここで人々は平和と核廃絶について語っていました。
安倍首相のような人でさえ、その言葉を口にしました。でも私は彼を信じません』 と言い切った。

第二次世界大戦後、日本は素晴らしい文化、映画、音楽、食文化を示しました。けれども、私はただ一人の政治家も、ただ一人の総理大臣も、平和と道徳的な正しさを代表したところを見たことがありません

 ここまで率直に国際社会における日本の評価を語ってくれる人はあまりいない。 
ストーン監督の日本批判は現実の発言であり、かつ一層仮借ないものである。

 『あなたがたはアメリカの衛星国であり、従属国に他なりません。 (中略) 
あなたがたはなんのためにも戦っていない 
 ( You don’t stand for anything ) 』

 この語は「あなたがたは何も代表していない、何も意味していない」と読むことも出来る。
彼の言葉はアメリカのリベラル派の日本評価の一つの代表例だと私は思う。
 でも、日本のマスメディアはそれを日本人読者に伝える事を望まなかった。
理由はまさしく彼が述べている通りである」           内田 樹  アエラ8/26号より抜粋


夏 日記

2013-08-25 10:11:06 | Weblog

7月31日: Tがマーシャルのヘッドフォンを持ってきた。彼がiphoneで女性のジャズヴォーカルをプレイして試聴。いい音だ。気になったのは、、私のipodより音が良いように思えること。 

8月2日: RからPOLOのリネンパンツ。やはり夏は麻がいいね。パッケージに軽く驚いた。キレイめのベージュのダンボールを開けると、更にブルーのリボンの紺の紙箱。その中に商品。紙箱の下には紺の紙袋もあって、念入りさに恐れ入りました。

8月4日: Sと久しぶりにビアホール。生ビールの旨いいこと!しかもこの日は何やら生ビール半額の日でもあったのでした。

8月10日:録画しておいた「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見る。こういう映画を見ると、「どこかへ行きたい」と心が騒ぐ。

8月18日: Sと会うことになり私の希望で銀座ライオンへ。歴史あるビアホールで飲みたかったが、満席。2階は空いている、というので上へ。ビール旨い!!

 少々夏バテか、疲れ気味です。

8月19日:インターFMで「オン・ザ・ロード」試写会のお知らせをしている。やっと日本でも公開のようです。監督は「モーターサイクル・ダイアリーズ」のウォルター・サレスだそうな。 YouTube で予告編を見たら、ついこの間見た「モーターサイクル・ダイアリーズ」を思い出した。あんな感じなのかな?

8月22日:イチロー日米通算4000安打!夕方の日テレニュースでは動画は出ず写真のみ。その後のTBSニュースではヒットの場面を動画で放送していましたね。なんでかな?
ヤンキースは5人の外野手で先発を回している状況なので、前日もあと1本となった次の試合では代走のみのイチローだったのですが、歯がゆいですね。監督の好みもあるのでしょうか?

 8月24日:6月頃から左目の視力が落ちている感じだったのですが、以前にもたまにあることで、気にしないでいたら、今回はいっこうに戻らず、どうにも鬱陶しくなってきました。レンズを交換する前に何か出来ないか、と図書館で借りてきた雑誌を参考に眼のエクササイズを開始。どうなりますか、、。


ジョージ・ハリソン/ Isn't it a Pity

2013-07-14 12:39:01 | Weblog

                            2013
               By the Editors of ROLLING STONE 

 2002年に刊行された本の邦訳。30年以上に及ぶ「ローリング・ストーン」誌からの記事を集めて収録。
 
 洋書屋も洋書売り場も覗かなくなって久しいのでこの本も知らなかったのですが、特に新しい情報はないかな?と思いながらも読み始めると、ジョージについて語る言葉で印象に残るものが。その一部を抜粋。
あらためて、ジョージがいなくなって残念です。

ジョン・レノン 
 「ジョージの中にある神秘性は途方もなく大きい。あいつを観察していると、少しずつあいつの中身が見えてきて、すごく面白いんだ」 1968年

オリヴィア・ハリソン
「ボブ・ディランの言葉を借りれば、『彼は百人分の力を持っていた』のです。信仰で得た勇気と揺るぎない確信で、目の前の数多くの戦いに立ち向かったのです」

「彼には体の向こうにある本質を見通す力があったおかげで、見過ごされそうな多くの人たちに救いの手を差し伸べてきました。彼は常に人の本質を見抜くことが出来、その能力のおかげで、目の前にある課題や仕事に向き合うことができたのです」

彼は口癖のように私たちに語っていました。
「もし神が存在するのなら、この目で見なくてはならない。もし魂が存在するのなら、それを知覚しなくてはならない。それができなければ、信じないほうがましだ。分かったつもりでいるよりは、無神論者でいたほうがいい」

ボブ・ディラン
「彼は巨人かつ極めて偉大な魂であり、人間味、ウイットとユーモア、知恵、信仰心、常識、人々への思いやりを兼ね備えた人間だった。
 太陽、花、月のようだった彼を失った悲しみは計り知れない。彼のいない世界は底知れず空虚だ」

トム・ペティー
「ウイルベリーズがスタートしたとき、ジョージはボブにこう言った。
『僕たちは君がボブ・ディランであることを承知の上でで言わせてもらう、君に対しては他の皆と同じ言動で接するつもりだ』って。 
 するとボブが
『それがいい。信じてくれるかはともかく、僕だってみんなを恐れていたからお互い様だよ』って」

                



 「お互いの心を痛め、傷つけ、何も考えず、与える事を忘れてお互いの愛を奪う。
  残念じゃないか? 恥ずかしくないかい?」

   Isn’t it a pity? Isn’t it a shame
  How we break each other’s hearts
  And cause each other pain
  And we take each other’s love
  Without thinking anymore
  Forgetting to give

 


富士日記/世界遺産?

2013-07-07 11:47:01 | Weblog

           
  (昭和三十九年七月 ~ 昭和五一年九月)

 図書館に新しく文庫で置いてあったので、毎夜布団の上で足、腰のストレッチングをしながら、読んでいるのですが、だんだんと、武田家の近所にいて、奥様の話を聞くのを楽しみにしているような気分になっています。
 世の中を、人間を見る目が鋭い、というか本質を点いていると感じることも多いです。それにしても川口湖と東京を行ったり来たり、の生活ですが、ドライブはあまり苦ではなかったのでしょうか、。
当時の物価も書いてあるので「昭和の記録」でもありますね。そろそろ終わりのページに近づいてきて読むペースを落とし気味になっています、、。
 
 そんなさなか、武田泰淳の名前を新聞で見ました。
 
朝日新聞6月27日論壇時評

 「女性が輝く日本、仕事と育児が両立出来、生き生きと活躍できる社会の構造を打ち出しました」と首相は答える。 それを読んだぼくは、なんだかひどく憂鬱になる。本気かどうか疑わしいから?違う。この人に代表される「政治家」のことばが、よそよそしく聞こえるからだ。
  
 半世紀以上前、作家の武田泰淳は、ある政治家の言葉に触れ、こんなことを書いている。

「叱っている彼から、叱られているぼくらへ一本の路が通っているばかりで、叱られる者から彼への路は全く閉ざされている。この断絶のはなはだしさは、たんに彼ばかりでなく、ある種の政治家の文章が、たえず僕らの頭上におっかぶせる暗さ、重苦しさである。
 どうしてこのような、悲しむべき断絶が、人間と人間の間に起こりうるのであろうか。そして、まだまだこのような断絶から、ぼくらはしばらく、開放されそうにない、というあきらめに似た不透明の霧のようなものが、ぼくらを包んでいる」

 既成の政治(家)への「あきらめに似た不透明な霧のようなもの」に包まれて、棄権票は不気味に増えている。         
                      「立候補する人々  ぼくらはみんな泡沫だ」 高橋 源一郎 より抜粋
  
          

 富士山が世界遺産に認定されたということで、TVでも特集番組がいくつかありましたが、、捨てられるゴミの多さは課題として残っているようです。
 世界遺産に認定すると、通常6年後にチェックするのだが、富士山は3年後に改めて世界遺産としてふさわしいかチェックする、という条件付きというのですから、少々(かなり?)恥ずかしいですね。
 


イラクサ/ A Case of You

2013-06-30 16:14:00 | Weblog

  

        2006 

 カナダのオンタリオなど、街や、田舎を舞台に様々な女性の人生を語る九つの短編集。 
アリス・マンローは、日々起こる些細と思われる事柄、会話、などの奥深くにあるものを見つめ、語り、人生の有り様をしみじみと考えさせます。ジョニ・ミッチェルの「ア・ケース・オブ・ユー」が流れてきました、、、。

「夏のうだるような暑さのなか、闘病中の不快感に苛立ちを募らせる主人公を包む空気が、ふとしたことでがらっと変わる『浮橋』のラストの光景の美しさ。 
 『なぐさめ』の、夫の位牌を妻がひとりで撒くシーンのゾクッとするような高揚感。
『クィーニー』の結末の、いかにもマンローらしいなんとも摩訶不思議な感触。
二度の結婚の狭間でもがきながら、書く事と取り組む語り手が、思いがけず少女時代の恋の相手と再会し、甘やかな思い出に浸ったのも束の間、人生の苦く哀しいひとこまに突き当たってしまう、表題作『イラクサ』の、ひっそりとした切なさ。いずれも極上の余韻を残す」       訳者 あとがきより 抜粋

「ニナは箱を開き、ひんやりした灰のなかに手をつっこんで、それを投げるというか、落とした― おとなしく灰にならなかった小片とともに ― 道端の植えこみの間に。これは六月に湖に踏み込んで、初泳ぎしようとした冷たい水のなかへ身を躍らせるのに似ていた。
 初めは気分の悪くなるようなショック。それから、自分がまだ動いているという驚き。鋼のような強い愛情の流れの上に浮き上がって ― 人生の水面で、落ち着いて、生きている、刺すような冷たさが相変わらず体に押し寄せてはくるけれど」   「なぐさめ」 より


                                    1971
                              On the back of a cartoon coaster

                              In the blue TV screen light
                               I drew a map of Canada
                              Oh Canada
                              With your free sketched on it twice
                              Oh you're in my blood like holly wine
                               You taste so bitter and so sweet

                              Oh I could drink a case of you darling
                              Still I'd be on my feet
                              Oh I would still be on my feet


夏への扉/UNDERWOOD Typewriter

2013-06-16 08:54:40 | Weblog

          2009 ロバート・A・ハインライン

久しぶりのS.F。昔読んだのでは?と思いながらパラパラとめくってみたが全く覚えていないので読み始めたら面白い! 
 1970年にコールドスリープ(低体温睡眠)によって30年を仮死状態で眠り、30年後の2000年に目覚める、というストーリー。
 本書が発表されたのが1956年ということですから、1950年代におよそ50年後(西暦2000年)の世界を予測して書いているのですね。興味深いものが幾つかありました。

 「どんな床でもい。一日中監督なしで、掃き、あるいはモップをかけ、塵を吸い取る。充電器で充電する「おそうじガール」  これはそのままロボット掃除機!

「タブロイド版の新聞は、写真や図版は多色刷りか、モノクロの立体写真だった。 ー中略ー
読めるのは一面だけのように思われた。たまたま一面の右下のすみに手が触れた。
すると紙面がくるくるとまき上がった、、他のページもその部分に触れるたびに次々にめくられていった」

 これは3Dの写真だし、i pad ですねえ! そして恐ろしい予見もあります。

「記事の中には全く理解できないものがあった。 ー中略ー
フランスの三つの町の住民が立ち退きを命じられた。国王はその地域に薬剤散布を検討中。
これは放射性物質か?」

「自動秘書はすでに実用化されていると思っていた。つまり口述筆記をし、人手を全く借りずに書簡を添削し、綴りや句読点の誤りを直し、完璧な書式を作り上げるるような自動機械だ。だがまだそんな機械は存在していなかった」 
 これはどうでしょうか?実用に向かっててはいるのですよね。

「全国共通の小切手システムは、この時代の目覚しい進歩のひとつだった。全市の手形交換所は電脳通信ネットワークであり、地元銀行と同じように即座に現金を手にすることができた」

以上1950年代の時点での予見ですが、今から30年後、50年後は果たして、、、。
 
 本の始めの方で、1970年30歳の主人公は事業を起し、1908年型のアンダーウッドで手紙をタイプしていた、とありますが、私も30数年ほど前に?ある骨董店で買ったのがアンダーウッドだったのです!少々ホコリをかぶっていますが、当時実際に使用できた物でした。懐かしい!

          

 終わり近くで作者はこう言ってます。

「未来は過去よりよいものだ。悲観論者やロマンチストや、反主知主義者がいるにせよ、この世界は徐々によりよきものへと成長している。なぜなら環境に心を砕く人間の精神が、この世界をよりよきものにしているからだ。両の手で、、道具で、、常識と科学と工業技術で」
 

「ハインラインによってリアルに描き出された西暦2000年も今や過去になり、2009年に生きる若い人たちは、30年後の2030年を果たして大好きと言えるだろうか。そう言ってもらえる世界にしたいと今を生きる人たちは願っているだろうか」 訳者あとがき より
 
  


ジョン・レノン レターズ/ MOTHER

2013-06-02 11:14:06 | Weblog

                                                       

「ジョンは怒りであれ、喜びであれ、心が動いたときにはそれを文字にしないではいられなかった。ー中略ー
親族、友人、ファン、見ず知らずの人、恋人、さらには洗濯屋に宛てた、ほとんど300点にも上る手紙と葉書。1951年、10歳のときにリバプールの叔母宛てて書いた礼状から、最後となった1980年12月8日、40歳で亡くなったその日、ニューヨークの電話交換手の女性のために記したサインまで」  カバーより

 こんなにまめに書いていたんだなあ、というのが全体をざっと見た印象ですねえ。かなりの量なので少しずつ読むことにしますが、母と叔母、仲間、ポールへの愛僧、心の休まる時など無かったのでは?と思えるニューヨーク時代、など文書で読んで見ると改めて、凝縮された人生だったな、と思うのです。
 「マザー」が改めて心に響いてきました。

 編著の「ハンター・デイビス」は聞いたことのある名前だなあ、としばし、、そうだ昔読んだぞ、と本棚を見るとありました。これですね。44年前です!

               
                        1969年  880円

 「ハンター・デイビスが労を惜しまず、ビートルズの両親や友人、関係者にインタビューして、その生の声や意見を生き生きと伝えている」 訳者ノートより

「これは 『落第者のほうが偉くなれるんだ』 と言っているエネルギッシュな本だ。
ビートルズはいままで誰にも話さなかった思い出や、普通の人だったら内緒にしておくような大胆な告白をするので、ぼくは驚いてしまった」 植草甚一

                                   Mother, you had me,but I never had you
                                   I  wanted you but you didn't want me
                                  So I got to tell you
                                  Goodbye goodbye

                                  Father,you left me, but I never left you
                                  I need you but you didn't need me
                                  So I got to tell you
                                  Goodbye goodbye

 


アルジャーノン/誰かが足りない/チャーリー

2013-05-26 10:54:50 | Weblog

              
              2011                   2000

 「誰かが足りない」の一遍に認知症の母が語る章があった。
 「なにかニュースは?」と家族に聞かれる度に戸惑いと苛立ちを感じながら、同時に「様々な事を忘れている」という自覚もある。
 「ときおり訪れる正気のたびごとに、私は夫の死を新しく知るのだ。それをいつか安らかに受け入れられるときが来るのだろうか」

 こういう状況に自分がなったら、、。この女性の心中を思いながら、アルジャーノンを思い出していました。

 「32歳で幼児の知能しかないチャーリーに、大学の教授が頭を良くする  シロネズミのアルジャーノンと共に連日検査を受ける。手術によりチャーリーの知能は天才に変貌したが、、やがて退行していく。
いつかは来る「元の状態」への恐怖。
 
 「なにをすれば良いのか、おぼえていないという事実が。いままでは頭の中の黒板に書かれていたものが全部はっきり見えていたのに」

「教授、ぼくたちは、たまたま同じレベルに属しちゃいない。ぼくはあんたのいる階を通りすぎて昇っていったけれど、こんどはあんたの所を通りこして下へ降りていく」


「ほんの数ヶ月前に読んで楽しんだ本を取り上げてみて、内容が思い出せないというのは妙な気分だ」


「ぼくの論文を再読。自分がそれを書いたのだということはわわかっているのだけれど、誰か他の人間が書いたのだ、という感じがしてならない。大部分、理解すらできない


 ここまで書いていたら「good time charlie's got the blues」が頭に流れていました。チャーリーからの連想ですが、、、、。久しぶりに歌詞を確認。

「もうガキじゃないのだから。ぶらぶらしているとワイフを失うし、人生も棒に振ることになるよ。勝つ奴もいれば、負ける奴もいる。グッド・タイム・チャーリーにはブルースだ(ブルーになる)」


             You know my heart keeps tellin' me
             You're not a kid at thirty-three
             You play around you'll lose youe wife
             You play too long you'll lose your life

             Some gotta a win! Some gotta lose!
             Good time Charlie's got the blues !
             Good time Charlie's got the blues !

 * Good time Charlie  遊び人、道楽者、放蕩者。(陽気な人、という意味もある) 


ラジオのこちら側で/ディラン未発表詞

2013-05-19 07:47:37 | Weblog

     2013年

「1974年、一人のロンドン出身の青年が日本に降り立った。以来、異国の文化の壁にぶつかりつつ、世紀をまたいで音楽シーンとメディアの激変の波に揉まれながら、良い音楽を電波に乗せるべく今も奮闘中」本カバー より。

 70年代、80年代、90年代、2000年代と各年代の10曲ずつがリストで挙げられています(プラス2010~2012の10曲)がこの選曲が渋いです(私にとっては)。知らなかった名前、曲も多いです。
 トム・ペティがが未だに日本では売れていないとは思ってもいませんでした。ディランのバックバンドでの彼を武道館で見たのは、、検索してみると1986年3月5,6日のどちらか。2階席でしたね。
 ディランがまだしっかりと声を出して歌っている頃で、「Like a rolling Stone!」の部分を会場中が一緒に歌っていたのを覚えています!
 
 だらだらと?お喋りの多い日本のFMラジオの中では、バラカン氏のDJは私には最も好感の持てる番組です。この本を読むと音楽やラジオに対する彼の姿勢が番組に反映されていることがよく分かりますね。
そうだ、「60ミニッツ」というTBSの番組もありましたね。1988年スタートですか。これは深夜だったので録画してよく見ていましたよ(まだソニーのベータだったかな?)。

        

                    Go away you Bomb 

 「ディランの未発表詞、反原発ソングがクリスティのオークションに」、と新聞に。
この詞は1963年、イジー・ヤング(グリニッチ・ヴィレッジ、フォークロア・センターのオーナー)のために書いたものだそうで、現在85歳のヤングは1070年初めにストックホルムに移ったが、数年前、引き出しの中に忘れていたこの詞を見つけた、ということです。
 $39,000~$54,000になるだろう、というのですが、1ドル100円で計算すると、290万~540万円となりますねえ。



虹の彼方には青い空があるけれど/Against the Wind

2013-05-12 13:09:03 | Weblog

           2010年  

 「国を強化するな」より抜粋

 この20年の間に日本人は次々に拠り所を失ってきた。
家族が壊れ、会社が崩れ、経済が低迷し、世間がとても冷たくなった。
だから最後の拠り所とばかり国家論が流行る。それもみな、国を強化しようという論議だ。

 その種の論者によれば、これから、自衛隊は軍隊になって世界で活躍し、皇室は永遠に栄え、国民はこぞって国に奉仕し、経済は躍進する。教育はこのような国家を支える人材を作り出す。
人のための国ではなく、国のための人。
                         ー中略ー
 ヨーロッパ史で言えば、これは半世紀前に完全に放棄された道だ。なぜならば国家の強化は危険だということを痛い経験で学んだから。
日本だって、昭和十年代にやってみて失敗したではないか。
 だから国のほうは今くらいにしておいて、失った家族や会社の回復を図ったほうがよい。
気持ちのいい世間を取り戻したほうがいい。
努力を投入すべき対象は国家ではなくそちらのほうだと思う。       2006年 広告批評 一月号 


 「ぼくの憲法論」 より抜粋


「今の日本は行き詰まり感に包まれている。  ー中略ー 
しかしそれは憲法のせいではない。憲法を変えたからといって日本が立派な国になるとは思えない」

「立派な国というのは、まず国民が安心して暮らせるところであり、不平等感のない社会であり、よその国から敬愛される国のことだ。
今の日本がこの条件を満たしているとは思えない。
この憲法があるから満たせないのではなく、
この憲法にもかかわらず満たせないのだ」

 「憲法を変えることを考える前に政治を変えよう」                  2005年 東京新聞 5月1日

虹の彼方には青い空があるけれど、ぼくたちの周囲には強風が吹き荒れている。その風に翻弄されながら、自分の考え、という杭に何とかしがみついて書いたのがこれらのコラムである。  著者まえがき より

                                        Against the wind
                                        I'm still runnnin' agaist the wind
                                        I'm older now but still running
                                        Against the wind
                                        Well I'm older now but still running
                                        Against the wind


 


Pain in my heart/alkaseltzar

2013-05-05 07:59:02 | Weblog

 1年ほど前から「抜いたほうが良い」と言われていた歯をとうとう抜歯。麻酔注射の後いよいよ、と思ったらあっけなく終了(1分もかからなかった?)。やれやれでしたが、翌日のダルさは以前抜いた時と変わらず、軽く痛みがあるなあと歩きながら思っていたら、「tooth ache,head ache」という単語が頭に浮かんできました。
                            
  初めてアメリカへ行った時、頭が痛くなったので映画か何かで見て知っていた「アルカセルツァー」を買ってみたのです。
   コップに錠剤を入れたらソーダのような泡になり、旨くないな、と思いながら飲んだのですが、こんなことも「アメリカだなあ」なんて当時は思ったものでした。
acheという単語をはっきり認識したのはこの時からですね、多分。ついでに、「pain」「hurt」は歌で覚えたのかな? 「pain in my heart」、「Love hurts」など上げればキリがなさそう。
 
 そう言えば、アメリカ行きの機内で「care for ~」を覚えたのでしたね。
スチュワーデス(当時の呼称)が「care for tea or coffee」と各席の人に聞いて回っているときに聞いたのが最初でした。これは学校で習った記憶はなかったなあ(自分が知らなかかっただけかな?)。

                    

                                        Pain in my heart, just won't let me sleep
                                        Where can my baby be
                                        Lord where can she be

                                        Pain in my heart,a little pain in my heart
                                        Stop this little pain in my heart
                                        Someone stop this pain

 


He was a friend of mine

2013-04-29 18:42:15 | Weblog

 
  アメリカから帰省中のHと、弟の墓参り。暖かな小春日和で良い時間を過ごせました。
墓石に水をかけ拭き取りながら、Hは「彼はいつもはここにいなくても、こうしている時にはすぐにここに来るように思う」と。  
そうですね、今も見ているのでしょうか、、。Mには会ったのでしょうか、、。

 父の埋葬日を見ると、彼は父親よりも早く逝ったのですね(漠然とは思っていましたが、、、)。
様々な想いが去来しましたが、、、、Hが持参した花を供え、お線香を供え、しばし合掌、、、。
 
 小さかった甥っ子や、愛犬が遊んだ野原が全く変わらずあり、彼らがニコニコと走っている姿を思い出しながら、過ぎ行く時の早さを改めて感じたのでした。

                   
 色々と話す中で思い出したのがこのプラント。20数年前、Hがアメリカに引っ越す際に引き取ったプラント(他にスパシフィラムも)が、今もなんとか我が家に健在です。

 ターミナル駅で別れ、電車の中でアイポッドのスイッチをオン。シャッフルで聞いていると2曲目に、ウイリー・ネルソンの「He was a friend of mine」が流れてきました。久しぶりに聞いたのですが、この歌詞が今日はグッと胸に迫ってきて、、。

               He was a friend of mine

               He was a friend of mine
               Everytime I think about him now
               Lord,I just can't keep from cryin'
               'Cause he was a friend of mine


Take me to the ballgame/アメリカの心の歌

2013-04-21 10:57:15 | Weblog

            
                2012

 「アメリカは歌の国だと思う。人々のあいだに、アメリカの心を育ててきたのが歌だ。アメリカの歌がうたってきたのは、つねに一つの主題だ。アメリカだ。それぞれにとっての『私のアメリカ』だ。
『私のアメリカ』をいま、ここに表すこと。そのことがアメリカの歌の世界を作ってきた」  はじめに、より抜粋

 「アメリカの心の歌」が忘れていた沢山の歌、歌手を思い出させてくれました。
「マック・ザ・ナイフ」「メアリー・ブラック」「ジョン・プライン」「ジェリー・ジェフ・ウォーカー」などなど、きりがないなあ。
 歌と歌手たちの物語も良いです!アメリカの風景(平坦な大草原、草の匂い、モーテル、ハイウェイ、レストランの音、ウマくも不味くもないコーヒー、など)を思い出しながら、気になる歌をYouTubeでチェックしながらの、懐かしく楽しい時間でした。
 初めて知った名前、事柄も多く、「シティー・オブ・ニューオリンズ」の「スティーヴ・グッドマン」が「野球に連れて行って」を歌っているのは初耳でした!彼はシカゴ・カブスの大ファンだったのですねえ。

                             

 リグレー・フィールドへ行ったのは1998年。球場の名物アナウンサーのハリー・ケリーが亡くなった年の4月で、彼の似顔絵の入ったピンバッジを貰ったのです(どこかにあるはずですが、、)。
 一緒に行ったRと私は冬用のコートをM夫妻から借りて行ったのですが、寒かったなあ。暖かいものを、とココアを買ったのですが、ぬるかった! しかし球場はクラシックな作りで良かったですね。サミー・ソーサが活躍していた時代でした。

           
                              M                    
                           

              Take me out to the ball game
              Take me out with the crowd
              Buy me some peanuts and Crader Jack
              I don't care if I never get back
              Let me root,root,root for the home town,
              If they don't win,it's a shame
              For it's one,two,three,you're out
              And the old ball game