質は即自的には量であり、また逆に量は即自的には質である。したがってこの両者が限度(das Mass)の過程のうちで相互に移行しあうとき、これらの二つの規定の各々は、それらが即自的にすでにそうであるところのものへ移行するに過ぎない。
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 22:53
(小論理学§111補註)
普通の意識は事物を存在と考え、それを質、量、および限度(質量)の点から考察する。しかし、これらの直接的な諸規定は、その実不変的なものではなく、移行するものであり、そして本質がそれらの弁証法の成果である。しかし、本質においてはもはや移行は起こらず、ただ関係があるにすぎない。a
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 23:11
関係という形式は、存在においては我々の反省に他ならなかった。本質においては、これに反して、関係は本質そのものの規定である。存在の領域においては、あるものが他のものになれば、あるものは消失してしまう。本質の領域においてはそうではない。ここには真の他者はなく、区別、すなわち、b
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 23:21
あるものの、その他者への関係があるにすぎない。したがって本質の移行は、同時になんら移行ではない。というのも、異なったものが異なったものに移行しても、異なったものは消失してしまうのではなく、異なった二つのものはあくまで関係しているからである。例えば、我々が存在と無について語る場合c
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 23:34
存在はそれだけで存在し、同じく無もそれだけで存在している。しかし、能動的なものと受動的なものとの場合はまったく違う。この二つも存在および無という規定を持ってはいる。しかし、能動的なものはそれだけでは何の意味も持たず、それはあくまでも受動的なものに関係している。受動的なものも d
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 23:35
同じである。存在の領域では関係は潜在的であるにすぎない。これに対して本質においては関係は規定されている。これに対して本質においては関係は規定されている。これが一般的にいう、存在の諸形態と本質の諸形態との区別である。 e
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 23:36
存在においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが関係的である。(ibid.§111補註)
— review (@myenzyklo) 2017年9月24日 - 23:37