ぼくらのありのまま記

ぼくらは
こんな大人になりました。

いろんな人がいるなぁ。

2015-09-23 23:58:51 | 唐桑日記
震災があった2011年。
その時から東北へ定期的に
来ている方が沢山います。

企業だったり、個人だったり。
何かをしに来ている人も入れば
のんびりしに来る人もいるし、
「お金使いに来たんだから
美味しいもの沢山だしてね」って
人もいる。

いろんな人がいるなぁ。
いろんな場所を巡っている人もいるし、
仲良くなった人がいて
同じ場所に通っている人もいる。

同じ場所に通っている人でも
「ちょっと気仙沼に行ってみよう」と
つなかんに泊まって、次の日は岩手に北上。
そういう人もいる。

初めてつなかんに来た、
夫婦のお客さん。
九州から車で来てくれた。
2011年の3月12日に
震災のニュースを見て。
陸前高田の中継で写っていた人が
「助けが必要です」と
訴えていたのを聞いて、
「じゃあ、ちょっと行って来る」と
1人で支援物資を抱え
50ccのバイクにまたがった
定年を迎えたお父さん。

「どこに行くの?」

「陸前高田」

「そのカブで?」

「そう」
って出発しようとしたら
支援物資が多すぎて転んだんだって。
「あんたそんなんじゃたどりつかないわよ」
そう言われて結局、自動車で陸前高田に向かった
お父さん。それから結局
40日間帰ってこなかったんだって。

「まだ帰って来ないの?」
帰ってこない夫に電話をすると

「まだ帰れない。」と
切られて。

40日たってるのに「まだ帰れない」って
そんなことあるの!?
「絶対、女ができたんだ!!」って
心配になったお母さん。
箱入り娘のお母さんは
いてもたってもいられなくなり。
産まれてはじめて自分で
飛行機と新幹線チケットをとって
はじめてのひとり旅(旅というのか?)が
お父さんに女の影がある被災地。

ドキドキしながら東北に向かった。
お父さんに新幹線の駅まで迎えに来てもらい
滞在していた陸前高田に到着。

その時に女の影を疑ったことを
お父さんと東北の人に
申し訳ないなぁと思ったそうだ。
「こんな状況でそんなことを
思うんじゃなかった。」と。

九州のテレビで得る情報とは
全くちがった景色がそこにあった。


お母さんもお父さんと一緒に
同じ場所で同じ景色をみて、
仮設に住んでる現地の方と関わりを持つ。


仮設に住む老人が自殺したニュースが
流れるような時期で、
お母さんは思ったことがあって。

「今さぁ、みんな仮設に住んでて
広い居間もないし。お茶したり
なんとなく集まれる場所が
ないのが寂しいね。」とお父さんに
話したら
「俺も全く同じことを思ってた。」と
お父さんが同じ気持ちでいたことが
お母さんは嬉しかったんだって。

「生き延びたのに自ら命を断つのは
あまりに寂しいから。」

その後、その夫婦は
現地でコミュニティスペースの
運営に関わって、今でも
(今はその場所の役目は終えて
現地のカルチャースクールなどを
行う場所になっている。)
年に2〜3会は東北に通って、
仮設にボランティアをしに来ているそうだ。



「こんな状況でじぶんにできることなんてない。」
お父さんを追いかけて東北に着いた時、
まずお母さんが感じたことはそんなことだった。
あれから4年。今でも楽しそうに通ってくれている。





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