夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十九〔相対的自由について〕

2020年01月27日 | ヘーゲル『哲学入門』

§19

Die *Willkür* ist Freiheit, aber sie ist *formelle* Freiheit oder Frei­heit, insofern sich mein Wille auf etwas *Beschränktes* bezieht. Man muss dabei zwei Seiten unterscheiden: 1) insofern der Wille dabei nicht in der Gleichheit mit sich selbst bleibt und 2) inwiefern er in der Gleichheit mit sich selbst bleibt .

十九〔相対的自由について〕

恣意は自由であるが、しかし、それは形式的な自由である。あるいは、私の意志が何か限定されたものにかかわるかぎりにおける自由である。人はそこで次の二つの場面を区別しなければならない。:1)意志がそこで自分自身と一致していない場合、そして、2)意志が自分自身と一致している場合。

1) Insofern der Wille *etwas* will, so hat er einen bestimmten, beschränkten Inhalt. Er ist also insofern ungleich mit sich selbst, weil er hier wirklich bestimmt, an und für sich aber unbestimmt ist. Das Beschränkte, das er in sich aufgenommen hat, ist also etwas Anderes, als er selbst; z. B. wenn ich gehen oder sehen will, so bin ich ein Gehender oder Sehender. Ich verhalte mich also ungleich mit mir selbst, weil das Gehen oder Sehen etwas Beschränktes ist und nicht gleich ist dem Ich. 

1)意志が何かを欲するかぎり、そこで意志は一つの規定された、限定された内容をもつ。意志はそれゆえにこの点において自分自身と不等である。なぜなら、意志はここでは実際に規定されているが、しかし、意志は本来的には無規定なものだからである。意志が自己のうちに取り入れた限定されたものは、したがって意志自らとは何か別のものである。たとえば、私が行ったり見たりすることを欲するなら、そのとき私は「行く人」であり、「見る人」である。それゆえ私は自分を自分自身と等しくないようにふるまうことになる。というのも、「行くこと」や「見ること」は制限されてあること(束縛されること)であり、(もともと無規定である本来の)「私」とは同じではないからである。

2) Aber ich verhalte mich der Form nach darin auch in Gleichheit mit mir selbst oder frei, weil ich, indem ich so be­stimmt bin, mich zugleich als etwas Fremdes ansehe oder dies Bestimmtsein von mir, dem Ich, unterscheide, weil, so zu gehen, zu sehen, nicht von Natur in mir ist, sondern weil ich es selbst in meinen Willen gesetzt habe. Insofern ist es offenbar zugleich auch kein Fremdes, weil ich es zu dem Meinigen gemacht und darin meinen Willen für mich habe.

2)しかし、そこでは私は形式の上では自らをまた自分自身と一致しているように、あるいは自由にふるまう。なぜなら、私がそのように規定されつつ、同時に何かよそよそしいもののように自己を見つめるからであり、あるいは、これらの規定されたものを、自身から、「私」から区別するからである。なぜなら、そのように行くこと、見ることは、生まれついて私の中にあるものではないからであり、そうではなくてむしろ、私は行ったり見たりすることを自分自身で私の意志のうちに取り入れたからである。 そのかぎりでは、行ったり見たりすることは、明らかに同様に私にとって他人事ではない。なぜなら私がそれを私のものとしたのであり、そして、そこでは私はそれが私の意志であることを自覚しているからである。

Diese Freiheit ist nun eine formelle Freiheit, weil bei der *Gleich­heit* mit mir selbst *zugleich* auch *Ungleichheit* mit mir vorhan­den oder ein Beschränktes in mir ist. Wenn wir im gemeinen Leben von Freiheit sprechen, so verstehen wir gewöhnlich dar­unter die Willkür oder relative Freiheit, dass ich irgend etwas tun oder auch unterlassen kann. — Bei beschränktem Willen können wir formelle Freiheit haben, inwiefern wir dies Be­stimmte von uns unterscheiden oder darauf reflektieren, d. h. dass wir auch darüber hinaus sind. — Wenn wir in Leidenschaft sind oder durch die Natur getrieben handeln, so haben wir keine for­melle Freiheit. Weil unser Ich ganz in diese Empfindung auf­geht, scheint sie uns nicht etwas Beschränktes zu sein. Unser Ich ist nicht auch zugleich heraus, unterscheidet sich nicht von ihr.

この自由はだから形式的な自由である。なぜなら、自分自身との同等性のもとにあって、同時にまた自分との不等性もまた存在するからであり、あるいは、自己のうちにある限定されたものだからである。私たちが日常生活の中で自由について語るとき、私たちは、ふつうそこでは、私はとにかく何かを行うことも、あるいはまた行わないでいることもできるといった気まぐれや、あるいは相対的な自由のことを理解している。⎯ 
私たちがこれらの規定されたものを私たちから区別しているかぎり、あるいはそのことを反省しているかぎり、言い換えれば、私たちがまた、規定されたものを超越しているかぎり、限定された意志のもと私たちは形式的な自由をもつ。⎯ もし私たちが情熱に囚われ、自然に駆り立てられて行動するなら、そこでは私たちは何ら形式的な自由をももたない。なぜなら、私たちの自我がこれらの感情に完全に埋もれているのであるから、これらの感情には私たちにとっては何ら制約されたものがあるようには見えないからである。また同時に私たちの自我はその制約を克服をしているのでもなく、それから自分を区別しているのでもない。



(※1)
この第19節は、先の序論§11〔意志と恣意〕で述べたことをさらに詳細に説明したもの。
ヘーゲル『哲学入門』序論 十一[意志と恣意] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/UVpXHq

(※2)
恣意、気まぐれ(Die Willkür)は自由は自由でもそれは「形式的な自由」でしかない。「形式的」であるとは、本来的に規定されない自由な存在である私は、限定されたあることを選んで自己と不等になることも、また、その選択を放棄して無規定な自己と同等であることも可能であるから。だから、それは選ぶことも選ばないこともできる相対的な自由であり、したがって恣意的、気ままである。
さしあたって私たちが何事かを意志するかぎり、たとえば、行ったり見たりすることを意志する場合、それは自己を規定することであり、自己を制約すること、有限なことにかかわることである。
意志の普遍性とは「私」の、自我の無規定性にあり、それゆえに自由なものであるが、しかし、「私」が、限定されたものに、有限なものに関係する場合の意志は制約されて、自由な自己と一致する場合と一致しない場合がある。

 

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