ラジオで、觀世流“京觀世”の「清経」を聴く。
弱吟も強吟に聞こえる東京の觀世流には無いまろやかな謠は、さすが“京觀世”の傅統文化を受け継ぐ能樂師たちと、樂しんで耳をかたむける。
宇佐八幡宮にも見捨てられて運命の果てを知り、九州柳ヶ浦で入水した平清経は自力で佛果を得て成佛するが、都に独り残った挙げ句に再會の約束をも反故にされた妻はだうなるのか、主役(シテ)本位の謠曲にもちろんその描冩はない。
しょせん夫婦の契りは現世の假初に過ぎない、からだらうか?
嫁だの妻だの家内だの、さういふご縁を必要とは思はない私には、生涯解けない“愛”の問題だらう。
その清経が入水するまでの心境を叙述したクセは、學生時代にTVで觀た喜多流の友枝昭世師の舞臺が最上と、私はいまも信じて疑はぬ。
忘年忘月、忘流で謠仕舞を習ってゐる或る愛好者が、このクセを仕舞でつとめた。
本人としては満を持してのやうだったが、結果は私などが見てさへ不調であった。
舞台を下りてから、その人は頻りに首を傾げて私にぼやいてゐたが、私もただ黙って一緒に首を傾げてゐた。
私は、優しいのである。