パソコン教室での話である。
今日は天気がいい。
先生の伝言。
デジカメを持参するようにと。
友に確認すると、全員に持ってくるようにとのこと。
どこに行くのか? 桜には少し遅いし?
まあ、外へでれば なにかに出合える。
出合えれば 何かに 小さく感動できるだろう。
大きな感動は 写真も俳句も題材として難しい
と何かの本に書いてあった
13:30
全員デジカメを持って 集合した。3台の車に分乗し 近くの川土手に着く。
いろいろなカメラ.
100,200、300、400万画素。Olympus、SHARP、CASIO、NATIONAL等・・・。
最近急激な技術進歩であったことを裏付ける。
先生から
『1.遠くから 近くから 大きく 小さく
2.前の菜の花を入れたら 静止だけでなく動きも面白い
3.あっちから こっちから 視点を変えても 土手の下 上からも
・・・・・
・・・・デジカメの特性も加味して・・・望遠、接写、焦点・・・・
・・・
いろいろ撮って見てください。』
難しいことを 言われたわけではないが いざ 撮る段になって どこをどうするか?
いいとこ ない 目移り 、対象も絞れない。
「どこでも、どうでもやってみたれ」 と!
だれも いいところを 見せたい。これ 人の欲。自己防衛が働く。恥をさらしたくない。
あの人がセンスいいから。視点が違うから。と自己弁護?
まあ 何でも撮るぜ。と開き直る。
数をこなす、足でかせぐ。そのうちいくらかは いいのあるだろう?
数は 質に転換することを信じて。100枚ほど撮った。
写生とは いかに自然を剥ぎ取るか。
空間と時間の変化が 捉えられるか?どう付き合えるか?
俳句とは 写生だと。 俳句の先生に習った。そうだ俳句を撮ろう?逆転の発想?
自然諷詠を。自然の一コマをとるのだ。
それを 言葉に変える。感情でなく自然をさらりと描く。
短歌は感情を書き、俳句は 自然を描く。そこに季語を入れるだけ。
季語とは何か?
歳時記にある言葉。季語は俳句を俳句らしくする言葉である。
わかったようでわからない。まあいいか。
わかった振りしていれば そのうちわかるだろう?
自然をよく見て。そこを写生する。そのためにまた見る。
真実を書けばいい。
自然の事実ではなく、心の真実を書けばいいのだ。
なんと簡単。 なんと難関。
デジカメで覗くと 自然は目に入る自然とは 違う。
目には 広範囲な自然が映る。カメラは その一部を剥ぎ取り映像として残してくれる。
俳句は その剥ぎ取られた自然の一部を 写生し、心の真実に問いかけ 融合させて それを言葉で置き換える。
17文字の中に 自然の全部の情報は 表現できない。
省いて 省いて 感情を捨て 自然を素直な言葉で 表現すればいいのだ」。
なにをいいたいのか?その一言を。
心からでる言葉で。
『存問』すればわかるという? 自然との対話であり、感謝、労わり、慰めの精神がいるとのこと。
人は 自分が可愛い。恥はかきたくない。
でも じぶんを出してみないと 何もわからない。
出して 跳ね返ることで自分を知る。
俳句を自分の鏡として自分を裸にする、恥の部分をも映し出す鏡だと思う。心の鏡である。
そんな ことを 考えらせてくれた。
1時間ほどで 教室に帰った。デジカメからパソコンに映像を移した。
来週は これの発表会・鑑賞会になろうか。
写真からなにを掘り出すか?楽しみであり また不安である。
自分の心がばれるのだ。
でも 恐れはしない いつも出しているつもりだ。
自然体でいよう!
絵を俳句にしてみよう!
その前に 絵は みんなに見せるに値するのか?
その前に、自分が 小さな感動がもてるのか?
100枚の中から探そう。みんなにも 頼もう。
素直に お願いしよう。
---------------
1.写真解説(0420):高屋川此岸(北)から彼岸を
♪菜の花やどこに双蝶とまるかや♪
今日は天気がいい。
先生の伝言。
デジカメを持参するようにと。
友に確認すると、全員に持ってくるようにとのこと。
どこに行くのか? 桜には少し遅いし?
まあ、外へでれば なにかに出合える。
出合えれば 何かに 小さく感動できるだろう。
大きな感動は 写真も俳句も題材として難しい
と何かの本に書いてあった
13:30
全員デジカメを持って 集合した。3台の車に分乗し 近くの川土手に着く。
いろいろなカメラ.
100,200、300、400万画素。Olympus、SHARP、CASIO、NATIONAL等・・・。
最近急激な技術進歩であったことを裏付ける。
先生から
『1.遠くから 近くから 大きく 小さく
2.前の菜の花を入れたら 静止だけでなく動きも面白い
3.あっちから こっちから 視点を変えても 土手の下 上からも
・・・・・
・・・・デジカメの特性も加味して・・・望遠、接写、焦点・・・・
・・・
いろいろ撮って見てください。』
難しいことを 言われたわけではないが いざ 撮る段になって どこをどうするか?
いいとこ ない 目移り 、対象も絞れない。
「どこでも、どうでもやってみたれ」 と!
だれも いいところを 見せたい。これ 人の欲。自己防衛が働く。恥をさらしたくない。
あの人がセンスいいから。視点が違うから。と自己弁護?
まあ 何でも撮るぜ。と開き直る。
数をこなす、足でかせぐ。そのうちいくらかは いいのあるだろう?
数は 質に転換することを信じて。100枚ほど撮った。
写生とは いかに自然を剥ぎ取るか。
空間と時間の変化が 捉えられるか?どう付き合えるか?
俳句とは 写生だと。 俳句の先生に習った。そうだ俳句を撮ろう?逆転の発想?
自然諷詠を。自然の一コマをとるのだ。
それを 言葉に変える。感情でなく自然をさらりと描く。
短歌は感情を書き、俳句は 自然を描く。そこに季語を入れるだけ。
季語とは何か?
歳時記にある言葉。季語は俳句を俳句らしくする言葉である。
わかったようでわからない。まあいいか。
わかった振りしていれば そのうちわかるだろう?
自然をよく見て。そこを写生する。そのためにまた見る。
真実を書けばいい。
自然の事実ではなく、心の真実を書けばいいのだ。
なんと簡単。 なんと難関。
デジカメで覗くと 自然は目に入る自然とは 違う。
目には 広範囲な自然が映る。カメラは その一部を剥ぎ取り映像として残してくれる。
俳句は その剥ぎ取られた自然の一部を 写生し、心の真実に問いかけ 融合させて それを言葉で置き換える。
17文字の中に 自然の全部の情報は 表現できない。
省いて 省いて 感情を捨て 自然を素直な言葉で 表現すればいいのだ」。
なにをいいたいのか?その一言を。
心からでる言葉で。
『存問』すればわかるという? 自然との対話であり、感謝、労わり、慰めの精神がいるとのこと。
人は 自分が可愛い。恥はかきたくない。
でも じぶんを出してみないと 何もわからない。
出して 跳ね返ることで自分を知る。
俳句を自分の鏡として自分を裸にする、恥の部分をも映し出す鏡だと思う。心の鏡である。
そんな ことを 考えらせてくれた。
1時間ほどで 教室に帰った。デジカメからパソコンに映像を移した。
来週は これの発表会・鑑賞会になろうか。
写真からなにを掘り出すか?楽しみであり また不安である。
自分の心がばれるのだ。
でも 恐れはしない いつも出しているつもりだ。
自然体でいよう!
絵を俳句にしてみよう!
その前に 絵は みんなに見せるに値するのか?
その前に、自分が 小さな感動がもてるのか?
100枚の中から探そう。みんなにも 頼もう。
素直に お願いしよう。
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1.写真解説(0420):高屋川此岸(北)から彼岸を
♪菜の花やどこに双蝶とまるかや♪
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