夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)

2008年08月12日 | 国家論

 

国家がみずからの概念にしたがって発展させるとき、そこに三つの区別が現れる。まず、    (1)国家の普遍的な原理を確定する権力としての立法権、
継いで 、(2)特殊な領域としての市民社会や、個別的な領域である個人(家族)を普遍的な原理のうちに統制するものとしての統治権、
そして最後に、
             (3)究極の意思決定の主体としての君主権。

この君主権において、先に区別された諸権力が、一個の個体として統一して束ねられている。君主権は全体の、すなわち立憲君主制の頂点であり、始元である。

先のノートにも述べたように、三権の分立といえば、モンテスキュウの「立法権」「行政権」「司法権」が取りあげられて、このヘーゲルの三権分立論が取りあげられることはほとんどないが、彼は論理学における概念の本性についての洞察から、上記のように区分する。くりかえすなら、普遍的な原理にかかわる立法権と、市民社会や家族(個人)に対して普遍的な原理を適応する統治権――モンテスキュウの行政権と司法権はここに含まれる――と、そして、最後に継いで究極の意思決定の主体としての君主権を、憲法(国家体制)の区分として導き出す。そして、この君主権をもって、国家の頂点すなわち区分された諸権力を総括する立憲君主制の頂点と見なす。

そしてさらに、国家を立憲君主制に作り上げることは、主体としての理念が「無限の形式」を獲得した現代の世界の事業であるという。そうして、倫理的な生活を真実に具体化して行くことは、普遍的な世界史の事実であるという。もちろんここで論理と歴史の究極的な一致が洞察されていることは言うまでもない。

さらに君主制、貴族制、民主制に分類する古代からの憲法(国家体制)についての従来の見方については、それらはまだ自己を展開して分割しきっておらず、主体的な統一を保っており、それらはいずれも支配者の数量にもとづく外面的な区別にすぎないという。それらは古代の世界においては正当な区別であるとしても、いまだ具体的に展開された組織として深さと合理性に到達しておらず、事柄の概念がしめされた分類ではないと言う。

続いて、ヘーゲルはフィヒテの憲法観を取りあげる。フィヒテは、憲法(国家体制)においては、統治し命令すべき国家という抽象物が形式的に定められていれば十分で、国家の頂点に立つ者の数はどうでもよいという。しかし、こうした見方では、普遍、特殊、個別という諸要素を論理的に展開した理念に一致せず、したがって正当性も現実性も獲得できないという。

さらに、モンテスキュウの主張する民主政治や貴族政治、君主政治という政治の形式的な原理についても、その洞察の限界について触れる。文化が進み、市民社会が進展して、特殊な領域が発展しさらに自由化されたときには、国家の首長の徳という心的態度だけではそれらはいずれも必要十分な権利を与えることができず、合理的な法律の形式が不可欠になるからである。そして、モンテスキュウが君主政治の原理を名誉(特権を与えられた人格)に認めている点で、それは客観的な法に基づく義務による近代的な立憲君主制でもなく、封建的な君主政治であることを指摘する。

最後に、「誰が憲法(国家体制)を作るべきか」という問いを取りあげる。しかし、この問いは、憲法(国家体制)の存在しないことと、単なる個々人からなる群衆の存在を前提していることから、無意味だという。憲法(国家体制)はすでに存在しているし、群衆は国家の概念には関わりを持たないからである。ただこの問いは、憲法(国家体制)の存在を前提にするときは、それをどのように変革するかという意味になり、そのときには変革そのものも憲法にしたがって行われることを意味している。

しかし、ヘーゲルがここで強調していることは、時代のなかに憲法が現れるとしても、それを作られたものとは見なされないことが絶対的に本質的なことであるとしていることである。なぜなら憲法は絶対的に必然的な存在で、神聖で恒久的なものと見なされるからで、作られるものという領域を超えたところに存在するものと見なされるべきだからだという。

これらの憲法観は、戦後の日本の憲法論争に一つの視点を与えるもので、今後の日本国憲法の改正論議にも裨益する点は少なくないと思われる。とくに、戦後の日本国憲法はGHQの手によって「作られた」という議論の多い中で、あるべき憲法の姿を考える上で一つの参考になると思われる。

ただ、ここでいう憲法(国家体制)という概念が、同じ日本語としては憲法と翻訳されるKonstitution(Constitution)と明確に区別される必要があると思われることである。ここでヘーゲルが憲法(国家体制)としているVerfassungは、実定法ではなく自然法しての憲法の意義をもつように思われることである。現行の日本国憲法はむしろKonstitutionであって、ヘーゲルがここで念頭に置いているVerfassungではないように思われる。

Verfassungの語源から言っても、この意義における憲法とは、すでに存在するもの、神聖で恒久的なものをつかみ、把握し理解して、それを言語化し言明したものを指すように思われる。だから、ここでヘーゲルの論じるVerfassung(憲法・国家体制)は、明治期に明らかにされた皇室典範などの意義に近いのではないだろうか。戦後に制定された日本国憲法は概念としてはKonstitutionに近く、明治期に制定公布された大日本帝国憲法はVerfassungに近いといえる。

 

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