夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

景観条例――都市と農村の景観問題

2008年05月26日 | 国家論
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。
 

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個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
  
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