「直接的な,感覚的な意識は、それが同時に思考的な態度として振る舞う限り、主として質および量という抽象的な規定にかぎられている。感覚的な意識は、普通もっとも具体的な、したがってまた最も豊かな意識であると考えられているが、それは素材からのみそう言えるであるにすぎず、
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 12:17
思想の内容から言えば実際は最も貧しく抽象的な意識である。」(小論理学上s.261)
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 12:34
⎯⎯論理学の(もっとも難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んではいる。しかし、これらは反省的な悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを
それぞれ独立的なものとみると同時に、またその相関性をもまた定立する。しかし、この独立性と相関性とは並列的に、あるいは継起的に「もまた」によって結合するにすぎない。これらの二つの思想を総合して概念にまで統一することはしないのである。(ibid.,下s. 17)
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 12:38
「存在は直接的なものである。知識とはその存在に本来的にあるところの真理なるものを認識しようとするものであるから、直接的なものとそれらの諸規定に留まってはいない。存在の背後には、その存在とは異なったものとしてあるところのものが、
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 13:10
その存在の真理を作り出すものだ、ということを前提としてそうするのである。」(大論理学中s.3)
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 13:11
「この認識は媒介された知識である。なぜならこの認識は直接に本質のもとにあるものでなければ、また本質のなかに見出されるものではなくて、本質とは他者としての存在から出発して、あらかじめ一つの道を通って、
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 13:24
つまり、その存在を超えて出てゆく、あるいは、その存在へと入り込んでゆく道程をたどらなければならないからである。」(ibid.,s.3)
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 13:25
概念を存在および本質の真理と呼ぶならば、なぜ概念から始めないのかという質問を覚悟しなければならない。その答えは、思考的な認識が問題になっている限り、真理から始めることできない、ということである。なぜなら、真理が始まりをなすときは、真理は単なる断言にしか過ぎないが、
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 14:08
思考された真理というものは、もともと思考に対して確証されたものでなければならないからである。(小論理学下s. 119)
— review (@myenzyklo) 2017年8月6日 - 14:08