hishikaiさん、丁寧なご説明ありがとうございました。「日本の伝統的な土俗的天皇信仰」が、やがて西欧列強との対決や日米開戦に帰結するというあなたのお考えの趣旨は理解できたと思います。
「日本の伝統的な土俗的天皇信仰」が、「戒律を廃した法の不在という「思考形式」」として拡大し普遍化し、やがてそれが漱石や伊藤博文らの天皇観をも淘汰してゆき、国民大衆の狂信的な排外主義として拡大し帰結したためだと理解しました。
ただ、このあなたの見解は、「国民大衆の下層からの強力な天皇信仰」が日米開戦の主要因と見ているらしい点では、日本国憲法の前文でも主張されているような「政府の行為によって」「再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」という戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が公式見解として打ち出している認識とは異なっているようです。
GHQが自らの憲法草案に織り込み、憲法の前文で厳かに宣言しているように、(それは単なるレトリックなのかも知れませんが)、日米開戦の主要因は、国民大衆にではなく政府(の指導者たち)にあると見ているように読むことも出来ますから。
日米戦争や日中戦争のように、「戦争がなぜ起きるか」という問題はそれほど難しい問題ではないと思います。それはちょうど、蛇や鷹などの生物が互いの生存を賭して戦うのと本質的には変わらないと思います。人間も含めイヌやブタなどの動物たちと同じように、現代の国民国家も、それぞれ本質的に排他的な独立した個体だからだろうと思います。
だから、戦争の本質を、国民大衆や哲学者、政治的指導者、好戦的な軍人などの、国民国家を構成する要素に見るのではなく、「国民国家」の存在自体が本質的にもつ論理に見るべきだろう思います。確かに、、国民大衆や哲学者、政治的指導者、好戦的な軍人などは、国民国家を構成する重要な要素だと思いますが、それぞれの運動は本質的に偶然的です。ただそれらの集積が一つの必然として戦争が発生するのだと思います。
だから、hishikaiさんのように「伝統的な土俗的信仰習慣」の筋から日米開戦を見る見方も、私のように、国民の民主主義の能力から日米開戦に至る筋を見る見方も、かならずしも間違ってはいないと思います。戦争の要因は単一にとどまらず、さまざまの偶然的な複合的な要因が集積して、その結果、国家自体の論理として必然的に戦争が生じるのだと思います。
ただ、今のところ、その中でも、国家を構成する「市民社会」の論理、「人間の欲望」の論理、マルクス流に言えば、「資本主義の論理」がやはり、近現代の戦争の論理をもっともよく説明するのではないかと考えています。
そら(ANOWL)