江戸時代、肥後熊本藩には優れた石工が多数おり石造りの建造物が多く作られました。中でも種山石工と呼ばれる集団は江戸が終焉し明治、大正の時代にも
その技術を以て日本各地で多くの石橋を架けたそうです。先にご紹介の通潤橋も種山石工の代表的な作品の一つです。
それ以前の木の橋は例年の大水で簡単に流され住民に難義を強いてきましたが、肥後の石工たちによって作られる頑強な石橋には「永代不朽」という技術と思いが込められていました。
そしてその言葉通りに200年経った今も熊本県内には大小さまざまな多くの石橋が残されています。
通潤橋にはタクシーで行きました。日に何本かバスもあるのですが放水の時間やその後の予定にぴったり合わないし、往復で3時間以上、単に移動だけになるというのも嫌でした。
タクシーを使えば通潤橋だけでなくその周辺に点在する石橋のいくつかも回ってもらえます。運よく良い運転手さんに当たり、この作戦は大成功でした。
二俣橋1829-1830築 高さ8m
美里町の佐俣にある連橋。二つの川の合流地点ににあり、釈迦院川にかかる二俣渡(右側)(1829)と津留川にかかる二俣福良渡(1830)の二橋がほぼ直角の位置で繋がっています。
ここは地図上では二俣五橋と記載されていますが、上の写真を見ると左の橋の奥に並列するコンクリートの橋が、右の橋の60m奥に更に別の橋が二本見えます。Rさんも見えます。
二俣渡。最近この橋はある時期にハートの形の影が見えるという事でその時期だけ賑わう観光地と化していますがくだらないのでここでは省略。(二俣橋で画像検索してみて)
奥に見える石橋は年祢橋(としねばし)。谷底にあった二俣橋の不便さを補うために大正末期に架けられました。その後交通量の増加のためその手前に鉄橋も架けられました。
二俣福良渡のすぐ隣にもかなり古そうなコンクリートのアーチ橋があります。右の石橋には車が通れる幅がなかったために作られました。コンクリート橋も時を経てよい風格が出ています。
ただ、橋の一部はかなり孕んでいて早い時期に修復が必要に思えました。
大窪橋1849年築 高さ6m
二俣橋から約10分。津留川の南の大窪集落のために架けられました。
橋の両端に桜が植えられています。花の頃にはさぞかし美しい眺めになりそうな。
アーチ中央の石は僅かに二段しかありません。つる草の根が内部に浸食しないことを願います。
霊台橋 1847年 高さ16m 重要文化財
全長90mで明治以前の石橋の中では最長。幅も5.45mあり1960年代まではこの上にさらに石垣を積んで道の高さを揃えた上で普通にバスが走っていたそうです。
種山石工の作品。美しいカーブです。これがなかったころは下流の渡し船だけが交通手段だったとのこと。
谷底に近いところに降りるコースなどやはり地元を知り尽くしたドライバーさんのガイドのおかげ。記念写真も撮ってくれます。
9時前に走り始めて、ここまでで約2時間。11時になったので橋巡りは中断して通潤橋に向かいました。12時の放水が終わってから再びタクシーに乗って熊本駅に向かうのですが、
通り道で寄れそうな橋をもうひとつ見せてくれました。
下鶴橋 1883年 高さ14.2m
見てきた中では一番新しい明治の橋。1822年に種山村に生まれた橋本勘五郎作。橋本勘五郎を調べると26歳で霊台橋、5年後に通潤橋を手掛けています。
肥後藩から苗字帯刀を許され、明治になってからは新政府に招かれ宮内省に出仕。東京で万世橋、浅草橋、京橋などを築いたとのこと。
その後は熊本に戻ってさらに橋造りの腕をふるい1897年に76才で死去、、、、、。大河ドラマになりそうな一生です。そんな勘五郎さんが61才で築いた下鶴橋でした。
ここも橋の袂に大きな桜がありました。満開の姿を見て見たいものです。
以上。半日で都合7つの石橋を見ることが出来ました。これは二人でバスに乗っていたらとても為し得なかったことですね。運転手さんありがとう。
バスよりコストはかかりますが(5時間乗って18,000円でした)それに見合う以上の見返りがあったと思います。楽しかった~~!
観光案内所などに行くと「くまもと 石橋くるりたび」という56ページもある立派な石橋のブックレットを無料でもらえますが
これには全部で82か所!の石橋が紹介されています。「石橋の国」ですね。これからも永代不朽の魂を末永く残して欲しいと思いました。
その技術を以て日本各地で多くの石橋を架けたそうです。先にご紹介の通潤橋も種山石工の代表的な作品の一つです。
それ以前の木の橋は例年の大水で簡単に流され住民に難義を強いてきましたが、肥後の石工たちによって作られる頑強な石橋には「永代不朽」という技術と思いが込められていました。
そしてその言葉通りに200年経った今も熊本県内には大小さまざまな多くの石橋が残されています。
通潤橋にはタクシーで行きました。日に何本かバスもあるのですが放水の時間やその後の予定にぴったり合わないし、往復で3時間以上、単に移動だけになるというのも嫌でした。
タクシーを使えば通潤橋だけでなくその周辺に点在する石橋のいくつかも回ってもらえます。運よく良い運転手さんに当たり、この作戦は大成功でした。
二俣橋1829-1830築 高さ8m
美里町の佐俣にある連橋。二つの川の合流地点ににあり、釈迦院川にかかる二俣渡(右側)(1829)と津留川にかかる二俣福良渡(1830)の二橋がほぼ直角の位置で繋がっています。
ここは地図上では二俣五橋と記載されていますが、上の写真を見ると左の橋の奥に並列するコンクリートの橋が、右の橋の60m奥に更に別の橋が二本見えます。Rさんも見えます。
二俣渡。最近この橋はある時期にハートの形の影が見えるという事でその時期だけ賑わう観光地と化していますがくだらないのでここでは省略。(二俣橋で画像検索してみて)
奥に見える石橋は年祢橋(としねばし)。谷底にあった二俣橋の不便さを補うために大正末期に架けられました。その後交通量の増加のためその手前に鉄橋も架けられました。
二俣福良渡のすぐ隣にもかなり古そうなコンクリートのアーチ橋があります。右の石橋には車が通れる幅がなかったために作られました。コンクリート橋も時を経てよい風格が出ています。
ただ、橋の一部はかなり孕んでいて早い時期に修復が必要に思えました。
大窪橋1849年築 高さ6m
二俣橋から約10分。津留川の南の大窪集落のために架けられました。
橋の両端に桜が植えられています。花の頃にはさぞかし美しい眺めになりそうな。
アーチ中央の石は僅かに二段しかありません。つる草の根が内部に浸食しないことを願います。
霊台橋 1847年 高さ16m 重要文化財
全長90mで明治以前の石橋の中では最長。幅も5.45mあり1960年代まではこの上にさらに石垣を積んで道の高さを揃えた上で普通にバスが走っていたそうです。
種山石工の作品。美しいカーブです。これがなかったころは下流の渡し船だけが交通手段だったとのこと。
谷底に近いところに降りるコースなどやはり地元を知り尽くしたドライバーさんのガイドのおかげ。記念写真も撮ってくれます。
9時前に走り始めて、ここまでで約2時間。11時になったので橋巡りは中断して通潤橋に向かいました。12時の放水が終わってから再びタクシーに乗って熊本駅に向かうのですが、
通り道で寄れそうな橋をもうひとつ見せてくれました。
下鶴橋 1883年 高さ14.2m
見てきた中では一番新しい明治の橋。1822年に種山村に生まれた橋本勘五郎作。橋本勘五郎を調べると26歳で霊台橋、5年後に通潤橋を手掛けています。
肥後藩から苗字帯刀を許され、明治になってからは新政府に招かれ宮内省に出仕。東京で万世橋、浅草橋、京橋などを築いたとのこと。
その後は熊本に戻ってさらに橋造りの腕をふるい1897年に76才で死去、、、、、。大河ドラマになりそうな一生です。そんな勘五郎さんが61才で築いた下鶴橋でした。
ここも橋の袂に大きな桜がありました。満開の姿を見て見たいものです。
以上。半日で都合7つの石橋を見ることが出来ました。これは二人でバスに乗っていたらとても為し得なかったことですね。運転手さんありがとう。
バスよりコストはかかりますが(5時間乗って18,000円でした)それに見合う以上の見返りがあったと思います。楽しかった~~!
観光案内所などに行くと「くまもと 石橋くるりたび」という56ページもある立派な石橋のブックレットを無料でもらえますが
これには全部で82か所!の石橋が紹介されています。「石橋の国」ですね。これからも永代不朽の魂を末永く残して欲しいと思いました。
それぞれの美しい石橋にただただ感心するばかりです。
橋本勘五郎博物館など出来そうですね。
もうある?
やはり地元の事は地元の人に。
石橋の博物館「石匠館」っていうのがあるみたいですけど
今回は行かれませんでした。
石の橋は本当に見ていて気持ちがいいので、今後とも各地で
縁があったらあっかけて見たいです。