ぼくらのありのまま記

ぼくらは
こんな大人になりました。

矢田さんと。「ちまきはちまきやのちまき」東洛堂ちまきや

2014-05-01 09:00:00 | ぼくらのありのまま記
第1話 ちまきやのちまき

まずはちまきやの歴史から
始めたいとおもいます。
ご主人の旦那様、ゆきおさんも
来てくれました。


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矢田
私の実家がちまきや。じぃじのお父さん、
つまり私の祖父が京都の川端道喜という
ちまきを作るお店で修行していました。
きっかけはわからないんだけど、
祖父が東京に行くことになって。


たら
はい。

矢田
川端道喜さんから、これをやってよろしい
という許可をもらって。


たら
免許皆伝を受けたんですね。

矢田
洛は都っていう意味、都の東ってことで
東洛堂ちまきやっていう名前にして。


たら
はい。

ゆきおさん
明治維新で宮中が東京に移って来た時に、
祖父も移って来て、宮中にもお納め
していたんだと思うよ。

たら
指令できたんですかね?

矢田
それはわからないわ。


ゆきおさん
明治維新で来たんだよ。

矢田
そんなに古くないわよ。


ゆきおさん
明治維新ではなくても明治時代だよ。
大正4年生まれでしょ?

矢田
そうね。


ゆきおさん
とらやさんもそうだよ。
都が移ったからそれで来たんだと思うよ。
1900年前後だとは思うけどね。


矢田
それで溜池にお店をだしたんですよね。


たら
はじめは赤坂ではなかったんですね。

矢田
そう。そこで太平洋戦争までやっていて。
戦争になって神奈川県の湯河原に
引っ越したんですね。昭和26年かな。
私が生まれる頃に東京に戻ってきて。
住まいだった赤坂に工場を作って
再び始めました。祖父母はそのまま
湯河原で余生を過ごすんですね。


たら
祖父はお店に戻ってこなかったんですか?

矢田
そう。それでじぃじ、私のお父さんが
始めたんです。父は溜池のお店の頃から
一通り仕事はわかっていたから。
溜池のお店は職人さんも沢山使って
やっていたと聞いています。
それが戦争でばらばらになって。


たら
はい

矢田
で、私たちが育つ頃、
昭和30年代~40年代は父と溜池で
働いていた職人さんが一人、二人と赤坂で
一緒に働いてくれたんだと思います。
「ちまきや」は5月のちまきを売るお店。
通常も季節の上生菓子、練り切り、
上用まんじゅうとかを作っていました。


たら
和菓子も季節、旬があるんですね。

矢田
あるの。ほんとにその季節ごとで
旬のお菓子しかつくってなかったの。
じぃじの和菓子はとても奇麗だったわよ。
お正月用のお菓子もありました。
それで5月はちまきだけを作るの。


たら
へー。

矢田
ちまきの時期が来ると、かつて店にいた
職人さんが手伝いに来てくれました。
夜通し作ってましたね。私たち、
三姉妹なんですけれど、小さい時は
邪魔になるから親戚に預けられて、
小学校の2年生くらいからは手伝い。

今井
なにから手伝うんですか。

矢田
まずは乾燥した笹の葉を店の表の釜で
茹でます。それから大きな釜に水を張り
茹でた笹の葉を洗うんですよ。それから
また奇麗なお水につけておくんだけど。



(乾燥した笹の葉)
たら
はい。

矢田
その期間中は湯船も笹の葉用になっちゃう。
だからお風呂屋さんにいくの。


ゆきおさん
お風呂屋さんも近くにあったからね。

矢田
それから、姉達は食事番を。

たら
食事番もいるんですね。

矢田
バイトも6人くらいいたでしょ。
食べ終わったらすぐ仕事に戻らないと
ですから。その子達が笹を洗ったり、
葉っぱを結わいたり。笹は新潟から熊笹が
届くんですよ。それを外して整えて結わき直して。


(笹の葉を茹でます。
やらせてもらいました。)

ゆきおさん
バイトも代々続いていたんだよ。
同じ大学の子がね。


たら
アルバイトも後輩を紹介してくれて、
受け継いでいたんですね。

矢田
なんとか荘っていう下宿所で、下着も
洗濯しないで裏返してはいちゃうような
学生たちが来て2~3年手伝うわけよ。
その子たちがまた後輩を紹介して。


たら
紹介って大切ですよね。短期で忙しい時に
動けない子が来ても困りますよね。

矢田
そうね、雰囲気が合わない子は辞める。
上智、慶応、早稲田大学とみんな
勉強できる子たちでしたよ。彼らは当時、
自転車に大きな竹のかごをつけて配達も
していたんです。きれいな竹籠に
十本一束に束ねたちまきをきれいに詰めて
それは素敵なご進物でした。歌舞伎座、
築地の料亭、新喜楽さん、銀座の
日動画廊さんとかがお得意様に差し上げる
ものであったり。そういう注文が来るから
座敷も全部使って、こっちは築地、
こっちは銀座。場所とお店を
まとめて置きます。それを大学生が
運ぶんですけど。間違えないように。


たら
はい

矢田
「赤坂の料亭は僕が行きます!」とか、
バイトの子が張り切ってね。奇麗な
お姉さんたちがいるから人気だったり。

たら
それは僕も運びたいですね。

ゆきおさん
東宮様のお使いの人も取りにきたよ。

矢田
それはそれはいろんな顔ぶれでした。


たら
お母さんが子どものころは
既にちまきやは有名だったんですね。

矢田
有名だったと思う。
「ちまきはちまきやのちまき」
って東京ではね。


たら
へー。

矢田
とらやさんも作っていましたが、
ちまきはやっぱりちまきやさんて
言って頂いていたみたいね。
ありがたいですね。



(奇麗に拭き取り、
乾燥しないように気をつけます。)

たら
財界から皇室から、すごい顔ぶれですね。

矢田
注文いただいていました。
籠に詰めて自転車で運んで、時代ですね。
そういう感じで、赤坂で続けながら
私たち娘、三人とも嫁いで、末っ子の私が
嫁いだのが1976年。

 
その頃は職人も使わず、父と母で細々と
続けていました。5月はみんなお手伝いに
来ていましたけど。普段は
ぽつりぽつりと、ご贔屓さんや
お茶会で頼まれて作っていました。


今日はここまで。
読んで頂きありがとうございます。
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