國立公文書館にて、企画展「江戸城の事件簿」を觀る。
江戸城敷地内で發生した殺人事件、窃盗事件、災害事件を、當時の官吏たちがしたためた公文書から探っていく興味深い内容で、まず江戸城内での刃傷沙汰と云へば、元禄十四年(1701年)三月十四日の「松の廊下事件」を思ひ浮かべるが、それ以前にも大老堀田正俊殺害事件──貞享元年(1684年)八月二十八日──、以後では板倉修理刃傷事件──延享四年(1747年)八月十五日──、田沼意知刃傷事件──天明四年(1784年)三月二十四──などがあり、これまで單独で聞いたことのある事件をかうして一線上に並べると、なるほど天下泰平であっても政府中枢での刃モノ沙汰は時おり發生してゐたのだな、と思ふ。
これらの刃傷事件は真相が「不明」とされており、この頃はまだ權力の睨みが効いてゐたことを思はせる。
が、德川政權もそろそろ怪しくなってきた文政六年(1823)四月二十二日に發生した松平外記刃傷事件に至っては、「職場内のイジメにつひにキレた」松平外記の抜刀にまわりの幕臣たちは逃げ惑ひ、或ひは物陰に隠れ、挙げ句に皆で口裏を合はせて事件を隠蔽しやうとしたことなどが巷間に表沙汰となり、いよいよ抑えが効かなくなってくる。
しかしそれ以上に、血刀を振り回す松平外記のまわりでオロオロした挙げ句に事件の隠蔽を謀った武士役人たちの怠弱腐敗ぶりはまさに末期症状そのもの、大老堀田正俊を斬殺した若年寄稲葉正休を老中たちがその場で斬り伏せた1684年當時とは、まさに隔世の感あり。
さうした“征夷大将軍”治世下末期のサムライの腰抜けぶりは、柴田錬三郎が「眠狂四郎」のなかで古川柳を引くなどしてたっぷり揶揄してゐる。
『大名の 先祖は野に伏し 山に伏し』
ときには江戸城内の御金藏──國庫──が破られる不祥事も公文書には記録され、安政二年(1855年)三月六日に奥金蔵から四千両が盗まれた事件については、三十年後の明治十八年に河竹黙阿彌が「四千両小判梅葉」と云ふ外題で實録物の歌舞伎劇に仕組み、現在もたまに上演される。
(※六代目尾上菊五郎の富蔵、初代中村吉右衛門の藤岡藤十郎)
私も二昔前に木挽町で觀てゐるが、藤岡藤十郎と無宿人富蔵の二人が御金蔵破りを決意する“堀端の場”のあと、實際に御金蔵破りをする場面は省略し、次場で二人が千両箱を背負って登場することで、まんまと成功したことを暗示する演出が上手いと思った記憶がある。
──もしこれら“事件簿”を現代に置き換へて情報開示請求を行なった場合、さだめし真っ黒に塗りつぶされたしろものが出てくることだらう。