三人の国家観
丸山眞男の国家観:
⑴ 丸山における国家とは、自律的自我が制度的に共存・対話する空間である。戦前の国体国家における「国家による人格吸収」を批判し、国家とは個人の自由と責任によって支えられる制度的枠組みであるとした。
⑵ 個人は国家の中に没入すべきではなく、制度を通じて批判的・公共的関与を行うべきである。ここには「理念としての国家」や「宗教的正統性としての国家」は存在しない。
西田幾多郎の国家観:
⑴ 西田は『国家と宗教』(1941)において、国家とは歴史的世界の自己表現であり、宗教的統一を内包する理念的全体であると論じた。彼の「場所の論理」においては、個人と国家は外在的な関係ではなく、絶対的一者の場所における自己相即的関係にある。
⑵ 国家は「永遠の今」における倫理的自己形成の場であり、個人はそのなかで歴史的使命を果たす存在である。つまり国家は倫理的・宗教的・歴史的理念としての現存在である。
和辻哲郎の国家観:
⑴ 和辻は『倫理学』『人間の学としての倫理学』において、人間は「間柄的存在(betweenness)」であり、国家はその最も具体的かつ歴史的な形態であると説いた。
⑵ 特に『国体の本質』(1940)では、国体とは抽象的理念や法的構成ではなく、伝統・文化・宗教を通じて形成された倫理的実体であり、国民と国家は切り離せない「倫理的一体」として存在する。 国家は理念であると同時に、生きられた歴史・文化の身体でもある。
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